昼下がりの告解室
「あら」
 保健室に足を踏み入れた途端、女は思わず声をあげた。
 視線の先には整然と並べられたパイプベッドの群れ、そのひとつが白いカーテンに囲まれている。青緑の床には、上履きが二足、きちんと並べられていた。えんじのつま先。二年生だ。
 先ほどまで無人だったはずの室内に、今ではたしかな人の気配があった。席を外したのは、ほんの十分程度だったはずなのだが。
「誰かしら?」
 返事はない。かわりに、静かな寝息が聞こえてきた。若い養護教員は苦笑しながら、カーテンを引こうと手を伸ばしかけ、しかしそれを押し留めた。よく寝ているようだし、無理に起こすのもかわいそうだ。それに、十三か四か、この年頃の子は、無防備な寝姿を見られるのを、ひどく嫌がることがある。
 彼女は机に向かうと、手にした茶封筒から書類を取り出して、記入をはじめた。作業がしやすいように、白衣の袖をまくる。むきだしの白い腕に、太陽の光が降りそそいだ。
 気持ちのよい日だった。穏やかな空気のなかを、静かな時間が流れていく。開け放たれた窓からは、若葉の強いにおいがかおっていた。きつく結わえた髪をなでるように、あたたかな春の風がやわくとおりすぎていった。
「先生」
 だしぬけに、カーテンの向こうから、細い声が聞こえた。養護教諭は、車つきの椅子をくるりと回して振りかえった。
「あ、起きた?」
「ごめん、誰もいなかったから、勝手に寝てた」
 あくびまじりの返事には、まだかすかに眠気がまじっていた。少女のように高くはなく、しかし成人した男のように低くもない。少年の声だ。
「今日はどうしたの」
「ちょっと頭痛くて。でも寝たらだいぶよくなったよ」
「体温は?」
「計った。三十六度」
「熱はないみたいね。あ、そうそう」
 言いながら、教師は机上のクリップボードに手を伸ばした。
「紙に学年と名前、それからどんな症状があるか書いてくれる?」
「今?」
「できれば」
「あとじゃだめ?」
「調子が悪いんなら、わたしが書こうか?」
「いい。自分で書くよ。でもあとで。もう少し寝てていい? 寝不足なんだ」
「それは、構わないけど」
 薄化粧の額に、皺がよった。
「あんまり夜更かしちゃだめよ。ゲームとか、テレビとか」
「そんなんじゃないよ。色々あるんだよ、色々」
 ふてくされたような声だった。その子どもっぽい仕草を、うっかり可愛いなどと口にしたら、ひどく気分を害するだろう。彼の言うとおり、「色々」あるのだ。大人は忘れがちだが、彼らだって真剣に考え、悩み、生きている。それを軽く扱うのは失礼だ。
 少しの沈黙を置いて、彼は静かに言った。
「先生、あのさ」
「ん、何?」
「そこでいいから!」
 引きかけた椅子は、強い拒絶に押し戻された。
「……あのさ」
 この、糸のぴんと張り詰めたような緊張感。教師としての経験が、カーテンの奥に隠れた表情を、敏感に嗅ぎ取った。
「おれ」
 ふたたび、重い沈黙がたれこめる。だが、彼女は何も言わない。待つことしかできないのを知っていた。大人のあせりは、確実に少年を傷つける。
「あの」
 きごちなく、彼は続けた。
「好きな、やつがいるんだけど」
「うん」
 また沈黙。ややあって、彼は罪でも告白するように、苦しげに息をはいた。
「男」
 乾いた笑い声がもれた。
「だって、おかしいって。自分でも気持ち悪いよ、ほんとう。なんでおれが、なんで男、って感じ。この間だって、本屋に行ったとき、そういう本見つけて、ありえねえとか友だちと笑ってたのに」
 声音は静かだったが、心は叫んでいた。消毒薬のにおいに満ちた空気が、わずかにゆれた。
「夜寝るとき、電気を消すとだめなんだ。何か、うす暗いなかで頭だけが勝手に動いて、ぐるぐるする。変な想像ばっかりしてしまう。何回も寝返り打ちながら、これは悪い夢だった、明日にはもうぜんぶ忘れよう、やり直そうって思うんだけど、やっぱり無理。会うと、顔とか、赤くなって。あいつは知らないから、ふつうに触ってくるし。でも、おれは違う……違うんだ。いつかばれちゃうよ、おれが変態だって。そしたら、きっとみんな軽蔑する」
 カーテンに仕切られた小さな空間。声だけのやりとり。見えない顔。以前、これと似たようなものを、古い映画の一場面で目にしたことがある。教会の告解室だ。けれど、ここは保健室だし、彼は罪人ではない。
「からだのなかから、腐っていくみたいなんだ。どうしたらいい、先生、どうしよう……」
 だから、彼女はほほえんで言った。
「おめでとう」
「え?」
 カーテンに映った影が、横たえていた半身をがばと起こした。教師は、天気の話しでもするふうに、こともなげに言った。
「だって、地球にどのくらいの数の人間がいると思う? 何十億人よ、何十億。そのなかからたったひとり、好きな人と出会う。それって、すごいことじゃない?」
 ゆっくりと、繰り返した。
「だから、おめでとう」
 激しい嗚咽が、小さな世界を振るわせた。
 窓から見える景色は、うすだいだいの空気に滲んでいた。音楽室のほうから、かすかな歌声が重なりあって、風をたどるように流れてきた。それから、書類にペンをすべらせる音、校庭にあふれる明るい歓声、遠くにかすむ土煙。木々は濃い緑の葉をいのちのかぎり勢いよくゆらし、薄手のカーテンは日の光を受けて透け、風に大きくふくらんでいた。
 すべてはきみを祝福する。