舞台裏の揺籃歌
 しんと静まりかえった春の宵、和臣は自宅の居間でひとり持ち帰りの仕事に没頭していた。年度末のこの時期は業務が多く、今週も残業続きだった。目もかすんできたことだし、そろそろ一息入れようかとふと手を休めて時計を見れば、まもなく日付が変わろうとする時刻だった。
 彼の同居人はまだ帰宅していなかった。今晩は仕事関係の飲み会だと聞いている。終電に間に合えばいいが。
 そう思ったとき、玄関で鍵を開ける気配がした。続けて、何か重いものがどさっと床に落ちる鈍い音が静寂に響く。
 和臣は驚いて階段を駆け下りた。
「哉?」
 心配そうに声をかける和臣を見上げて、哉は床に仰向けに寝そべったまま蕩けるような笑顔を浮かべた。お世辞にも愛想がいいとは言えない平生の彼を知る人間が見たら、腰を抜かすに違いなかった。
「飲み過ぎました」
 哉はいつになく上機嫌で、全身から濃厚な酒のにおいが漂っていた。
「大丈夫?」
「はい」
 頷くような仕草をしたが、とても大丈夫そうには見えなかった。付き合いの長い和臣ですら、この乱れようには少々驚かされた。哉は自制心の塊のような男で、家でも外でも、ここまで酔った姿を見たことはない。今晩の酒席はよほど盛り上がったのだろうか。珍しいこともあるものだと思いながら、和臣は二階に上がり、台所で水を汲んできた。
 玄関に戻ったときには、哉は壁により掛かるようにして座っていた。半分寝ぼけながら、和臣が差し出したグラスの水を一気に飲み干した。
 空になったグラスを受け取りかけて、喫煙の習慣がない哉の髪に、煙草の残り香が染みついているのに気がついた。
 懐かしいそのにおいで、誰といたかすぐに察しがついた。
「高木先生と一緒だったんだね」
「教授会の後、高木先生の家で飲み直して。すみません、遅くなって」
「階段は上れそう? とりあえず寝室に」
 脇に腕を回して立ち上がらせた瞬間、ふと目線が交わった。
「キスしていいですか」
 返答するより先に抱きしめられ、唇を塞がれた。
 酒の力によって熱を増した吐息と共に、上から強引に侵される。溢れんばかりの欲望が唾液の形をとって、粘膜を淫らに濡らした。その先に確かな情交の存在を感じさせる激しい口づけだった。
 気の済むまで絡ませた舌をやっと解いてから、哉はある世界的に有名な指揮者の名を挙げた。
「事務所から連絡があったんです。秋に予定している来日公演で、協奏曲の独奏者に俺を推してくれたと。まだ何をやるかは決まっていないんですが」
「すごいじゃないか」
「もちろんすぐ受けましたよ。……まだ信じられない」
 呟くように言うと、哉はまた軽く何度か唇を重ねた。それから、和臣の腰を抱いて思い切り持ち上げた。和臣は目を見張って小さく声をあげ、とっさに哉の肩を強く掴んだ。
「ちょっと、哉! 危ない……」
「高木先生にも言っていないんです。和臣さんに一番に報せたくて。直接、顔を見て」
 笑顔で嬉しそうに言われては、叱ることなどできなかった。
「ありがとう。光栄だね」
「やっぱり、まだ酔ってるみたいです」
 哉は和臣を下ろすと、わずかによろめき、頭を肩にもたせかけてきた。ここまであからさまに甘えてくるのは初めてかもしれない。男性としての矜持が邪魔するのか、哉が積極的に甘えたいような素振りを示すことはほどんどなかった。気落ちしているときや疲れているときには、触れた肌から空気を読みとって、和臣の方からそれとなく誘いをかけるのが常だった。
 和臣に支えられて階段を上りながら、哉は覚束ない語調で尋ねてきた。
「来てくれますか」
「どうだろう、秋は行事が多いからね。修学旅行や文化祭、体育祭……」
「そうですよね」
 どこか寂しげな哉に申し訳ないと思いつつ、和臣は考えを巡らせた。
 会場はどこだろうか。
 国際的に名の通った指揮者が振るのであれば、きっといい音響設備のある大ホールに違いない。その方が有り難かった。
