拍手をやめないで
前編
 昼から降り始めた雨は、いつの間にか雪に変わっていた。
「積もるかもしれないね」
 和臣は人差し指で作ったカーテンの隙間から、夜気に飲みこまれつつある庭を眺めた。それからゆっくりと振り返り、哉に向かって手を差し出した。
「コートと手袋、預かるよ。この降りじゃ、かなり濡れただろう? 隣の部屋に干しておくから」
 哉は慇懃に礼を言うと、水気で重くなったコートと手袋を和臣に手渡した。和臣の姿が扉の向こうに消えた後、腰をねじって背中や腕の濡れ具合を確かめるものの、分厚い冬物のコートに守られたか、わずかにズボンの裾が濡れている以外は、学生服にほとんど被害はなかった。高校の制服は所々すり切れて、丈も心持ち短いが、もう新しく誂える機会もないだろう。高校三年生の二月。卒業はすぐ目の前に迫っていた。
 哉の視線は、制服からグランドピアノに移った。
 和臣が自宅で開いていたピアノ教室を閉じたのは、正規職員として私立高校に採用が決まった年のことだった。同じ時期、哉は音楽科のある高校に進学した。現在師事しているのは、音大の講師をしていて、和臣の知人でもある高木というピアニストだ。
 けれど哉は、今でも月に何度か和臣の家を訪れていた。防音設備の整った部屋があるため、夜遅くまで練習する必要がある時にピアノを借りたり、時間があるときには茶を飲みながら雑多な音楽の話をしたりすることもある。
 その時弾いている曲の解釈や構造に関する議論、効果的な練習法など、思想的なものから技術的なものまで、和臣は哉の知的好奇心を十分に満たしてくれる話し相手だった。ただ、もう連弾をすることはなかった。どちらかが誘えば弾いただろうが、どちらも誘わなかった。
 しかし教室を開いていた時ならともかく、和臣は正式にはもう哉の教師とはいえなかった。それなのに頻繁にピアノを借りて、助言という形であれ指導を仰ぐのは心苦しい、これまでどおりに礼金はお支払いしたいと申し出る哉の両親に対して、和臣は逆に頭を下げた。
「むしろ、私の方からお願いします。これからは年の離れた友人として、哉君の音楽活動に協力させてください。しばらくは部活動の顧問をする予定もないので、土日は時間がありますし……」
 言ったあと、はっとしたように哉を見た。
「ごめん。君の気持ちも聞かないで、勝手なことを言って」
 何か言いなさいと母親に肘でつつかれても、哉は押し黙ったままだった。嬉しかった。和臣には何の利益もないというのに、手を差し伸べてくれたことが途方もなく嬉しかった。けれど、気持ちを正しく伝える言葉が見つからなかった。
 驚きに見開かれた教え子の眼を、和臣は静かに受け止めていた。哉にどれほどの喜びと幸福を与えたのか、和臣は知るまい。彼は教師としての責任感から、教え子に対してすべきと思ったことをしたに過ぎないのだから。
「午前中は暖かかったから、まさか雪になるとは思わなかったな」
 練習室に戻ってきた和臣の手には、熱い紅茶を乗せた盆があった。哉は和臣を手伝い、窓際に置かれた小さなティーテーブルに茶碗を並べた。ピアノ教室を開いていた時の名残で、衝立で仕切られた空間は小さな部屋のようになっていた。
 そのとき、テーブルの足に寄りかかるようにして、大きく膨らんだ紙袋が置いてあるのに気がついた。凹凸のある膨らみ具合から、中に詰まっているのは楽譜ではなさそうだった。
「何ですか、この袋?」
「ああ、これ」
 和臣は紙袋を持ち上げ、口を開けて哉に中身を示した。
 目に飛び込んできたのは色鮮やかな包装紙だった。赤、緑、ゴールドにシルバー、それに溢れるほどのピンク。花を模して器用に結ばれたリボンで大事そうにくるまれているものが何か、深く考えなくとも察しはつく。
 哉の眉がかすかに動いた。
 昨日はバレンタイン、そして和臣が勤めているのは私立の女子高だった。
 無言で袋に視線を注いでいる教え子を見て、和臣が尋ねた。
「よかったら、一緒に食べる?」
「生徒さんにもらったんですか」
 思わず声に険が混じりそうになって、哉は反射的に声を低くした。
