竜の眼
 ある小国の中心に建つ城の一室は、王の執務室と呼ぶにはあまりにも素朴な設えであった。装飾品と呼べるものはほとんどなく、金銀の糸で縁取られた古びた綴れ織りの壁掛けのみが、かつての華やいだ暮らしを物語っていた。
 秋のはじめだというのに、あたりは冬を思わせる冷涼な空気に満ち、壁の至るところに生じた結露のために部屋全体がじっとりと湿っているようだ。
 いくつもの燭台が壁に沿って用意されてはいるが、灯されているのはもっとも王座に近しいひとつだけ。その弱々しい光が、城主たる若い王の精悍な輪郭を柔らかく照らし出していた。
 領地の惨状を蕩々と伝える家令の声を聞くグンテルの横顔には、黒い影が深く刻まれていた。窓の外に鳶色の瞳を投げかければ、霧のような雨が音もなく天から落ちて、領地を冷たく濡らしているのが嫌でも目に入ってくる。稜線も畑も森林も村の影も、悪夢のような濃灰色にすっかり飲み込まれてしまっていた。
 この天から垂らされた細い糸の如き雨が降り続けて、もう一月にもなろうか。未曾有の長雨は恵みをもたらすどころか、大きな災いとなって大地を支配した。
 本来であれば、秋は実り豊かな収穫の季節である。だが、グンテル王の治める地では、王の税となり民の食料となるはずの作物は腐り、村々には疫病が蔓延し、野の獣は去り、森の木々は実りもなく枯れ果てていくばかりだった。
 人々は天から降り注ぐ災いに抗う術を持たなかった。祈りはやがて呪いへと変わっていった。
 絶望と嘆きとを凝縮して練り上げたような陰気な報告を終え、最後に家令は重々しく叩頭した。
「水の神への贄として、うら若き乙女を河に沈めた村もあるそうでございます」
 王の眉間に、厳しく皺が寄せられた。
 今このときも多くの者が飢え、死に瀕している。このまま手をこまねいて、緩やかに迫る滅びのときを待つわけにはいかない。だが、人の身に何ができるというのだ。
 他の縁続きの王に窮状を訴えたとしても、何の見返りもなく手をさしのべるとは思えなかった。助けとなるどころか、弱みを見せたとたんこの国ごと奪われるやもしれぬ。
 敵のある戦のほうがまだ勝算はある。此度グンテルがたち向かわんとする相手は、人の手には負えぬもの、眼に見えぬもの、つまり神や運命に等しいのだ。
 足元に頭を垂れている白髪の家令は有能な男ではあったが、もしも妙案があればとうに進言しているに違いなかった。王の手がそうであるように、家令の手もすっかり空であるのだ。
 グンテルはきつく瞼を閉じた。闇のなか、名も顔も知らぬ娘の、人々の恐怖の犠牲となった乙女の、その清らかな姿を思い浮かべる。祈りに似た烈しい思いが胸に燃え立った。
 この雨がやむのなら、この身を神に捧げてもかまわぬ。
 そのときであった。
 窓の外から、世にも妙なる楽の音が聞こえてきた。その音色に気がついて、家令がつと顔をあげた。
「仕事にあぶれた楽師の仕業でしょう。祭りをする余裕のある村などありませぬゆえ。しかしたわけた奴だ。このような大事の折に、よもや王の城で詩歌に興じるなど……すぐに捕らえて参ります」
「いや、待て」
 憤慨する老家臣を王は手で制した。グンテルは立ち上がり、城の裏庭に植えられた果樹の下で、小さな琴を弾く老人を注視した。楽師と思しき男がうたっているのは、古い伝承歌のようだった。

 世の悲しみ、嘆き、
 あらゆる災厄をば、
 見通すは竜の眼なり。

 竜。
 その一語に、王の顔色がさっと変化した。
「あの男をここに連れて参れ」
 家令はしばし躊躇ったが、王の勢いに気圧され、すぐに老人を王の前に引き出した。みすぼらしい身なりの老いた楽師は枯れ木のような手足を折って、虱だらけの頭をつきだし、グンテルの足元に跪いた。