 再会ののち身体の関係を結んで以来、何か心境が変化があったのか、哉は和臣の前で演奏する際に、普通ならば絶対にしないようなミスを重ねるようになった。不思議なことに、二台ピアノや連弾の曲を一緒に弾くのは問題ないようだった。カウンセリングを受けさせようかと迷った時期もあったが、和臣の前でだけ、という限定された状況でしか起こらない現象なので、ひとまず様子を見ている。
 だから哉の公演に足を運ぶことはなかった。
 表だっては、の話だが。
 実は哉に黙って、時々こっそりと聴きに行っている。ただし大きな会場に限って、一番後ろの席で、しかもマスクや帽子で変装をした上で。哉本人はもちろん、親しい友人や知人も誰ひとり知らない秘密だった。
 ようやく寝室にたどり着くと、哉をベッドに横たわらせ、コートとスーツの上着を脱がせて、シャツの襟元を緩めた。哉は背が高いから、それだけでかなりの労力を要した。
 和臣はベッドの際に腰掛け、哉を見下ろすような格好で尋ねた。
「気分はどう?」
「悪くないです」
「もう一杯水を持ってこようか? ちょっと待って……」
 腰を浮かせかけたところで、腕を背後から強く掴まれた。
 半ば無理矢理といった体で、そのまま波打つシーツに引きずり込まれる。さほど驚かなかったのは、こうなることを心のどこかで期していたからかもしれない。
「水なんていいから、ここにいてください」
 必死で請うように言われて、和臣は苦笑した。
 完全に組み敷かれた今の状態では、水を取りに行くことなど不可能だ。
「わかった、どこにも行かないよ」
 許しを得たとたん、瞬く間に元気を取り戻したのには呆れるしかなかった。哉は片手で器用にボタンを外し、和臣の服を脱がしにかかった。
 一枚、また一枚と衣服が取り払われていくごとに、二人の人間を隔てていた見えない何かも剥がされていくようだった。
 全部を脱ぎきってしまうと、相手が求めるもの、自分が求めるもの、それだけが世界のすべてになった。
 くつろいだ様子でベッドに横たわり、しきりに足を絡ませながら、額に、瞼に、頬にと、哉は雨のように口づけを降らせた。
「先生、好きです」
「うん」
「愛してます」
「うん、知ってるよ」
 首筋に至った唇が柔らかいところに強く吸いつく感触を覚え、和臣は慌てた。
「こら、見えるところには……」
 ややきつめに窘めても、やめる気配はなかった。子供じみた所有権を主張するかのように、いくつもの赤い印が肌に刻みつけられていく。
 最後には結局、和臣の方が折れた。幸い今日は金曜日、明日明後日と出勤の予定はなく、月曜まで跡が残るとは考えにくかった。それに、恐らく当人が自覚しているよりもずっと強い独占欲を、たまには充足させる必要もあるだろうと思ったのだ。
 哉はベッドサイドに置かれた棚から潤滑油を取り出して指を濡らすと、和臣を後ろ向かせ、その場所を円を描くように丁寧になぞった。柔らかな愛撫ではあったが、生物としての弱点でもある部分を晒され、しかも自分以外の人間に触れられて、周囲の筋が緊張でひくつくのを感じた。
 一度目の挿入は異物を排除する動きによって拒まれたが、二度、三度と繰り返すうちに、とろりと濡れた生温かい指先が、徐々に奥まで飲み込まれていった。
 腹部を圧迫する異物感は幾たび経験しても慣れるものではなくて、和臣は息を詰め、シーツを強く握りしめて耐えた。三つ目の関節まで埋まると、哉は指を入れ込んだまま、顔がよく見えるようにと和臣の身体を横たえた。内壁をかき回す指の動きはごく緩慢ではあるけれど、劣情を引き出す箇所を的確についてくる。
 敏感な一点を何度も刺激されて緊張がほぐれてくると、唇の合間から艶めいた声が溢れ出た。哉はそれを聞いてたまらないように身体を寄せて、隆起した陰部を和臣の腿の内側に押しつけた。
「熱いです、先生」
 しかし和臣には、哉の指の方がよほど熱いように思われた。