「いや、同僚の先生や事務員さんたちからだよ」
「……人気者ですね」
 女子高であれば女性職員の比率は高いかもしれないが、それにしても数が多い。しかも一見して、とても義理とは思えないほど高価そうな包装ばかりだ。甘いものが好きな和臣にアピールする好機という気負いが感じられる。そんなもの、とてもお茶請けとして美味く食べられる気がしない。
「じゃあ、生徒からのチョコレートは断ったんですね」
 女子学生から貰わないはずがないという確信をもって、哉は皮肉っぽく言った。若くて人当たりのいい音楽教師が女子高にいて、好意をもたれないわけがなかった。
 和臣は困ったように笑った。
「せっかく用意してくれたのに、悪いことをしたと思うけど……。生徒から個人的に何かを貰うのは、規則で禁止されているから」
 規則がなければ受け取るつもりだったのだろうか。
 哉は喉にこみ上げてくる苦い思いを飲み下そうとするように、茶碗に口をつけた。
 相手に何の関心もないのなら、気を持たせるような態度をとるべきではない。人の気持ちも考えもしないで、ただ優しさだけを振りまくのは酷な行為だ。和臣の無頓着さと無防備さには、時おり無性に苛立ちを感じることがあった。正面から本気の恋愛感情をぶつけられたら、いったいどうするつもりなのか。
 哉はぶっきらぼうに言った。
「やっぱり、俺が食べたら失礼です。心がこもったものですから。それに、お好きなんでしょう? 甘いもの」
「もちろん、ありがたくいただくよ」
 義理でもらったものだということを疑いもしない声だった。高級チョコレートでコーティングされた甘い下心も苦い執着も、和臣には全く伝わっていないらしい。気づきもされなかった女たちの思いは、一体どこに行き着くのだろう。
 和臣に気取られないように、哉はそっと自分の鞄に目を向けた。
 鞄の中には、贈り物用に包装されたチョコレートが入っている。
 バレンタインの前日、母親の礼子に言われたのだ。
「あんたも白瀬先生にチョコ差し上げたら。甘いものに目がないから、喜ばれるわよ、きっと。最近は友達同士で交換したり、お世話になった人にあげたりするものらしいじゃない。デパートの売場にも、結構男の人が多いんですって。そもそもねえ、あんたもう高校生なんだから、お邪魔するときのお菓子くらい、自分で選んで買いなさいよ! 毎回私に任せきりで。色々とご負担をおかけしてるんだから、たまには感謝を形で示しなさい。それって、大事なことだと思うわよ」
 いつもなら母親のお喋りなど右から左に聞き流しているが、この言葉には珍しく説得力があったので、生まれて初めてデパートの菓子売場を訪れた。しかしチョコレートを選ぶどころか、予想外の混雑と熱気に圧倒されて、あれよあれよという間に売場の外に押し流されていた。
 男なんてどこにもいないじゃないか。
 内心で悪態をつきながらも、戦場のような殺伐とした空気に慄いて踵を返し、結局チョコレートは近所のコンビニで手に入れた。買ってはみたものの、やはり自分が和臣に渡すのはおかしいと思い始めて、激しい後悔に襲われた。冷静になってみれば、感謝を示す方法など他にいくらでも考えつく。母親の気まぐれな思いつきなど鵜呑みにするべきではなかった。
 手元に残しておいても始末に困るだけなので、礼子から預かったと言い訳をして渡すつもりだったが、このチョコレートの山を見た後では、とても鞄から出すことはできそうになかった。
 そのような葛藤が目の前で繰り広げられていることも知らず、和臣は呑気に微笑んだ。
「君だって貰ったんだろう?」
「いえ」
 考える前に嘘が口をついた。本当は、数名の女子生徒から渡された。人気のない教室で、友達を引き連れて裏庭で、冗談混じりに下駄箱で。どれも断った。与えられたところで返すものがないのならば、受け取ることはできなかった。
 告白する同じ唇で、彼女たちは一様に哉のピアノをほめたたえた。素晴らしい演奏だった、感動した、涙したと。コンクール入賞の常連であった哉は、校内でちょっとした有名人であった。