 横で家令が陳謝した。
「申し訳ございません、身なりを整える暇もなく」
 言い訳がましく頭を下げる家令に、グンテルは退出するよう命じた。老家令は渋面をつくったものの、いつになく王が興奮している様子を察したのか、諦めの色を浮かべ室を辞した。
「楽師、そなたに聞きたいことがある」
 老人は、ひえ、と情けない叫びを放ち、恐る恐るという風に汚れた顔をあげた。半ば盲の眼が、吸いつくように王の姿をひたと捉える。
「先ほどの歌は、そなたの作か?」
「いいえ、陛下。我が故郷、東の村に伝わる詩歌にございます」
「竜と、そう申したな」
「左様でございます。東方ではこう言い伝えられております。竜は地にあるなかでもっとも賢きもの。竜の眼は、世のあらゆる真理を、過去も未来をも見通すことができると」
 あるいは、と続ける楽師の眼差しが暗く光ったようだった。だが微かに兆した狡猾さはグンテルが見とめる前に、弱き者の卑屈な態度の下にするりと隠れてしまった。
「この長雨の原因も、竜ならば知っておりましょう。もっともここ数百年、竜を見た者などひとりもいないと聞きますが」
「竜か」
 ほんのわずかの間、グンテルの面差しに深い懊悩が浮かんだ。視力のほとんどを失った老楽師はそれに気づくはずもなく、苛立ちの混じる王の呟きに震え上がって、敷き詰められた石を抉るように床に額を押しつけた。
 だが鳶色の目には、もはや楽師など映ってはいなかった。グンテルは丸めた拳に顎を預け、鈍色の空を睨みつけた。
「竜……」

 その日の夜も深まった時分、グンテルはまるで燦々たる朝日を浴びたかの如く目を覚まし、寝床から素早く抜け出て長衣を羽織った。すぐ横で寝息をたてる愛妾キアヴェンナを起こさぬように気を払い、燭台と火打ち石とを手にひとり執務室に向かった。常であれば、窓から月が清廉な銀光を落としている刻であるが、空を厚く覆った雲は一条の光すら許さない。
 王は注意深くあたりの様子を探り、人の気配がないことを確かめると、古き時代の女たちの手になる壁掛けを押し上げた。その奥には、地下に続く黒い穴がぽっかりと口を開けている。
 グンテルはしばし迷うような素振りをみせてから、蝋燭に火を灯し、ようやく重い一歩を踏み出した。死臭に似た、黴臭い冷気が全身にまとわりつくようだった。濡れた石段を踏み外さぬように、慎重に地の底へと歩を進める。
 王の祖先は、城の真下に網の目のように広がる地下水路を利用していくつもの小部屋を設え、罪人の牢とし、墓所とし、そして代々、公にはできぬような秘密を隠してきた。偉大なる王の系譜には存在してはならぬ異形たちが、ここで息を潜めるように暮らし、死んでいったという。
 この忌まわしき牢獄を知るのは、どの時代にあっても、常に城主とほんの一握りの者のみだった。
 人ひとりが通るのがやっとの狭い階段を降りきると、領主館の広間のほどの空間が現れた。闇から闇に伸びる通路は人を惑わす複雑なつくりであったが、手探りで進むグンテルの足取りに迷いはなかった。これまでこの場所に立ち入ったことはなかったものの、地下迷宮の地図は、先代の王手ずから息子に伝えられたもので、すべて整然と頭に収まっている。
 格子のはめられたいくつもの小部屋を通り過ぎ、やがてグンテルはひときわ大きな房の前でぴたりと足を止めた。ここに来るまでに目にしたのは半ば腐りかけた木の格子ばかりであったが、そこだけ頑丈な鉄の格子に塞がれている。
 松明も射し込む光もないはずが、なぜかその周辺だけがほの明るい。ふと視線を下に移すと、グンテルの足元に小汚い布の塊のようなものが転がり、喘ぐようないびきをかいていた。
