拍手をやめないで
後編
 哉の通う高校の卒業式が行われたのは、三月の下旬、冬の気配が色濃く残る肌寒い日のことだった。もしかしたら雪になるかもしれないと、家を出るときに礼子が溜息まじりに言っていた。
 式典が終わり、名残惜しさを感じながら友人たちと別れの挨拶を交わして教室を出た後、一緒に食事でもという両親の誘いを断って、哉は和臣の家へと向かった。
 鞄の中には、昨晩書いた手紙が入っている。これまで世話になった礼を伝えようと筆をとったものの、いざ書きだしてみると適当な表現が思い浮かばず、型通りの他人行儀な文面になってしまった。
 和臣には会わないで、手紙だけ置いて帰るつもりだった。受けた恩の大きさを考えれば不義理この上ないが、和臣と顔を合わせることを考えると、身体の奥がすっと冷えていくような、緊張とも恐怖ともつかない感覚に襲われた。それにこの間のように、わけのわからない衝動にかられて不愉快な思いをさせるよりは、礼儀知らずな人間だと呆れられる方が、ずっといいだろうとも思った。和臣とはあれ以来会っていなかった。
 ピアノ教室に通い始めた頃と少しも変わらぬ姿で、和臣の家は住宅街の一角にひっそりと佇んでいた。訪れるのもこれが最後だと思うと、喉にこみあげてくるものがあった。
 鞄から手紙を取り出してふと顔を上げると、いくつかの部屋の窓が開いているのが目に入った。平日ではあるが、多くの高校はもう春休みに入っている時期だ。和臣も家にいるのだろう。
 その時、玄関の扉が半ば開いているのに気がついた。ドアストッパーを置いているわけでもなく、チェーンをかけている様子もない。鍵をかけ忘れて開いてしまったのだろうか。否定はできなかった。和臣は決して怠惰な人間ではないが、生活の細事について無頓着な面があった。
 哉は迷いつつも、足音を殺して門戸をそっと押し開いた。和臣が在宅しているという確認がとれたら、インターホンだけ鳴らして身を隠せばいい。そうすればきっと、扉が開いているのに気がつくはずだ。もし窓も扉も開けたままで外出していたら、と考えて、哉は嘆息を漏らした。その時はその時考えよう。
 気配を殺して慎重にドアノブを引くと、微かなピアノの調べが漂ってきた。
 哉は平手打ちを食らったような表情をして、踏み出しかけた足を止めた。
 流れ聞こえてくる軽やかな響き。和臣が弾いていたのは、きらきら星変奏曲だった。
 やがてモーツァルトの変奏曲が終わっても、変奏は続いた。和臣が即興で弾いているのだろう。
 いつまでも、いつまでも、円を描くように変奏は巡る。和臣の指先から零れ落ちる澄んだピアノの音色は、どこまでも美しく、そして優しかった。
 哉は顔を歪めて、手紙を制服のポケットの中で握りつぶした。
「先生」
 わずかに開いた扉を何度かノックしてから練習室に入ると、和臣は驚いた顔をして手を止めた。
「哉君?」
「すみません、応答がなかったので、勝手に入らせていただきました」
「もしかして、玄関の扉、開けっ放しだった?」
「鍵は閉めておきました」
 すまなかったねと和臣は恥じらうように笑ってから、哉の手にある卒業証書を収めた円筒に視線を移した。
「今日、卒業式だったんだね。……卒業、おめでとう」
 哉は軽く頭を下げて礼を言った。視界に入った和臣の腕が、わずかに震えているように見えた。ずっとピアノを弾いていたのだろうか。二人で連弾をしたあの曲を。
 もしかしたら、哉が留学することに、少しは寂しさを感じてくれているのかも知れない。
 哉は思いかけて、その甘い仮定を一蹴した。
 四年も前の話だ。連弾をしたことなど、和臣が覚えているとは考えにくかった。
 和臣は立ち上がって、哉に座るよう促した。
「いつイギリスに?」
「三日後です」
 和臣は昔に思いを馳せるように天井を見つめ、しみじみと言った。