 ピアノを弾くように、私に触れて欲しい。
 熱っぽい瞳を向けられる度に、そう言われているような気がした。
「今日は高木先生と出かけていたんだって?」
 無意識のうちに和臣の指を見つめていた哉は、弾かれたように顔を上げた。
「はい。音大の教授の、退職記念講演に誘っていただいて」
 話した覚えのない予定を和臣が知っていることに、別段驚きはなかった。高木とは頻繁に連絡を取っていると、二人からそれぞれ聞いたことがある。
「面白かったかい?」
 聞かれて、哉は黙り込んだ。
 講義内容にも教授その人にも興味はなかった。他の招待者との顔つなぎのために、高木に連れ出されたのだった。
 音楽史を専門とする老教授は、古典派の時代の運指法について熱っぽく語っていた。二百年以上前に死んだの人間の弾き方を今さら研究して何になるのだろう。哉はとことん実学指向で、学問のための学問としか思えない研究には、価値をおいていなかった。
 率直な感想を口にすると、和臣は少し考え込んでから言った。
「確かに、直接役に立つ訳じゃないだろうけれど、演奏法の歴史を辿っていくことは、自分の演奏を客観視する材料にはなるんじゃないかな。今いる立ち位置が明確になるというか……悪いね、言葉がうまくまとまらなくて」
 和臣は決まり悪そうに頭をかいた。
「たぶん、学んだことが役に立つか立たないかは、遠い未来の自分に聞かないとわからないと思うよ。だから、自分の考えと違う考えを簡単に切り捨ててしまうのは勿体ない気がする。何が必要で、何が必要でないか、勉強っていうのは、それを見極めるための能力を身につける手段のひとつでもあるだろうから」
「……そういう考え方もありますね」
 呟くように言うと、老教授が長年大切に育んできた研究を無駄の一言で排除してしまった自分の軽率さが、急に恥ずかしくなった。
 和臣の穏やかで飾り気のない言葉はいつも、哉に新しい世界を見せてくれる。だから迷惑だろうとは思いつつも、彼の元に通うことを止めることができないでいるのだった。
 夜の七時を過ぎたころにやっと、哉は時計の存在を思い出した。
「すみません、長居してしまって」
 この場所にいるといつもそうだった。時間を忘れて、つい夢中で話し込んでしまう。
 帰り支度の途中で、和臣に借りた本を仕舞おうと鞄を持ち上げた瞬間、金具のしまりが不十分だったのか、中身が一気にあふれ出た。真っ先に飛び出したチョコレートの包みに、息が止まりそうになった。
 哉は素早くそれを拾い上げると、早口でまくしたてた。
「忘れてました。先生、これ、母からです」
「お母様から?」
「あの、たぶん、バレンタインの」
「そんな、いいのに」
 和臣は驚きながらも喜んでいる様子だった。
「お母様は今日ご在宅かな? あとで電話でお礼を」
「今夜は法事でいないんです!」
 電話などされたらたまったものではない。思わず出任せを口にした。
「それなら明日……」
「飛行機に乗らないと行けないくらい遠方なので、しばらく家を開けていて。俺から伝えておきますので、どうかお気遣いなく」
「わかった。じゃあ、今度会ったときにでも」
 嘘をつくのは苦手なはずなのに、唇が勝手にまた嘘をついた。
 和臣と礼子が顔を合わせた場合を想定して、言い訳を用意しておかなければならないと、反射的に作った無表情の裏で考えを巡らせる。
 重ねられる嘘、嘘、嘘。
 一度ついた嘘というのは、影のように背中にずっとついて回るものなのかもしれない。逃れようともがいても、ねっとりとへばりついて離れない。
 和臣は丁寧な仕草で、哉が渡した包みをテーブルの上に置いた。他のチョコレートと一緒に、紙袋の中に放り込んでくれたほうがよかった。同じような材料で出来た、同じ商品名の菓子であるはずなのに、哉が渡したそれは、必死でチョコレートの真似をしようとする滑稽な異物としか映らなかった。
 哉はうつむきながら、手早くコートを羽織った。車で送ろうかという和臣の申し出は、丁重に辞退した。窓から外の様子を窺うと、雪はもう止んでいるようだった。薄く降り積もった白化粧はあまりに弱々しくて、明日には跡形もなく溶けてしまうだろう。
