小話その1
 仕事が早く引けたので、その晩は後輩と会社近くの居酒屋に飲みに行くことになった。
 気持ちよく酔いが回り始めてきた頃、後輩の山田がちょいちょいと吉崎の指を摘んできた。
「何だよ」
「先輩最近太ったんじゃないっすか?」
 屈託なく爆弾を落とされて、吉崎は唐揚げに伸ばしかけた箸をぴたりと止めた。
 山田はほどよく炭酸の抜けた体育会系という雰囲気の男で、さっぱりして付き合いやすいのだが、仕事も言葉遣いも、あらゆる面でやや雑なのが難点だった。
 確かにここのところ肉付きがよくなっているような気はしていた。思い当たる節はひとつしかない。槇野は料理が上手く、二人で食う飯は旨いのだ。
 箸は何事もなかったかのように唐揚げを通り過ぎてサラダに向かった。
「彼女とうまくいってんすか」
「うん、まあな」
「やっぱり。最近、先輩つやつやしてますもん」
「脂ぎってるってことか?」
「いやいや、そういう老化現象みたいなのじゃなくて、若返ってるっているか、生命力が漲ってるって感じです」
 老化……俺相手だからともかく、言葉は選んだ方がいいぞと思いつつ頬張ったレタスをもしゃもしゃする。
 吉崎の肌状態だけでそれ以上話が盛り上がるわけもなく、話題はほどなく後輩の恋愛相談に移った。
 学生時代から付き合っている彼女との関係は倦怠期の一歩手前で、旅行に行ってもサプライズを仕掛けても、いまいち新鮮味がないのだと嘆かれる。
「五年目っすからねえ」
 自分相手に相談を持ちかける人間が的確なアドバイスを求めているわけがないと承知しているから、吉崎は適当なところでふんふんと相槌を打つことに専念していた。
「でも、あっちは悪くないんすよ。むしろよくなってるっていうか」
「へえ」
「ここだけの話、付き合い長くなってくると開発したくならないっすか?」
「開発?」
「やだなあ、もちろんカラダっすよ、カラダ。彼女を俺なしではいられない身体にしたい、ってやつですよ」
 山田はにやりと笑い、酔いが入っているにしてもなりきわどい体験談を話し始めた。
 ん?
 んん?
 妙な親近感を覚えて、吉崎は頭をひねった。
 男が集まれば自然と猥談になることも多いが、普段は右から左に聞き流している。具体的に想像すると、相手の女の子が気の毒だと思うからだ。
 しかも後輩相手なのだから、いつもの吉崎なら適当な話題を振って流れを変えるところだ。
 だがこの日は違った。後輩が自慢げに披露してくるテクニックにいつになく真剣に耳を傾けてしまい、先輩も好きっすねえと山田に冷やかされたぐらいだ。
 好き者呼ばわりされるのは心外だが、後輩の語る「開発」ついて身に覚えがなくもない。そして山田がしている大きな誤解をあえて訂正はしなかった。吉崎が共感しているのは彼でなく、あの手この手を尽くして愛し抜かれる彼女の方である、と。

 帰りの電車で、偶然槇野と出くわした。始終顔を合わせているとは言え、こうしてばったり外で会うのは嬉しいものだ。
 吉崎に気づいた瞬間、槇野の眦が柔らかく崩れた。
「残業?」
「いや、後輩と飲んできた」
 ちょうど目の前の席が二つ空いたので、並んで腰掛けた。
 槇野の横顔をじっと見つめる吉崎の胸に、後輩から聞いたばかりの生々しい濡事が去来する。
 開発、開発、開発……。
「かいはつ」
 言わなくていいことが思わず口をついて出てしまった。槇野が怪訝そうな表情をした。
「何?」
「寝言だよ」
 寝たふりするために目を閉じる。スーツ越しに人肌のほのかな温かさを感じたとたん、悩みは一秒で解決した。
 ま、それもいいか。
 吉崎は深く考えるのをやめて、他の乗客よりもほんの少し近い距離にいる男に片側を預けた。
 次の停車駅を知らせるアナウンスが遠くなっていく。ぐうぐうというわざとらしい呼吸音は、いつしか静かな寝息になっていた。