「あんなに小さかった哉君が留学か……」
「通い始めたときは、五歳でしたからね」
「月日が流れるのはあっという間だね。そうだ、足の具合はどう?」
 哉は膝を伸ばしてみせた。
「お陰様で、歩くのも走るのも支障ありません。ご心配をおかけしました」
 それからしばらく、二人は取り留めもない雑談を重ねた。哉は沈黙を恐れるように、思いつくまま言葉を継いだ。
 音楽院での勉強について。イギリスでの生活について。師事する予定のピアニストについて。
 意識はしていなかったものの、話題にのぼったのは、すべてこれから先のことばかりだった。二人とも故意に避けている風ではなかったが、話が過去の方向へ向かうことはなかった。
 ヨーロッパの物価の高さに関して談じながら、哉は軽い失望を覚えていた。
 そんな話をしたいがために和臣の前に姿を現したわけではない。かといって、ことさら伝えるべき言葉も見つからなかった。時間だけが空しく過ぎていく。
 和臣は尋ねた。
「休暇の時には、日本に帰ってくるんだろう?」
 哉は短い沈黙のあと、首を振った。
「いえ」
「ずっと向こうに?」
「そのつもりです」
 それまでの淡々とした口調とは打って変わって、哉は強く言い切った。
「日本には戻りません。ある程度ものになったと確信できるか、完全に諦めた時まで」
 それまで和やかに流れてた空気が、急に重苦しくなった。
 和臣は優しく諭すように言った。
「逃げ場を作らないと、苦しくなるよ」
「わかっています。……それでも」
 もしピアノで生計を立てる目処がたって、帰国できる時が来たとしても、それは数年後、下手をすれば十数年後、あるいはそれよりもっと先かもしれない。
 哉は和臣に向かって、深々と頭を下げた。
「これまで、ご指導ありがとうございました。ご恩は決して忘れません」
 本人を目の前にしても、やはり手紙に書いた文面と同じようなつまらない表現しか出てこなかった。
 哉は目を伏せた。
 ピアニストになる道を諦めた時は、もう二度と和臣に会わないつもりだった。
 ピアノに、そして人生に対する十代の少年の真剣さなど、経験を積んだ大人の眼には滑稽に映ったことだろう。けれど哉を見つめる和臣の口元に、いつもの微笑はなかった。
「君は思慮深いし、賢い。だからこんなことを言うのは、無意味かもしれない」
 和臣はゆっくりと言葉を選んでいるようだった。
「物事のすべてに原因があって、結果があるわけじゃない。考えても考えても、答えがでないことだってある。世の中のほとんどの悲劇は人間の想像の範疇を越えていて、理不尽なこと、割り切れないことばかり起こる。自分自身についてさえも。理論も思考も大切だけれど、万能ではないんだよ。どうか、ひとりで結論を出して、ひとりで自分の限界を決めないでほしい。……ピアノの技術も、曲の解釈も、それから心も」
 静かな声音が耳に届く度に、胸に疼くような痛みを覚えた。
 哉が持て余している不可解な思いを、和臣はすべて見透かしていたのだろうか。
 わずかに迷うような表情を見せて、和臣は続けた。
「僕は、君の……」
 そのとき、来客を告げるインターホンが鳴った。夢の世界から、急に現実に引き戻されたようだった。
 和臣は窓から玄関の様子を確認した。
「近所の人が何か持ってきてくれたみたいだ。回覧板かな」
 すぐ戻ると言い残して、和臣は玄関に急いだ。ひとり残された哉は、散漫な視線を室内に向けた。
 気持ちを切り替えようと、ぐるりと練習室を見回した。細かな物の配置は変わったが、基本的な内装は十三年前と全く同じままだった。
 棚にぎっしり詰まった楽譜。乾いた空気。薄茶色の分厚いカーテン。古びたカーペットのにおい。
 それから女王のように中央に鎮座する、黒く大きなピアノフォルテ。
