司教猊下の金庫番
 あるよく晴れた日の午後のことだった。草原を横切って伸びる道を、のんびりと歩を進める二頭の馬の姿があった。
 街道とは名ばかりで、土は剥き出し、石は好き勝手な方向に転がり、草は伸びっぱなしで、ろくに整備されておらず、旅装束に包まれた馬上の二つの頭は、常にせわしなく上へ下へとぐらぐら揺れていた。天はどこまでも高く、小鳥の影が青い天井にすっと一本の線を描く。しかし、ふたりは詩人の魂はもちあわせていなかったので、それに気にとめる素振りも見せなかった。
 どこから見ても頼りなく、権威とは程遠いその後姿を、身なりのよい人々の群れが、目に涙を潤ませて、はるか遠くからいつまでも見送っていた。その様子は、人々の身なりだけではなく、心もまたよきものであることを物語っていた。
 しばらく行くと、ふたりの旅人のうち、あとに従ったほうが、自分の鞍に吊るした麻袋をちらと見やってつぶやいた。
「豪農とはいっても、この地方の人々はまったく、古きよき徳を忘れていないようだ」
 そのことばとは裏腹に、まなざしにはうっすらと皮肉が浮かんでいた。まだ少年と呼んでも差し支えないほどの見た目であるのに、どこか冷めた口調は、年齢を感じさせなかった。
「三六枚売れたから、金貨百八枚の儲け……ああ、世俗的な表現はいけませんでしたね。この袋の中でチャラチャラ鳴っている音は、天国の門の鍵のかわりでしたっけ」
 少年はふんと鼻を鳴らした。
「口のうまさも、ここまでくれば芸術ですよ。本気で商人に鞍替えするつもりはありませんか?」
 前を行く男は、背に投げかけられた皮肉に気づくも、振りかえることなく、ただ肩をすくめてこたえた。
「残念ながら。わたしは、この役目がなかなか気に入っていてね」
「商人なら、ただの紙切れが金貨に換わる魔法を使っても、罪悪感を感じることはありませんよ」
「その上、罪悪感も感じていないんだ」
 呑気な声だった。男は若かったが、その物腰は穏やかで、若者に特有の性急さは感じられなかった。男は続けた。
「形はどうあれ、人間の心には保険が必要なのさ。根っからの商人であるきみなら良く知ってるだろう、リヒャルト」
 馬が歩くたびに、声はぶれ、枯れ草色の外套の下から、僧衣がちらちらと見え隠れしていた。
 それが目の端に映ると、リヒャルトは神経質そうに眉をひそめた。
「……あんた、本気で悪人だね」
「何か言ったか?」
「いいえ。とりあえず、街に着いたらまず銀行に行きましょう。この袋の中でチャラチャラ鳴っている天国への鍵を預けておかないと。これで、残り金貨二千七百四十八枚です」
「さすがに計算が速い」
「お褒めに預かり光栄です。ところでフランツ殿、この任務はいつまで続く予定なのですか」
 言いながら、少年は懐から一枚の紙を取り出した。そこには、印刷術の発展により大量生産されたありがたい聖句が、紙面にみっちりとつづられていた。
 ふたりの任務とは、国中を回って、この紙切れを売って歩くこと。ただし、ただの紙切れに贖罪という効験をもたせるには、フランツの僧服と、口先の技術が必要不可欠だった。
 フランツの説教を聴いた人々は、不思議なことに、元手はただに等しいこの紙を、何倍もの金額を払って、喜んで買い求めるのだった。興奮のあまり、涙を流す者までいた。良心さえ押し殺せば、まったくわりのいい商売である。
 そして、手に得た金貨は銀行を通して、リヒャルトの生家、つまり金貸しを生業としている商家の口座に流れるのだった。
「さてね。こればかりは、神のみぞ知りたもうところだ」
「ぼくとしては、できるだけ早くくにに帰って、商いの勉強を再開したいのですが。まだ学ぶことはたくさんあるんです」
 憮然と言う少年を振り返って、フランツは馬上からにっこりとほほえんだ。
「つれないことを言うな。しかし、案外、きみ自身もわたしと旅できるのを楽しんでいるんじゃないのかい?」
「まさか」
 静かに驚く声は、しかし暗に心外だ、と叫んでいた。
「素直じゃないな」
「でも、父の命です。与えられた仕事は最後までこなしますよ。あなたへの心象がどうであれ」
「はは、お互い辛い立場だね。では、今代の司教猊下が長生きされることを祈りなさい。次に代替があったら、また入用になるのだから」
 フランツは、自分の足にあたっては離れを繰り返し、窮屈そうにゆれている袋を見下ろした。このなかの金貨は、すべて借金の返済にあてられる。数年前、ある都市の司教が新たに選ばれた折に、上へと献上する莫大な額の金貨を、彼は借金でまかなったのだった。そしてその司教は、フランツの上司だった。
「その前に、あなたがまじめに仕事をしてください。この間だって、きれいな若い女性には安く売ったりして」
 ぶつぶつと文句を言うリヒャルトをさえぎって、「おや」と、フランツが顔をあげた。
「何ですか」
「いや、あそこで、子どもが泣いているようだ」
 視線の先には確かに、泣く子を抱いてうずくまる、母の小さな影があった。街道には、彼らのほかには人の姿はない。
「捨てられたか、夫を殺されたのでしょう。近頃は、街道沿いですら物取りが出るといいますし……フランツ殿?」
 フランツが素早く荷に手を伸ばすのを、リヒャルトは見逃さなかった。若い僧侶は大仰に肩を落とした、素振りを見せた。
「ああ、しまった。リヒャルト、本当に参ったよ。残念なことに、どうやら金貨の袋の紐が切れてしまいそうなんだ。代えも手持ちにないし……これは、街まで持つかな」
 わざとらしい物言いに続いて、少年はすかさず事務的に返した。
「あと、残り金貨二千六百六十四枚ですね」
 それを聞いた僧侶は顔面いっぱいに、見せかけの春の日差しのようなほほえみをたたえた。
「きみ、やっぱりわたしのことが好きだろう?」
 少年はつんと顔を上げてこたえた。
「まさか」