 正確な打鍵と硬質な音から、鋼鉄の指、機械の指と称されることもある指。だがこの指がどれほど激しい熱を隠しているのか、批評家たちは知るまい。
 与えられるばかりというのも心苦しくて、何より満たされなくて、和臣は濡れはじめた相手の先端をこすりあげた。哉は眉根を寄せて、折り曲げた指に微弱な動きをつけ、襞をさらに執拗に探った。すると今度は和臣が、窪みから滴る液で掌を濡らして、哉の上向いた硬直を緩急をつけてしごく。耳のすぐ側にある唇から、乱れた苦しげな呼吸が流れてきた。
 相手を責め立てるごとに自分も責め立てられて、与えた刺激が濃密に反響する。
 もっと速く、激しく、甘美に。
 身体を言語とした無言の対話、官能の応酬。それはさながら間接的な自慰だった。そのどこか後ろめたい行為に耽るうちに、下肢から力が抜け、甘い痺れが広がっていくのを感じた。
 次第に早く、小刻みになる吐息を吸い上げて、深く口づけを重ねていくなかで、和臣の右手と哉の左手がシーツの上で何気なく触れあった。
 すると突然、堪えがたい嬉しさが胸からこみ上げてきた。
 秋のコンサートで、この手はどんな曲を奏でるのか。
 哉や指揮者が得意とする曲か、オーケストラの十八番か、それとも日本の聴衆の嗜好に合う曲か。ありとあらゆるピアノ協奏曲の旋律が耳に押し寄せてきた。和臣個人としては、哉が今まで全く取り組んだことのない曲や、コンクールのファイナルでしか弾いたことがないという曲も聴いてみたかった。
 哉は今回の演奏会を必ずや成功させるだろう。
 曲の完成度を高めるために練習に練習を重ね、時間を惜しまず研究し、孤独な思索の果てにひとつの答えを見いだすだろう。
 オーケストラをバックに大舞台で独奏する彼の姿が、鍵盤を滑らかに流れる長い指が、すぐ間近に見えるようだった。
 大学に勤めるようになって公演の回数が激減したせいか、最近の哉を見ていると、これまでピアノを弾くことで発散していた精力が行き場を失っているような気がしていた。十年以上も人前で演奏することを仕事にしてきたのだから、当然の反応だろうと思う。
 それゆえこの好機は、望外の吉報だった。
 何より哉が喜んでいることが、喜びを分かちあえることが素直に嬉しかった。
 ちょうど来週の日曜、コンサートグランドを譲ってくれるという人のところに、哉と二人で挨拶にいく予定だった。父の友人の細君が所有していたものだが、息子家族と同居するのに伴い転居するので、引き取り手を捜しているのだという。新しい家には大きなピアノを置けるような広さも設備もないからと。
 市場価格よりもずいぶん安い値であったので、和臣は驚いて、桁をお間違えでないかと聞き直してしまった。
 しかしその笑顔が魅力的な老婦人は、片目をつぶって言ったのだった。
「今さら多少のお金が増えたところで、税金として吸い取られるだけですもの。若い方への投資と思って頂戴。亡くなった夫の思い出がつまったピアノですからね。見ず知らずの人の手に渡るよりは、お付き合いのあった方に引き取って頂く方が嬉しいわ。才能あるハンサムな演奏家なら、なおさらね」
 うまく話がまとまれば、調整にかかる時間を考慮しても、公演の練習には間に合うはずだ。元々よく手入れされていた品だ。
 もっとも、ピアノにはそれぞれ個性があって、弾き手との相性もある。哉が合わないと思えば、それで終わりだ。先方も自身が音楽をやる人だったから、その点は承知してくれている。
 だが先にひとりで下見に行った和臣は、哉はきっとこのピアノを気に入るだろうと確信した。
 素直で従順なピアノよりも、やや癖のあるピアノが哉は好きだった。
 彼が好むのは、華々しくきらびやかな音ではなく、安定感のある豊かな音。
 そして一般的なものより押す感触が重めで、深く沈んだときに抵抗してくるような鍵盤。
 深く、深く沈んで……。