 この部屋は、昔からこんなにも狭かっただろうか。子供の頃はひとりでいると、広すぎて寂しさを覚えるほどだったのに。
 もうここに戻ることはないだろう。
 はじまりと、そして終わりの場所。
 遠い日の思い出が自然と脳裏に蘇ってきた。
 どうぞ、と衝立の向こうから呼ぶ声がする。歳を重ねた女性特有の、丸みのある深い声。和臣の祖母が振り返る。眼鏡の奥の、優しい目。窓から差し込む夕暮れの日差し。冷たい鍵盤の感触。メトロノームが刻む正確なリズム。楽譜をめくる乾いた音。難しい曲に挑戦しようと背伸びして、必死に広げた幼い手。その上に優しく包み込むように置かれた、骨ばって、でもどこか柔らかい、大きな掌の温もり。
 くだらない。
 突然白昼夢から目覚めたように、哉は自嘲した。感傷的になるなど、らしくなかった。自分の掌をまじまじと見つめる。今ではもう、哉の手は和臣のそれよりもずっと大きかった。
 そのときふと、ピアノの上に数枚の紙が置かれているのに気がついた。ヴォカリーズの楽譜だった。和臣の母親が来たときに用意したものだろう。
 哉は楽譜を手にとって、しばらく眺めていた。それから思い立ったようにピアノの前に座った。鍵盤に五指を置こうとした途端、耳元で高木の声が聞こえたような気がした。
「その癖、白瀬の真似してるのか」
 左手首に触れかけた右手を、慌てて引き離した。
 哉は目を閉じて、一呼吸置いてから、白鍵と黒鍵を撫でるように押した。
 この曲は何度も弾いていて、完全に暗譜している。
 どうしても哉の伴奏でこの曲が歌いたいと、彼女から懇願されたことがあった。十四の歌曲でひとつの作品を成しているものだから、他の歌も練習すべきだと主張したのだが、ロシア語が苦手だったのか、歌詞のないヴォカリーズばかり歌いたがった。はじめて演奏したとき、彼女は泣いていた。何事かと驚く哉に、嬉しくて涙が出ただけだと、無理に作ったとわかる笑顔を浮かべて言った。
 だが、哉と彼女は求めるものが決定的に違った。何度合わせてもしっくりこないので、繰り返し繰り返し練習した。譜面台に置かれた哉の楽譜は書き込みでどんどん黒くなっていた。何日かして、彼女は疲れたように言った。
「もう止めよう」
 それから、一緒に歌いたいとは言わなくなった。
 音楽を学ぶ者としては、哉の態度は間違っていなかったのだろう。だが、間違っていないことが正しいとは限らない。
 彼女はひとりで喜んで、ひとりで疲れてしまった。哉はただ自分の方針を貫いただけで、気持ちを分かち合おうなんてことは考えもしなかった。たまには譜面から目を離して、お互いの顔をよく見ておくべきだったのだ。
 未熟だった二人は、和臣と彼の母親が織りなした音色とはあまりにもかけ離れた、歪な音の塊しか作り上げることができなかった。
 そして今も、哉のヴォカリーズは不完全なままだ。
 いくら伴奏の旋律が美しくても、声の欠けた歌曲は味気ない。どれほど丁寧に弾いたところで、迷い子となった半身を求めて、音符があてもなく彷徨っているようにしか聞こえなかった。
 僕は、君の……。
 和臣は、何を伝えるつもりだったのだろうか。
 消えてしまった言葉の行方を、知ることはもう叶わないだろう。
 理性はそう告げるのに、靄がかかったように心が晴れなかった。
 先生。
 哀愁に満ちたピアノの音色は、声ならぬ声となった。
 先生、その続きを教えてください。
 すると、すぐ横で哉が打ったものではない音がした。いつの間に戻ったのか、右側に座った和臣が、ソプラノの声部をピアノで弾いていた。
 哉は驚いて目を開き、鍵盤に現れた二つの手を凝視した。
 色彩に富んだ音色、歌うような柔らかい響き、正確な指の運び。和臣の手は、かつての力を取り戻したかのようだった。
