夏の兆し
 あまたの王や領主が栄華を極めていた時代、ある古い街でのこと。古典語学校からの帰り道、友人であるふたりの少年は、夏の日差しがもたらす汗をぬぐうことも忘れ、その日授業で取り上げられた著名な文学作品の歴史的評価について、表面的には冷静に、しかし内面的には情熱をもって議論を交わしていた。もっとも、主として口を動かしているのは背の低い少年であって、背の高い少年は聞き手として、興味深そうにその話題に耳を傾け、時おり穏やかに笑ってうなずいたりしてみせた。
「あの書物は価値あるものだけど」
 あらかた言いたいことを吐きだし終えたあと、少年は不服そうに言った。この時ばかりではない。彼はいつも腹を立てていた。世のあらゆる不正と理不尽とに正面から戦いを挑み、怒っていた。
「恋愛に関しての記述は納得できない。恋だの愛だのなんて、学問の前にはただ害でしかないんじゃないか?」
 友人は柔和な態度を崩さず、僕にはよくわからないな、と曖昧に答えた。
 このようなやりとりを経たのち、やがて裏通りの十字路まで行き着くと、兄弟と思しき子どもたちが、石畳のうえで熱心に話しこんでるのがふたりの目にはいった。
 どちらからともなく、会話が途絶えた。
 路上には四人をのぞいて人の気配はなく、幼い兄弟は話に夢中で、傍観者の存在に気付いてはいないようだった。子どもたちはよく似た顔をくしゃりと崩して、心底楽しげに笑いあった。
 兄弟の間には、ただ純粋な愛情があふれていた。それは、人が持ちえる最も美しいもののひとつであった。瞳は相手にのみ向けられていて、ひとつの独立した世界を創りだしていた。それは何人にも侵すことの許されぬ、聖なる領域だった。
 ふいに、他人の無防備な裸の心を、こっそりとのぞき見てしまったような罪悪感に襲われて、背の高い少年はかすかに顔を赤らめた。そして、隣りに立つ友人に視線を移した。彼もまた、耳が少し赤かった。
「なんだか……照れるね」
 指で軽く頬を掻いて言うと、友人は小鹿が跳ねるようにびくんと顔を上げた。瞳が正面からぶつかりあった。少年は大きな目をさらに大きくさせて、はじめて見るように彼の友を見た。
「どうしたの?」
 おずおずと問いかけると、ひと息の沈黙をおいて、見下ろした顔の色がほんの一瞬にして真っ赤に染まった。驚いて再度どうしたのかとたずねると、顔をそむけ何でもないと答える。気遣わしげに伸ばされた手を振り払い、もう一度何でもないとひとこと言い捨てると、黒い外套をばさりと翻し、家のほうへと走り去った。
 残された少年は、その様子をぽかんと眺めていた。が、やがて我にかえると、友人の名を呼びながら、そのうしろ姿を頼りなく追っていった。
 季節は夏。このとき、夏風に漂う甘い香りに似た、ほんのわずかな兆しが胸をかすめたことを、彼らはまだ知らなかった。