「哉君」
 玄関口で、今まさに外に出ようとドアノブに手をかけたとき、躊躇うような和臣の声に呼び止められた。
「何でしょうか」
「僕の勘違いかもしれないけど……何か話があったんじゃないかと思ってね」
「いいえ、特には」
「そうか。それならいいんだ。じゃあ、お休み」
 また嘘。
 哉は喉から出かけた言葉を飲み込こみ、別れの挨拶にかえた。

 帰宅した後、哉は礼子と二人で夕食の席に着いていた。大学生の姉はアルバイト、父親は仕事関係の会合で帰宅が遅いらしい。
 一方的に喋る礼子の話を聞き流しながら、哉は黙々と箸を動かしていた。
「ちょっと、聞いてるの?」
「聞いてるよ」
 聞いていない、と正直に答えたところで叱りとばされるだけなので、何とでもとりようがある曖昧な返事を投げる。お喋りな母親との会話をやり過ごすうちについた、癖のようなものだった。
「だからね、先生にはもうお話したの? 留学のこと」
 留学、という単語を他人事のように聞きながら、哉は鶏の唐揚げを咀嚼した。
「ちゃんと自分の口からお伝えするのよ。私からは言わないからね」
「わかってる」
 もう一年以上、和臣と話をするときに進路についての話題は避けてきた。尋ねにくい内容であることはわかっていたが、自分から言い出すことがどうしてもできなかった。
「あの子には言ったの?」
「誰、あの子って」
 礼子は首をひねって記憶を辿った。彼女は人の名前を覚えるのが苦手だった。
「ええと……何ちゃんだっけ? 名前が出てこないんだけど、何度かうちに来たじゃない。色白の女の子」
「引っ越した」
 礼子は目を丸くした。
「どこに? いつ?」
「海外。父親の仕事の関係で。去年の夏」
「あんた、そういう大事なことは教えてよ。お付き合いしてたんでしょう?」
 否定はしなかった。
 確かに、高一の夏から約一年、彼女と呼べる存在はいた。声楽コースに在籍する同級生で、大人しくて控えめな子だった。
 ピアノの邪魔には絶対にならないから、付き合ってほしい。
 誰もいない教室に呼び出されて、震える声で告白された。
 彼女自身のことは知らなかったが、歌声は耳に残っていた。よく響く品のいいソプラノで、真剣に練習に取り組んでいることが伝わってくる声だった。
 承諾すると、信じられないと言って泣きじゃくった。
 ピアノの邪魔をしない、という言葉通り、顔を合わせるのはほぼ学校だけという日々が続いた。
 週三で高木のレッスン、週に一度は和臣の家に行き、その他の日も学校で教師の指導を受けたり、居残りして練習をしたり、暇があれば基礎体力作りのためにスポーツジムに通う。
 二人で外出した回数は片手の指で足りる程度であったが、哉の家には二度か三度遊びに来ていた。
 哉はそれで十分だと思っていたが、相手はそうではなかったらしい。
 ピアノの邪魔にはならないから。深く考えもせずにその言葉を額面通りに受け取っていた。
 別れるきっかけとなったのは、彼女の誕生日をすっかり忘れていたことだった。誕生日の明くる日、彼女の友人からなじられてやっと思い出した。彼女は体調不良を理由に学校を休んでいて、その場にはいなかった。友人はまるで自分のことのように、悔しげに顔を歪めていた。
「あの子、泣いてたよ。ねえ、誕生日を忘れられたくらいで怒る子じゃないってことくらい、いくら宮代君でもわかるでしょ。ずっと、ずっと我慢してたんだよ、色んなことを。どうして気づかなかったの? もう少し優しくしてあげられなかったの?」
 そう言って、黙り込む哉を下から鋭く睨みつけた。
「ちょっとピアノが上手いからって何なの? 偉そうにして、人を傷つけていいと思ってるの? 人でなし!」
 それから数ヶ月後、ほとんど会話らしい会話もしないまま、彼女は海の向こうに行ってしまった。自分の側に非があったことは明白だった。以来、特定の相手と付き合うことはなかった。
「若いんだから、付き合ったり別れたりは仕方ないと思うわよ。でも」