 幼い迷子を導くような音を、哉は躊躇いがちに受け取った。押しては引き、引いては押し、さざ波のように繰り返される旋律は、互いに欠けたところを埋めるように、寄り添うように絡み合った。
 音が調和する度に、頭の奥が恍惚に甘く心地よく痺れた。いつまでもこの陶酔にたゆたんでいたかった。けれど、と哉は大きく息を吸い込んだ。どれほど素晴らしい音楽にも必ず終止符は打たれる。そして、終わりの時は近い。
 やがて高音が低く、低音が高くなったとき、二本の腕が交差して触れ合った。軽く当たっただけの、微かな接触。
 だがその瞬間、これまで暗闇に包まれていた視界が、急に拓けたようになった。あらゆる記憶がないまぜになって押し寄せてきた。目を逸らしてきたものが、次々と暴かれていく気がした。
 欲望まみれのチョコレートの山。
 高木の囁くような低い声。
 髪に漂う煙草のにおい。
 ヴォカリーズの官能的な旋律。
 そして辿々しい指で触れた、傷跡の熱。
 突然、音が絶えた。
「哉君?」
 問いかけに応えることもなく、哉は黙って和臣の右手をとった。指をそっと握りしめ、手の甲に唇を押しつけた。そのまま服の袖ごしに古傷をたどった。
 哉の表情に、激しい苦悶が浮かんだ。
 本当はわかっていた。ずっと彼だけを見てきたのだから。それなのに、知らぬふりをしていた。
 和臣はとっくに過去の事故からも、この傷からも自由なのだ。縛られているのは、縛られたいと願っているのは哉の方だ。
 自分は不幸ではない。
 和臣の将来を奪ったのが他ならぬ哉自身であることを知って苦しんでいた時、彼は静かに言った。それは教え子を慰めるための方便ではなかった。事実だった。
 もう彼にとって、あの傷跡に意味などないのだ。
 自分には和臣が必要だ。彼が欲しい。だが、和臣は違う。
 哉の目がすがるように和臣を捉えた。
「……哉君」
 気遣うような和臣の顔を強引に上向かせ、下腹から突き上げる衝動のままに口づけた。
 唇の感触は、想像よりもずっと柔らかかった。その生々しい存在感に、箍が外れた。
 もどかしい。離れたくない。それなのに、残された時間は多くなかった。今このとき限り、もう二度と会うことはないかもしれない。覚悟はしていたはずなのに、眼前に迫った途方もない現実の重さに愕然とした。
 言葉が惜しかった。一度離れた唇は、しかし激しい乾きに耐えきれず、再びすぐに重ねられた。
 数え切れない夜、何度この瞬間を思い描いたことだろう。
 思い詰めた決意を感じ取ったか、微かに身じろぎしただけで和臣は抵抗しなかった。
 これが少し前だったら、教師としての立場から、彼は頑なに拒んだに違いなかった。だが和臣は、追いつめられた者の切迫した様を前にして、怯んで手を振り払うような人間ではない。それを承知した上での行為だった。自分の卑怯さに、吐き気がする。
 けれど背中をそっと撫でる和臣の手には、労りと慰めさえ感じられた。哉は苦痛を耐えるように、固く目を閉じた。
 誰よりも優しく、誰よりも冷たい先生。
 受け入れたのは、哉の思いに対する和臣の答えではない。あるのは憐憫の情だけだ。
 嫌ならば拒絶して欲しい。そう伝えたいのに、何度も浅く唇を合わせた後、ようやく絞り出たのはかすれた声だけだった。
「先生」
 喘ぎ混じりの吐息は言葉を成す前に貪るような口づけに変わり、絡まった舌の間に溶けて消えた。
 好きだ。
 愛している。
 そんな告白に何の意味があるだろう。
 幸福を追い求めるのではなく、今あるものから見いだすことができる人間の人生は、波紋のない水面のようだ。静かで、満ち足りていて、燃えるような苦しみを伴う渇望など存在しない。きっと彼は何をも、誰もを激しく憎みもしない代わりに、また深く愛しもしない。