「何か考え事してますね」
 深く入り込んだ哉の指先が、和臣の弱いところをなじるように優しく刺激した。
 押し寄せる快感の波に耐えきれなくて、哉の脚の間で上下に動かしていた手を離し、思わず縋りつくようにその背に回した。
 そんなことはない、途切れがちの息の合間にやっとそう言いかけた唇は、声を発する前に塞がれた。
 哉はなおも尋ねた。
「さっき、どうして高木先生と一緒だったとわかったんですか?」
 話を持ちかけてきたのは哉の方なのに、答えはいらないとばかりに、再び唇を押しつけられた。優しい嘘と欺瞞を舌先で絡め取ってから、哉はゆっくりと指を抜き去った。
「俺のことだけ考えてください……今だけは」
 和臣の片足を持ち上げて押し開くと、哉は指が収まっていた同じ部分に起立したそれを当てた。
 あてがった場所は十分に柔らかくなっていたけれど、じらすためにそうしたのであって、いつもの通り、てっきりその前にもう一動作あるだろうと油断していた。
 次の瞬間、無防備な下腹部を衝撃が貫いた。
 本能的に苦痛から逃れようとよじらせた和臣の身体を、哉はぐっと力をこめて押さえ込んだ。と同時に、指よりもずっと太いものが、暗く狭い道を抉るように突き進んでいく。元々は排出するための器官だ。より深くまで達しようとする意志と、侵入者を拒もうとする襞のせめぎあいが、肉体を厳しく追いつめる。
「ん……」
 呼気を長く保つことで、ようやく、和臣は下肢にのしかかる重みを忍んだ。
 まさか、何も付けずにそのまま挿入されるとは思わなかった。そういう点で抜かりはなかった、普段の哉であれば。だが今晩の彼は普段と違うことを完全に失念していた。
 行為の端々に二十代の頃の荒々しさと性急さを感じ取って、和臣はわずかに涙ぐんだ目を細めた。その間にも、熱い衝動が存在感を増しながら、奥へ奥へと入り込んでくる。
 ここ数年は、激しい肉体のぶつかり合いによって欲求を昇華させるよりも、互いの快楽を少しずつ引き出し、最終点に至るまでの課程自体を愉しむことを優先するような交わりが多かった。きっと、和臣の身体を気遣ってのことだろう。
 だが彼も男盛りだ。本当は昔のように、無心に貪り合うようなセックスを求めているのかもしれないし、和臣自身、多少手荒くされるのも決して嫌いではなかった。
 和臣は目を閉じた。彼の優しさを否定することなく、誇りを傷つけることなく、二人が望む形で夜を過ごすことができれば一番いいのだが。大切に思うことと、大切にすることは、なかなかうまく両立できない。
 やがて根元まですっかり飲み込んでしまうと、身体にも心にも若干の余裕が出てきた。
 自分を夢中で犯す男の身体の線を、和臣はひとつひとつ確かめるようになぞった。引き締まった背中、鍛えられた肩、よくしなる逞しい腕。ピアノを弾くためにつくられた、無駄のない肢体。
 近年、叙情的な描写をするときの哉のピアノには、成熟しつつあり、しかしどこかに青い苦みを残したような、大人の男の持つ深い味わいが加わってきた。さらに先、もっと先、これからいったいどんな音を聞かせてくれるのだろう。それを思うと、楽しみで仕方がなかった。
 哉は神童でも天才でもなかった。天から賦与された才能ではなく、自らの手で掴み取った名前も形もないものが、彼の音楽に力を与えるのだ。
「何を笑っているんですか」
 哉は額に汗を浮かべながら、甘やかな口づけを落としてきた。
「先生、俺に隠し事してるでしょう?」
 否定はしない。肯定もできない。
 まさかここで、隠れてコンサートに行っていることを白状するわけにはいかなかった。
 だから和臣は返答する代わりに、唇を味わうように優しくはんだ。哉は顔をしかめた。
「ずるい」
「そう?」
「ずるいですよ、いつも俺ばっかり」
 今や哉の方が身体的に優位な立場にあるのは明白なのに、拗ねたような口調だった。
「君ばかり?」