「起きろ」
 つま先で軽く小突くと、床で眠りこけていた老婆が飛び起きた。王の突然の来訪に驚いて、声にならない声をあげる。それもそのはず、無数の皺が刻まれた喉には大きな古傷が走っていて、声などとうの昔に失われていたのだ。
 二人の遣り取りを耳にして目覚めたのか、格子の向こう側で寝茣蓙に横になっていた何者かが欠伸を漏らす気配がした。それは起きあがって大きく伸びをしてから、驚きもせずにグンテルを見つめ、ゆっくりと目を細めた。
「おや、これは」
 形のよい唇から、涼やかな声が流れた。けれどその声音は王に向けた眼差しと同じく、無関心といっていいほどのどこか乾いた調子を帯びていた。グンテルの背筋は、我知らず緊張に強ばっていた。
 若者は機敏な動きで立ち上がると、王の前で腰を折った。喉を潰された老女が世話をしているのだろう。生まれ落ちてから陽の光を浴びたこともないはずであるが、身なりは簡素ながら清潔で、隅々までよく手入れされていた。
 何より、彼は美しかった。
 均整のとれた体躯、光を知らぬ透けるような肌、片目を隠すように垂れた白金の髪。そして、澄んだ泉を思わせる深い瞳。年はグンテルよりもずっと若く見える。
 美しい、一瞬でもそう思ってしまった自分に驚き、それから恥じて、グンテルはその思いを侮蔑と憎しみへと変化させた。
「お初にお目にかかります、陛下」
 優雅で洗練されたその所作は、グンテルの胸に快さをもたらすどころか、嫌悪感を一層かきたてただけだった。
 人のふりをした、異形風情が。
 グンテルは今にも喉から溢れそうになった言葉を飲み込んで、冷淡に呼びかけた。
「出来損ないの半竜よ。貴様の眼は、竜の力を持つのか」
 半竜、と呼ばれた若者は、嘲るような笑みを浮かべた。
「これはこれは。王たる方が、まるで下々の者のように性急でいらっしゃる。あなたに見えたときのために、美々しき挨拶をいくつも用意しておりましたものを」
「戯言など無用だ。早く俺の問いに答えろ!」
 若者は軽く伏せた眼をあげ、物怖じすることもなく王を正視した。
「右は人、左は竜の眼にございます」
 半竜の指が一房だけ伸ばされた額の髪を掻き上げた瞬間、グンテルはぎょっとして声を失った。白目はなく、代わりに同じ場所に金の膜が張っていて、そこに浮かんだ縦に長い瞳孔がじっと王を見据える。大きな宝玉を思わせる輝きは、まさしく獣の眼、竜の眼であった。
 その鋭い眼光に圧倒されたことを悟られぬように、グンテルは努めて平静を保って言った。
「竜の眼はあらゆるものを見通すことができると聞いた。過去も、未来すらも。それはまことか」
「仰る通りです。出来損ないの私でもね。聞くところによれば、降りやまぬ雨の害にお悩みだとか」
 自らの心を見透かされたようで、王は微かに息をのんだ。が、すぐに王者の威厳を取り戻し、再び半竜に向き直った。
「状況を理解しているのならば話は早い。この長雨の原因は何処にある。どうすれば雨はやむのだ?」
 人の姿をした竜は整った面差しを軽くかしげた。
「確かに、私の眼には原因も解決策も見えてはおります。しかし」
「……しかし?」
 怪訝な表情をする王に、彼はそっと顔を寄せた。
「声であれ文であれ、それをあなたにお伝えすることは不可能です。はるか彼方に過ぎ去ったものを、未だ遠く来たざるものを識ることができるのは、竜の眼があってこそなせる術。どうして人の言葉で言い表すことができましょう」
 王は燃えるような眼で竜を睨みつけ、殴りかかる代わりに鉄格子を軋むほど強く掴んだ。老婆が背後で腰を抜かして、全身を震わせながらおののいている。
「貴様、俺をたばかっているのだろう!」