 腰を抱く腕に力をこめた。顔を埋めたシャツからは、清潔な陽のにおいがした。服の下に手を潜り込ませ、ぎこちなく肌に触れる。秘されたものがひとつひとつ明らかになるにつれて、聖域を侵すことへの戦慄、罪悪感、それ以上の後ろめたい悦びに襲われた。胸が苦しくて、気が狂いそうだった。傷つけぬように優しくしたいのに、生ぬるい海水に溺れているようで、もがいてしがみつくことしかできない。
 和臣の両腕が、ゆっくりと首に回された。髪を撫でられ、耳元でそっと囁く声がした。
「……ベッドに行こうか」
 目眩がした。甘く反響する声音の奥に過ぎ去った情事の痕を感じて、嫌だと答える代わりにより深く、抉るように口づけた。
 見知らぬ誰かも、同じようにこの肌を知ったのだろうか。
 焼け付くような嫉妬にかられ、理性を失った。半ば強引に半身を持ち上げると、きつく抱き合ったまま床にもつれ合った。
 互いの衣服を一枚ずつ取り去っていく時に、自分の指がひどく震えているのに気がついた。どんな難曲を弾いているときよりも、このときほど拙い指の動きに歯がゆい思いをしたことはなかった。震えに気づいた和臣が、そっと手をとって指先を口に含ませた。爪の輪郭をゆっくりとなぞる舌は柔らかいのに、鮮烈な刺激となって神経をいたぶった。
 指。演奏者にとって命に等しい、技巧を凝らし、詩情をのせて、音を放つための器官。怪我をしないように気を配り、注意深く鍛え上げたそれが、今では濡れて絡まりあうだけのものに成り下がっていた。
 目が合う度に、たまらなくなって唇を吸い上げた。
 これまで幾百、幾千と、狂おしいほどの恋を、燃えるような愛を描いた曲を聞いてきたし、弾いてもきた。だがそのどれもが、かすれた吐息と、荒い衣擦れに飲みこまれて、跡形もなく消えていった。
 哉の指先が、和臣の傷に触れた。
 呪いのように響くのは、月の光、あのピアノの音だけだ。

 別れの言葉は聞きたくなかった。笑顔も見たくなかった。
 だから彼の寝息を確かめて、何も告げずその場を後にした。
 最後まで与えることも分かち合うこともできずに、傷つけただけだった。
 悔恨と共に、口に残る苦みを飲み込んだ。
 外に出ると、夕暮れの空には季節はずれの雪が舞っていた。

 イギリスで師事したのは、かつて情熱的な演奏で世界を魅了した女性ピアニストだった。
 老いてなお、澄んだ青い目の奥にはピアノへの熱情が燃えていた。冬の庭園に花開いた、狂い咲きの赤い薔薇のような人だった。
 優れたピアニストであり、かつ教師でもあった彼女は、自分にも他人にも厳格だった。生徒に求めるレベルは非常に高く、連日山のように出される課題を必死でこなした。
 はじめて哉の音を聞いた時、ピアノが楽器である以前に巨大な機械装置である事実を思い出す演奏だと呆れられた。
「あなたは禁欲主義者なの? それともピアニストなの?」
 彼女は肩をすくめて言った。
「病的に感情を抑制しようとするのは、嗜虐趣味から? だったら、私に指導できることはないわ。いい精神科医を紹介しましょうか?」
 医者は必要ないと真顔で言ったら、声をあげて笑っていた。
 この美しい師から教え込まれたのは、感情を支配する術だった。
 音楽院では、音楽を共通の言語とする多くの者と出会った。心通う友人がいて、反目する敵手がいた。成功する者がいて、志半ばで去っていく者がいた。彼らの背中を見送って、しかし哉は生き残った。
 和臣からは、毎年律儀にクリスマスカードが届いた。返事を書くつもりでペンを取り、途中まで書きかけ、結局すべて破り捨てた。
 毎日が目まぐるしく過ぎていく。やるべきことはあまりにも多く、与えられた時間はあまりにも少ない。練習、勉強、試験。演奏会にコンクール。休みなく鍵盤を走る指、息継ぎをするのもやっとの日々。感傷に浸って、故郷を思う暇などなかった。
 そうして、七年が過ぎた。