 何を、と言外に問いかけるが、返答はなかった。
 話す間にも、哉の指先は絶えず和臣の下腹部をまさぐっていた。与えたいものを確実に与えられているのか気がかりなようで、哉は行為の最中、いつも無意識のうちに和臣の反応を探っている。
 はじめての時に和臣が射精に至らなかったのを、未だに気にしているのかもしれなかった。恐らく同じ理由から、今でも和臣が吐精してからでないと、自分も達しようとしない。
 もう、十分すぎるほどのものをもらっているのに。そう思いながら、耳の感度がいいことを承知して、舌先でその輪郭を柔らかくなぞった。
「気持ちいいよ」
「本当に?」
「ああ」
「でも、たぶん俺の方が」
 軽く背筋を震わせて言うと、哉は繋がりあったまま和臣の身体を起こして抱きかかえ、鎖骨のあたりに頭をもたせかけた。
 どちらの肉体にも女性的な柔和さなどないのに、肌を寄り添わせ、腕に、脚に、胸に、その他至る所に肉体の重みと現実感を伴った哉の体温を感じていると、神経が落ち着いていくのがわかった。たとえどれほど身体は昂り、乱されていても。
「明日から練習しないと」
 酔いが醒めきっていないのか、どこか舌足らずな声だった。
 アルコールの効果というものをつくづくと思い知らされる。情事の時もどちらかといえば寡黙な哉が、今夜はいたく饒舌だった。
 さり気ないやりとりの間隙にも、胸の突起を弄び、首筋を吸い上げ、指を絡めとって、緩く腰を動かして、時には素早く口づけて。焦らして、焦されて、常に相手のどこかに触れながら、交歓の喜びと淡い快感を転がす戯れは続く。
 和臣は恍惚の波に溺れきることのないように、息を整えて言った。
「気が早いね。まだ曲は決まっていないんだろう?」
「そうでした。決まったら、朝も晩も練習だ」
 練習に付き合うことができればよかったが、そう言いかけて、和臣は言葉を飲み込んだ。叶わない望みを口にしたとて、哉を徒に傷つけるだけだ。
 二つのピアノを並べ、協奏曲の独奏部を弾く哉に合わせて、オーケストラの部分を和臣がピアノで伴奏する。
 和臣は目を伏せて、脳裏に浮かんだ情景を消し去った。
 今ではもう、夢の話だ。
 年を追うごとに筋力が弱くなっているのか、右手の動きは鈍くなる一方で、最後まで弾ききることのできる曲が少しずつ減ってきていた。昔ほどの技巧は望めないにしろ、ただ楽譜をなぞるような演奏ならば、どうにかだましだまし弾けていたのだが。医者に診てもらい、鍼灸やマッサージなども試してみたものの、効果は薄かった。
 左手にも多少は事故の影響が残っているから、このままいくと、しまいには連弾も出来なくなって、ペダルだけ担当するようになるかもしれない。
 とはいえ、失われた自分の音そのものに未練はない。少年の頃は鍵盤から様々な色彩を引き出して、ピアノという楽器の可能性を広げていく課程に夢中になったものだし、代え難い人生の一部として音楽それ自体を愛してはいたが、自分自身の演奏についての関心は元々ひどく薄かった。
 仕事にも日常生活にも支障がない程度の症状で済んでいるのがむしろ幸運であって、加齢に伴う肉体の衰えは仕方のないことだと納得している。この指は、ピアノを弾くという役目を終えつつあるのだと。
 ただ哉と思うようにピアノを弾くことができない、それだけがひどく残念に思われるのだった。
 そんな和臣の思いに気づくこともなく、哉は無邪気に言った。
「先生、アドバイスをください。思い切り厳しいのを」
「僕は部外者だからね。ある程度仕上がった時点ならともかく、最初から口を出すのも……」
「いいんです。先生は特別です。先生が一番、俺の音をわかってくれている」
 自分の肩越しに壁を見つめる和臣の表情に、翳りが差したことを哉が知るはずもなかった。
「そうでしょう、和臣さん?」