「滅相もございません。あなた方と違い、竜は嘘などつきませぬ。我らには迷いなく真実を口にできるだけの力がある。虚言で身を守る必要などありますまい」
 ならば、とひとつの可能性に至って、グンテルの顔が青ざめた。
「取引か? 何か望みがあるのか?」
「望みなど!」
 竜は声を殺して笑った。
「望みも欲も、空を駆ける者には重すぎる。そのようなものを抱えて平然としていられる、人の強さが羨ましいほどですよ」
 酷薄に引き上げられた唇の端から、艶めいた牙が鈍い光を放った。その語調は初雪のように柔らかいが、人をひれ伏せさせるほどの圧倒的な力に満ちていた。次の瞬間にも、牙を喉に立てられて絶命しているかもしれぬ。予兆めいた不安に襲われて、背中に脂まじりの汗が滲んだ。本能から逃げだそうとする脚を、王の誇りがやっとのことで押しとどめる。
「お忘れなきよう。本来、竜の世界と人のそれとは、どこまでも平行にあって重なることのないもの。竜の眼で見る景色を、同じように人の眼で見ることはかなわぬのだと」
「だが」
「そうお声を荒立てなさいますな」
 困惑を露わに詰め寄る王に、ただし、と半竜は続けた。
「交われば、あるいは」
「……交わる、だと?」
 すんなりと伸びた指先が、すぐ間近にあった王の顎を優しくなぞった。その皮膚の感触は、ぞっとするほど冷たい。どうにか取り繕っていた冷静さを投げ捨てて、グンテルは思わず後ろに仰け反った。
「そう、あなたが床で女とするように、私と寝るということです。深く肉を繋げれば、竜の眼を借りて先見をすることもできましょう」
「ふざけたことを!」
 王は穢れに満ちた言葉を打ち消すように、床に唾を吐き捨てた。竜の静かな瞳には、どこか挑発するような輝きが浮かんでいる。眼窩の片割れに収まる金色は美しいが、身の毛がよだつほどに禍々しい。
「優れた武人でもある御方が、何を怯えておられるのか? 何も命を差し出せというものではありませんよ」
「怯えてなど……」
 これ以上ないほどの侮辱だった。グンテルは奥歯をきつく噛みしめ、竜を厳しく睨みつけた。もしこの場に剣を帯びていたら、迷わず斬り殺していたに違いない。
 激昂した王を前にしても、半竜の若者は落ち着き払った態度で、微笑をすら浮かべていた。
「あなたは国を治める責を負った、ただひとりの王でいらっしゃる。この地を守るためならば、神にその身を捧げてもよいと、一度でもお思いになったことはないのですか?」
 グンテルは虚を突かれたように押し黙った。
 竜の眼の奥に、水の神への生贄となったうら若き乙女の死骸が映ったようだった。河波にゆられ、蕩けた肉をひきつらせ、歯を剥き出してグンテルを嘲るように笑っている。
 しかし……。
 王は長衣を翻し、踵を返した。竜は引き留めはせず、こう尋ねただけだった。
「お逃げになるのですね」
「もはや貴様と話すことなどない。雨は明日にでもやむかも知れぬ。やまなければ、その原因を必ず探ってみせる。穢れた竜の力など借りずとも」
「それは残念です。あなたのお役に立つことができれば、この上ない本望でございましたのに」
 竜は嘘をつかぬというが、世辞は言うものらしい。グンテルは臓腑にむかつきを感じながら、床に置いた燭台をひったくるように手にとって、足早に歩き始めた。その勢いにおののいて、床に這い蹲っていた老女が必死に手足をばたつかせて脇によけた。
 人でないものの力を求めたことが、そもそもの誤りであったのだ。一刻も早く立ち去りたかった。腐臭に満ちた、異形たちの揺籃であり墓場でもあるこの場所から、少しでも早く。長く身を浸していては、遠からず気が狂ってしまうだろう。