 過去を漂っていた意識を引き戻したのは、礼子の重い溜息だった。
「ピアノもいいけど、あんまり人間関係をおろそかにしちゃだめよ。誠実にね、特に女の子には。白瀬先生を見習って……そうそう先生といえば」
 得意の飛躍で、礼子は急に話題を変えた。
「白瀬先生ご結婚されるらしいわよ。あんた知ってた?」
 舌の上に残っていた鶏肉をごくりと飲み込み、哉は母親を凝視した。硬直しかけた喉を奮い起こして、やっと口にする。
「知らない」
「私の友達の娘さんがね、先生がお勤めされてる高校に通っているのよ。それで噂が流れてきてね。お相手は音楽関係の方かしら。何か聞いてない?」
 興奮した様子の礼子を残して、ごちそうさまとも言わずに立ち上がると、哉は自室に引き上げた。
 ベッドに寝そべりながら和臣に借りた本のページを散漫な仕草でめくったが、すぐに閉じて枕に顔を埋めた。その晩は、風呂にも入らずそのまま寝た。
 翌週は珍しく、和臣の方から週末に練習室を開けられないという連絡があった。はっきりとは言わなかったが、何か大切な用事があるらしい。
 それなのに、土曜の午後、哉の足は和臣の家の方へと向かっていた。和臣に会うつもりはなく、この間借りた本のうち一冊が読み終わったので、郵便受けに入れておこうと思ったのだ。
 そう、本を返すだけだ。
 和臣が不在の時はいつもそうしているはずなのに、なぜかこの日に限っては言い訳じみた言葉が頭に渦を描いていた。
 迷走する思考を整えつつ、もし、と哉は仮定した。
 もし訪ねたときに和臣が家にいたのならば、挨拶がてら結婚の話の真偽を聞いてみよう。
 そうでなければ日常生活に支障が出る。食事の席で、授業中、寝る前、ピアノを弾いている時ですら、焼き鏝でも当てられたかのように結婚という二語が頭から離れなかった。一体、和臣が結婚するということの何に衝撃を受けているのか。彼も三十を越えている。今までそういった話がなかったのが不自然なくらいだ。
 この困惑は、結婚というものに現実味がないからこそ湧いたものかもしれない。高校生では、友人や同級生で所帯を持っている者などまずいなかった。
 それまで家族でなかった人間と家族になって、共に暮らす。共に食事をし、共に寝る。子供もできるかもしれない。そこに和臣の姿を入れ込んでみると、妙に心が落ち着かなくなった。
 和臣の家がある区画に差し掛かった瞬間、哉はふと足を止めて顔をあげた。
 塀の向こう側には練習室があるはずだった。窓が開いているのだろうか、室内からピアノの音とロシア語の詩が流れ聞こえてきた。聞き覚えのない美しい女声、だが伴奏をしているのが和臣であることは間違いない。
 やがて哀愁に満ちた異国の言葉は途切れ、歌詞のない歌が続いた。
 ラフマニノフのヴォカリーズ。
 澄んだソプラノが、和臣の奏でる精緻なピアノと絡まり合う。互いの目を見つめ、対話し、愛撫するようなその響きに、哉は息を呑んだ。
 この声の主が和臣の恋人なのだろうか。カーテンは閉められていて、中の様子を窺うことはできない。だが、溶け入るような音色は無言のうちに多くを語った。彼女が和臣を深く理解しているということ、特別な存在であること、そして今、彼の体温を感じられるほどすぐ近くにいるということ。
 求めて、狂おしいほどに求めて、しかし決して手に入れられないものがそこにはあった。
 曲の終わりを待たずに、哉は踵を返した。虚ろになった心が、未知の黒い感情に支配されていく。息苦しい。一刻も早く、この場を立ち去りたかった。握りしめた掌には、じっとりと不快な汗が浮かんでいた。
 いつの間にか住宅街を抜け、国道に沿って自宅方向に歩いていた。いや、歩いているというよりは、漂っているという表現のほうが似合いだろう。
 哉は混乱していた。
 溜息のような女声が、和臣の優しいピアノが、哉の平常心を狂わせていた。
 だから背後で叫び声があがるまで、ハンドル操作を誤った一台の乗用車が、自分めがけて歩道に乗り上げて来ようとしているのにも、全く気づかなかった。