 言葉の終わりを待たず、急に下から突き上げられた。最深部まで響くその衝撃に、和臣は図らずも慎みを完全に手放した嬌声を漏らした。不意を衝かれた無防備な声音に煽られたのか、哉はベッドに和臣の身体を押しつけた。
「我慢できなくなったら、教えて」
 声が聞きたいのだと甘えるように言って、性器の結合だけではまだ足りないとばかりに、唇を割って舌を入り込ませてきた。スプリングの軋みに合わせて繰り返される浅い呼吸から、抑えきれない快楽が零れ落ちそうだった。
 うっすらと目を開けると、視線が熱く絡まった。
 少し潤んだような、熱を帯びた眼差しは、遠い記憶を呼び覚ました。
 同じ目を知っている。
 勤務している女子高の生徒から、教師に対する思慕とは明らかに違う種類の好意を向けられた経験は少なからずあった。
 ほとんどの場合は気づかぬ振りをして、時にははっきりとその気持ちを受け入れることはできないと伝えた。
 一途で真摯な感情は、遊びでも気の迷いでもない。
 だが彼女たちにとって、その思いは夢や幻に似て、卒業と同時に跡形もなく溶けてしまうものだ。
 それなのに。
 今このときも、静かに燃えるような瞳が和臣を捉えて離さない。どれほどの年月と距離を間に置こうと、彼はいつも痛いほどひたむきに和臣を求めてきた。
 哉の隣にいると、ふと覚めない夢を見ているような錯覚に襲われることがある。
 目覚めなくてはいけないのに、目覚めることを忘れてしまって、いつまでも終わらない夢物語を。
 演奏者としてのキャリアのためにも、ひとりの男性としての幸福のためにも、自分の存在が彼にとって害になるかもしれないと、別れが頭をよぎった瞬間は幾度となくあった。年齢や性別の問題だけではなく、ただあまりにも強すぎる結びつきのために。
 法も血縁も、自分たちを繋ぐ形あるものは何もないはずなのに、互いが互いに深く食い込みすぎている。ピアノという物質的な面でも、精神においても。
 それは相互に高め合うとか、尊敬し合っているとか、そういった耳に快い言い回しで正当化し得る関係ではなかった。
 彼は若い。
 だからいずれ心が変わるだろうと思っていた。
 コンサートピアニストとして世界を飛び回る哉が、日本に帰るのは年に数日だけ。
 一時の逢瀬と、同じ数だけ繰り返される別れの口づけの度に、これが最後かもしれないという諦観があった。
 彼の行く先には多くの人との素晴らしい出会いが待っていて、目映いほどの可能性が拓けている。
 夢はいつしか覚めるもの。それが現実で、それが自然の理だ。
 けれど哉は世界中を旅して、旅して、最後にはやはり和臣の元に戻ってきた。
 渡り鳥のように、迷うことなくこの腕の中に帰ってくる。
 気づいたのはいつだっただろうか。
 肌を合わせる喜びに高鳴る彼の鼓動が、彼のものだと思いたかったそれが、本当は自分自身の胸で響いている音だと気づかされたのは。
 他者の手に心を掴まれることの、甘い苦しみを知ったのは。
「先生」
 かすれた低い声が鼓膜を震わせた。繋がり合った部分以上に、深く深く身も心も揺さぶるその声。腰を打ち据える肉感的な水音。はち切れんばかりの欲望に追いつめられた動きが、だんだんと激しさを増していく。
 頂点が見えた今、主導権は疑いようもなく哉の手中にあった。
 情熱的な律動に翻弄されて、和臣は白んでいく視界の中に理性を手放した。
「あ、だめ、いく……」
 人間のちっぽけな意志や理想をあざ笑うかのように、白濁した体液がだらしなく宙に散った。
 限界を告げる控えめな声音と相反した、淫らな射精と絶頂のきつい締め付けに呼応されたのか、哉の息づかいにも痛々しいほどの切実さが滲んでいた。
「俺も」
 中に吐き出される。
 果てた後の気だるい余韻を愉しむ暇もなく、直感から無意識に下半身を引こうとすると、より強い力で抱きしめられた。温かい牢獄に囚われて、身動きすることもできなかった。
 受け入れて欲しい。
 汗ばんだ肌から伝わる狂おしい懇願を、拒むすべなどなかった。