「陛下。またお会いできる日を、心からお待ち申し上げております」
 グンテルはもはや振り返らなかった。背中にかかる声は降りしきる雨のように無情で、強い吐気を覚えずにはいられなかった。

 今から十数年前、正妃であったグンテルの母の死からいくらも経たぬ頃のこと、森に狩りに出た父王が若い女を城に連れ帰ってきた。聞けば記憶を失って、己を知らず、父母も知らず、ひとり森をさまよい歩いていたところを拾い上げてきたのだという。明くる晩から、娘は王の寝床を温める役目を命じられた。
 世にも希なる美しい女であったが、素性の知れぬいかがわしい者を城に上げることに、強い反発を示した臣下も少なくなかった。
 だが、王は懸念を軽くいなした。
 曇った眼を磨き上げ、彼女をとくと見よ。輝石の如く身につけた振る舞いこそが、おのずから高き出自を明かすものである。常ならぬ悲劇に見舞われた、貴女に違いなかろうと。
 理に適った王の言葉に、臣下たちは異議をぐっと飲み込まざるを得なかった。確かにこの若い愛妾は、女ながら読み書きをよくし、その所作には匂い立つような気品が溢れていて、下女に対するあしらいも板に付いたもの。商人や農夫の娘とはとうてい考えられなかった。
 王は新しい愛妾に夢中になった。ほどなくして娘の腹が膨らんできたのも、ごく自然の成り行きであった。季節は移ろい、腹がはちきれんばかりになったころ、激しい苦痛を訴えた女は、産婆たちに抱えられて城の外れに建てられた産み小屋に連れて行かれた。
 夜更け、闇を切り裂くような叫びを合図として、女の脚の間から子が引きずり出された。
 その瞬間、産婆たちは驚きのあまり、血塗れの手をそれぞれの口に当てて腰を抜かした。女が産んだのは、人の子ではなく小さな竜であったのだ。幼い竜は柔らかい羽をばたつかせ、ぴいぴいと獣の声で鳴いた。出産を終えたばかりの母親は気を失っていて、ぴくりとも動かなかった。力を失ってだらりと藁床に伸びた手には、鱗のようなものが浮き出ている。
 娘は人の姿をした竜であった。王は、竜を自らの寝床に引き入れたのだ。
 しばらくは茫然自失の体で呆けていた老女らは、ようやく己のなすべき役割を思い出して、落ち窪んだ目を無言で見合わせた。老婆たちは血のにおいをさせたまま戸外へ出ると、まじないの文句を唱えながら、湯を沸かすために外でおこしていた火を薪に移し、震える手で次々と小屋に投じた。
 木材のみで組まれた小屋は、一瞬にして炎に飲み込まれた。産婆らの心に安堵と罪の意識とが兆したのもつかの間、燃えさかる産褥の小屋を眺めていた幾つもの顔が、恐怖にひきつった。
 小さな影が炎を纏って闇夜に躍り出たのだ。女が産み落とした、あの竜であった。竜はしかし炎から飛び出すやいなや、真っ逆様に地に落ちてしまった。動かないことを確かめて、老女たちは恐る恐るそれに近寄った。鱗に覆われた身体には火傷の痕ひとつなかったが、深く裂けた口は赤黒く染まっている。後にわかったことであるが、この竜の子は、自らの母を喰い殺していたのだった。
 しかし産婆たちにとって、悪夢のような出来事はこれで終わらなかった。ぐったりと横たわっていた竜が、いつの間にか人の姿をとっていたのだ。
 彼女たちは我が目を疑った。その様子は一見して、柔らかな肌とあどけなさを持つ無力な赤子が、安らかに眠っているようにしか思えなかった。そのまま再び火中に投じれば、あるいは命を奪うことができたかもしれぬ。だが、老婆のうちのひとりでも足を前に突きだそうという者はいなかった。いや他の誰であろうと竜をその手にかけることなどできなかったに違いない。
