夏草一景
 緑も濃い山々の間に、夏草の茂った草原が広がっていた。昨夜降った雨が、生温かく湿った空気にのせて、土と草の放つ青臭いにおいをあたりに満たしていく。雨粒があまたのしずくとなって葉を濡らすと、夏の鋭い日差しがそこに目の眩むような生の力強い輝きをもたらした。しなやかに伸びる丈の長い草の先には、雲ひとつない突きぬけるような青い空が広がり、根元にはふたつの影がうごめいていた。
「淫売が」
 上の影が、忌々しげにつぶやいた。
「血は争えないな」
 下の影は何も応えなかった。
「その上、盗っ人ときた」
 ことばにのせて、侮蔑をこめたまなざしを送る。
「俺の家の畑から盗んだ実は熟れていて、さぞうまかったろう? 母親に聞いておけ。もっとも、あの女に食い物なんぞいらないんだよ。ほっといても、腹はどんどんふくらむんだ」
 そういうと相手の髪をつかんで、自分の眼前まで乱暴に引き寄せた。服の下からのぞく、汗ばんだ平らな胸が、ゆっくりと上下に動くのを感じる。
「お前は運がいいよ。見つけたのが俺だったんだから。俺は慈悲深い。でも、親父はどうだろうな」
 勝者の笑いの奥に、剣のような光がぎらついた。
「罪人は金のたっぷりつまった財布から一枚抜いて何が悪い、金持ちには屁でもないだろうと言いやがる。確かにそうだが、盗みは盗みだ、文句があるなら法に言え。淫売の股の間から生まれた不幸を呪え」
 そう言うと、自ら起こした身体を、ふたたび土の上に押し付ける。しかし、組み敷かれたほうは、抵抗することもなしに、まつげの落とした影の下から、ただ感情のない視線のみを向けた。それから、いかにも眩しそうに目を細めた。耳に入る声など、まるで頬をかすめる風の音としか思ってはいないようだった。
 これはいなすことのできない侮辱だった。声が自然と激しい調子をおびた。
「何か言えよ。それとも、ことばまで母親の腹の中に置いてきたのか?」
「君は」
 そのとき、沈黙を破って、下方から単調な声が響いた。
「外でするのが好きだね」
 唇に笑みが浮かんだ。その笑い方は母親によく似ていた。
「このにおいが、草にまぎれるとでも思っているのか?」
 少年はことばを失って、真下で自分を射抜く瞳を凝視した。それまで草の上に放りだされていた腕が、のっそりと持ち上げられた。青ざめた表情に、汚れた指が突きつけられた。
「ほら、よく見ろよ」
 指の先の顔面が、唾を吐きかけられたように、ゆがんでいった。
「吐き気がする」
「においに? 僕に? それとも」
「うるさい」
「鼻をつまんだって消えるわけじゃないよ」
「口を閉じろ」
 命じたとおり、確かに口は閉じられた。しかし、遠くを眺めるまなざしは、ことばより多くを語った。少年は顔の色を失って、勢いよく腕を振り上げた。
「黙れ!」
 拳が、日の光をたっぷりと浴びた夏の風をきった。鈍い音が、空の青さに溶けて消えた。それから髪をつかんで顔を上げ、貪るように口付けた。肉の味しかしなかった。