 もはや逃げられないことを悟り、和臣は下肢を哉の腰に絡ませた。
 切ない喘ぎと共に、剥き出しの欲情が息つく間もなく注ぎ込まれる。
 もしピアノに心があったら、同じような感覚を味わっているのかもしれない。
 暴力的なまでの力と速さで蹂躙させられて、弦を戦慄かせ悲鳴を上げるときも。
 甘く柔らかな愛撫にいたぶられて、汚れを知らぬ顔で澄んだ歌声を響かせるときも。
 臓腑が、血肉が、あらゆる粘膜が侵され、支配されていく。
 食われる、食い尽くされる。
 咀嚼して、味わって。
 飲み下して、蕩かして。
 あらゆるものを糧にして。
 ……食らい尽くせ。
 和臣は哉の髪を指で愛おしむような仕草をしてから、頭をぐっと引き寄せると、舌先を抉るように口腔に押し入れた。
「おいで」
 唇を離し耳元で囁く。哉が息をつめる気配がし、銜え込んだ半身が震えた。
 力強い一突きと同時に、どくん、どくんと下腹部が熱く脈打った。鼓動と共鳴する熱情の残響、それは生命の音。
 和臣は放たれた最後の一滴まで飲み尽くした。
 まるで自分の中に、もうひとつの心臓があるようだと感じながら。

 緊張の解けた自身を抜き去るやいなや、哉は昏倒したように寝入ってしまった。
「哉、痛いよ」
 身体を洗いに行こうにも、哉の手が右手首をしっかり握って離さなかった。何度か外そうと試みたものの、手加減なしに全力で掴んでくる男の力にかなうはずもない。しかたないなと困ったように笑って呟きながら、寝息を立てる哉の顔を注視した。
 先ほどの行為の余情はいったいどこに消えたのかと首を傾げたくなるほど、穏やかな寝顔だった。
 本質的に、彼は少年の時と変わっていなかった。
 年齢を重ねるにつれ、感情のあしらい方や嘘のつき方がうまくなっただけだ。
 次はもっと上手く弾きたい、その次はもっと。ただそれだけを願って毎日飽きもせず何時間も鍵盤に向き合って。
 本人は認めないだろうが、驚くほどロマンチストで、燃えるような熱情を持て余して、理性の下に押し込めて。
 そして、ピアノに叶わぬ恋をし続けている。
 自由のきく左手で哉の髪を漉いていると、耳の奥に甘い旋律が蘇ってきた。
 哉が毎年誕生日に贈ってくれる、リストの愛の夢。
 ピアノ曲として広く知られているが、元々は歌曲として作られた作品だった。
 ほとんど忘れ去られているその古い詩を、和臣は静かに口ずさんだ。

 能うかぎり愛せ、
 望むかぎり愛せ。
 やがて時はきたる、きたるのだ、
 君が墓の前に立ちつくし、
 悲しみにくれるその時が。

 心せよ、
 胸に情熱を燃やすよう、
 愛を育み、愛を抱くよう。
 もうひとつの心臓が愛のなかで、
 君の耳に温かく、
 鼓動を響かせるかぎりは。

 歌声が耳に入ったのか、哉は薄く瞼を開き、夢うつつの口調で囁いた。
「愛しています」
 それから唇をそっと和臣の右手の甲に寄せ、再び手首を握り直すと、またすぐに眠りについてしまった。
 和臣は開きかけた唇の動きをとめた。
 二人の人間と、それからピアノと。
 その感情の縺れ合いを愛と呼ぶことが許されるのか。
 確信がもてないまま、それでも口にせずにはいられなかった。
「……ああ、僕もだよ」
 健やかな寝息を聞いているうちに、耐え難いほどの眠気が襲ってきた。
 哉の手によって戒められた身体をようやく伸ばして電気を消すと、重い頭を枕に埋めた。薄暗がりに、思考の断片がまとまりなく散らばった。
 明日は休日で、ニュースによれば天気は快晴の予報だった。
 朝一番で酒臭いスーツをクリーニングに出して、汚れたシーツを洗おう。
 二人で遅い朝食をとって、哉の練習の合間に、たまには買い物がてら散歩にでも行こうか。二日酔いで寝込んでいなければの話だが。
 唇に笑みを浮かべ、和臣は心地よい微睡みに身を委ねた。
 いつまでも終わらぬ夢を胸に抱きながら。