 憐憫の情に心動かされたわけではない。竜はこの世でもっとも忌まわしく、そして聖なるものであったから、首をひねるどころか、触れることもできなかったのだ。
 産婆の長から内密に報告を受けた王は、血を分けた息子を地下墓所に封じ込めることにした。森に住まう賢者の力を借りて、幾重にもまじないをほどこし、決して逃げられないように戒めた。竜を放てば領地を荒らすかも知れぬし、うまく手懐け征すれば、神々に比する守り神となってくれるやも知れぬ。そんな打算があったのだろう。
 今や竜の存在を知るのは、森の庵に籠もってほとんど人前に姿を現さない賢者を除いては、グンテルと、恐らくは喉を裂かれた世話役の老下女のみだった。秘密が漏れぬように、この件に関わった者はひとり残らず闇に消されたのであった。
 グンテルは当時十にも届かぬ子供であったが、父の愛妾が産褥の床で死に、同時に何かとてつもない凶事がこの城に起こったのだと感づいた。すべてを知らされたのは、昨冬、先代の王が病に伏したときのことだった。
「竜めが、人を愚弄するしか能がないのか」
 執務室の壁掛けを乱暴にめくると、グンテルは足早に寝室へと向かった。
 あの場で半竜の甘言を拒んだことは、振り返って考えれば正しい選択であったのだろう。竜に欲はない、そうは言ったが、後々高い代償を求められないとも限らない。
「……王よ、いかがないさました。このような夜更けに?」
 床を踏みしめる荒い足音で目覚めたのか、キアヴェンナはしどけない半身を起こし、甘い声音で問いかけた。
「眠れぬので、外の空気を吸っていただけだ」
 グンテルは長衣を床に放りなげると、香草をふんだんに焚いた芳しい寝床に横になった。
「熱い果実酒を持たせましょうか? ひどくお疲れのようにお見受けしますわ」
 優しく気遣いながら、キアヴェンナはそっと王に身を寄せた。温かくふくよかな肌が胸にひたと吸ついたとたん、あの言葉を思い出した。
 ……床で女とするように、私と寝るということです。
 そのせつな、背筋に氷の刃を落とされたような衝撃が走って、王は目を大きく見開いた。
「黙れ!」
 意識せぬうちに、自らのそれに絡みついたキアヴェンナの腕を力任せにふりほどいていた。ややあって、夜闇の奥で愛妾が呆然と自分を見つめているのに気がついた。王は掌中に顔を埋め、唸るように言った。
「すまないが、今宵はひとりにしてくれ」
 キアヴェンナは躊躇っていたが、この男が王であること、王のすべての言葉はすなわち拒むことの許されぬ命令であることを思い出したのか、素直に隣室へと引き下がっていった。
 女の気配が消えた後、グンテルは疲れ切った心身を休めようと、再び寝台に深く身を沈めた。窓からは忌まわしい雨のにおいが漂ってくる。
 固く閉じた瞼の向こうに煌々と光るのは、竜の眼だろうか。今このときも、己の力に驕り、人の無力さを笑っているはずだ。根拠はないが確信があった。
 そのとき、ふと昼間聞いた楽師の歌声が耳に蘇った。

 世の悲しみ、嘆き、
 あらゆる災厄をば、
 見通すは竜の眼なり。

 皮肉なものだと思った。
 たとえ悲しみや嘆きを見通したところで、所詮人とは異なるもの、熱も情も持ち合わせてはいない。少しばかり人の血が混じっていようが、竜の冷たい血はそれを遙かに凌駕するのだろう。現に、あの竜は人とはとても思えぬほど美しかった。
 だが、美しさとは必ずしも人の眼に好ましく映るものではないと、今宵はじめて知った。醜すぎるものも、美しすぎるものも、心を乱れさせ、畏れを抱かせるという点においては変わりあるまい。いかに上等の皮をかぶっていても、異形の本質は隠しきれるものではなかった。
 グンテルは顔を歪めた。
 そう、あれは一匹のけだものに過ぎぬのだ。