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驕れる神々の群れ/フツとセオ
※ 第一部終盤の内容を含みます。

「フツが戻ってきた?」
 作業場に響いた若い主の声の鋭さに驚いて、談笑しながら毛織物を選別していた下男たちの手が止まった。セオは口数が多い方ではなかったし、感情的になることも声を荒げるようなこともめったになかったのだ。
 思いのほか強い反応に圧倒されつつも、禿頭の男が続けた。
「ええ、もうとっくにご存じかと思ってましたが。この春から、モルツィイの神殿付を命じられたそうで」
「人違いじゃないのか」
「それが、この目でしかと見ましたんで。今朝到着されたとき、ちょうど私も街門にいたんですよ。立派な神官様におなりで……」
 しばらく黙りこんでから、セオは勢いよく立ち上がった。
「神殿に行ってくる」
「セオ様?」
「すぐに戻る」
 届いたばかりの織物の山の処理を任せると告げて、セオは家を飛び出した。
 夏市の準備に向けて多忙を極める時期である。たとえ一時であれ、ふだん仕事しか頭にない男がそれを放り投げていくとは。フツはセオの古い友人であるとはいえ、まったく彼らしくないことだった。
 残された者たちは信じられないとでもいうように、目を見合わせた。

 フツは神殿に併設された書記学校の入口にいた。かつて共に学んだ場所だった。
 太陽が一番高いところにくる時分である。すでに授業は終わり、二人の他には誰もいなかった。
 足音を聞きつけたか、フツが振り返った。
「やあ、セオ」
 拍子抜けしてしまうほど、軽い挨拶だった。
「やあ、じゃない」
 セオは渋面をつくった。
「戻ってくるのなら、連絡くらいよこせよ」
「難しい注文だな。私の立場を理解しているだろう?」
 フツは肩をすくめて、黒衣の裾をひらりと遊ばせた。
 神籍に身を置く者が一商人に書簡を送ることなどできない。そんなことはわかっている。それでも文句を言いたくなったのは、今もまだ彼を友人であると思っているからだ。
「君もご家族も、健勝のようで何よりだ」
「お前こそ。案外変わっていないな」
「神官らしくない?」
「俺の立場では、申し上げかねる」
 こみ上げそうにになる笑いを、フツは黒い袖の下で殺した。
 親しい人間との再会である。その後も話は尽きなかった。
 もう二度と会うことはないと思っていた。南に発つとき、郷里の神殿に配される神官はいないと聞いていたから。帰郷の報を耳にしてもにわかには信じがたかった。
 それが事実だと知った瞬間、腹の底から熱いものが溢れでた。雪景色が一変して、突如春が来たようだった。暴力的ですらある未知の衝動にせき立てられ、神殿まで全力で走った。
 だが、しばらく話をするうちに感づいた。
 話しぶりも態度も以前と同じような親しさを装ってはいるけれど、フツは明らかに距離をとっている。心も身体も。
 それは身分の差か、二人の間に置かれた時間の違いか。
 フツもセオも幼い子供ではなかった。
 たとえ多少のわだかまりがあったとしても、世間話くらいはできる。
 ただ、重ねる言葉のどれもが表面を上滑りしていくのがもどかしい。
 そのとき、本殿の鐘が鳴り響いた。フツは視線を移した。
「そろそろ行かないと」
「忙しいときに引き留めて悪かったな」
「いや、きょうでよかったよ。正式に神殿付を命じられるのはあしただから。次の神事には来るのか?」
「ああ」
 日ごろ熱心に神殿に通っていないことは伏せていたが、セオの性質をよく知るフツのことだ。そのあたりは察しているに違いなかった。
 簡単に別れの挨拶をすませると、セオは門へ歩きはじめた。
 しかし、数歩進んだところで立ち止まった。
 これでいいのか、と自問する。
 セオは勢いよく振り返った。
 目線が真正面でぶつかった。
 フツはまだこちらを見ていた。
 素直な驚きが顔中にさあっと広がった。フツは慌てて顔を背けた。
 突然のことだったから、ありのままの感情を神官の黒衣に隠しそこねてしまったようだった。
 そう、フツはそういう人間だった。明朗で、誠実で、賢く、しかしその美点でも補いきれない脆さに苦しんでいた。
 セオはフツの元に駆け寄った。
 距離を詰めると、わずかにフツが身を引いた。逃がすまいとその腕を掴む。
 耳元にそっと囁いた。
「フツ、教えてくれ」
「何を」
「聖典に、神官が商人を友としてはならないという記述はあるのか」
 はじめは意味がわからなかったらしい。
 ややあって、やっと聞き取れるくらいの小さな声がした。
「……ない」
 なぜか耳まで真っ赤になっている。 
「なら、よかった」
 安堵の息をついた。
「辛いことがあれば俺に言えよ。お前は我慢しすぎるからな。文句も愚痴も聞く。神官相手じゃ言えないだろ。ええと、それから」
 セオは彼なりに、笑顔のような表情をつくろうと努力した。それから、ようやく伝えたかった言葉にたどり着いた。
「おかえり」
 フツは呆然とセオを見つめた。
 眼差しが陰った。眦が歪んだ。
 あの春。
 彼は、ほとんど泣きそうな顔をしていた。

 刑場に向かう途上、歪んだ視界の端に彼がいた。あのときと同じ顔をして。
 喉はすでに潰されていた。
 それでも、すべての言葉を失ったわけではない。
 沈黙のうちに問いかける。祈る。呪う。
 神よ、どうして俺の腕は動かない。
 痛めつけられ、戒められ、ようやく肩にぶら下がっているこれを、名もなき者よ、頼むから動かしてくれよ。
 あいつのところに行って、涙を拭わなければならないんだ。
 それが俺のつとめなんだろう。
 俺は、そのために生きてきたんだろう?

 泣くなよ、フツ。

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