つがいのまねごと
10
 翌日、寝ぼけ眼で枕元の目覚まし時計を引き寄せると、液晶に刻まれた数字の羅列は今が昼過ぎであることを示していた。寝過ぎて頭が痛い。休日でも、こんなに長く眠ったことはなかった。
 気だるさの残る半身を起こしたとたん、なぜか手に違和感を覚えた。そこにあるべきものが欠けているような、満たされない寂しさだけが空っぽの掌に残っている。
「入ってもいいか」
 軽く部屋の扉が叩かれて、咄嗟に貴之は布団の中に手を引っ込めた。
「どうぞ」
 身支度を整えるのも面倒だと思って、起き抜けの姿のままベッドに座って愛想なく応えたが、将生が室内に入ってきたせつな、激しい後悔に襲われた。将生の背後に、白衣姿の若い男が見えたからだ。
 この男は、どうして肝心なことを言わないのだ。
 来客があるならあるとはじめに教えてほしい。
 そうすれば、もう少しましな格好をしていたのに。
 怒りと困惑が入り混じった厳しい視線を軽く流して、将生は見るからに医療関係者と思しきその人物を紹介した。
「こちらは」
「はじめまして、貴之君。見ればわかるだろうけど、お医者さんだよ。そんなに怯えなくてもいいからね。別にお医者さんごっこしてるわけじゃないから。いつもは寝たきりのお爺さんやお婆さんの訪問診療をやっててね。若い子を診るの久しぶりだから緊張しちゃうなあ。あ、いいから座って座って」
 眼鏡の奥に胡散臭い笑顔を張り付かせた男は将生の前に陣取り、聞いてもいないことまでべらべらとまくしたてた。貴之は呆気にとられて、浮かせかけた腰を再びベッドに落とした。
「こいつは、俺の」
 再び開きかけた将生の口は、横から押し寄せてくる言葉の激流に一瞬にして塞がれた。
「僕は田口。君のお父さんの数少ないお友達だよ。高校時代からの腐れ縁ってやつかな? まあ、僕も友達なんてほとんどいないから人のこと言えないんだけどね。じゃあ、貴之君。早速診察しようか。ほらほら、保護者の方は荷物を置いたらさっさと出て行ってくださいね。図体がでかいだけで邪魔だから」
 田口という医者は将生から大きな鞄を二つ受け取ると、手でしっしっと動物を追い払うような仕草をした。将生は少しだけ躊躇うように田口と貴之を見てから、扉の向こうに引き下がっていった。
 初対面の見るからに妙な男と部屋に二人きりにされた不安で、貴之の全身が強ばった。貴之が病院に行くのを拒否したため、将生が知り合いの医者を呼んだのだろうとは想像がつくが、これからいったい何をされるのか。
 田口は鞄の中から取り出したパソコンの電源を入れて、それから様々な医療器具を貴之の勉強机に並べた。
「事後承諾になっちゃうけど、机借りるよ。構わないよね? 机、きれいに整頓してるねえ。偉い偉い。ほらほら、そんなに緊張しないでね。ちょっと身体の具合を診るだけだから。服脱いでもらえるかな? まず上半身」
 そう言われても、事態がまだ飲み込めていない貴之は反応することができなかった。この男、本当に医者なのだろうか。いわゆる闇医者とかいうやつではないのだろうか。
 いつまで経っても動こうとしない貴之を見つめて、田口は悲しげに眉を寄せた。
「貴之君、もしかしてお洋服自分で脱げないんでちゅか? お手伝いちまちょうか」
 あからさまに小馬鹿にされて、貴之は思わずむっとした。
「できます」
「そうそう、やればできるじゃない」
 満足そうに微笑んで、鞄から取り出した聴診器を首に下げた田口は、露わになった胸にあてた。うまいように唆された気がするが、それを指摘したところで、さらに相手の思う壺にはまる予感がした。
 あのようなことがあった後だから、正直なところ、面識のない大人の男に触れられると思うだけで、嫌悪で背中に悪寒が走った。けれどそれも最初だけで、田口のふざけた態度と、職業的な冷たさしか感じない手の動きに、次第に緊張が解かれていった。
 口を開けて、息を吸って、吐いて、痛いところはありませんか。
 ごく普通の病院でするような診察が続いた。貴之の身体に残った生々しい傷跡を見ても、田口は何も言わなかった。
「下もいい? 嫌だっていっても診るけど」
 あっさりと告げられて、貴之は平然とした顔を取り繕い、内心の動揺を隠して衣類を取り払った。継父はこの医者にどこまで説明しているんだろう。
 動揺を察しているのかいないのか、軽口をまくしたてるわりに、田口は怪我の状態について特別な見解を何ひとつ挟まなかった。最後に採血を済ませて、若い医者はごく事務的に診療を終わらせた。
「はい、おしまい。カルテとか作るからちょっと待っててね」
 そう言うと、ものすごい早さでパソコンのキーボードを打ち始めた。小型のプリンターが紙を排出し終わったころ、田口はやれやれという風に溜息をついた。
「最近眼が疲れやすくなってね。やだねえ、年取るのは。じゃあ、あと点滴しとこうか。その間にお父さんと話してくるから」
 田口は鞄から器具を取り出して、てきぱきと点滴の準備をはじめた。
「先生、いつもひとりで全部やっているんですか」
 貴之の素朴な疑問に、点滴の用意をする手を休めることもなく、田口は聞き返した。
「何、美人の看護師さんがいないのが不満?」
 これだから高校生は、と大きな溜息を吐かれて、貴之は憮然とした。
「そういう意味じゃありません」
「冗談はともかく、いつもは看護師さんも一緒だよ。ただ、今日は出血特別大サービスだからね。あ、でもサービスっていっても、人使いの荒い君のお父さんに診療費の請求はきちっとするから。こっちもボランティアじゃないんでね。はい、ちょっとちくっとするよ」
 気の抜けたかけ声と共に、肘の裏側あたりをぷつりと刺される。田口が栓のようなものをひねって調整すると、針が入ったところからしみだした冷たい液体が、徐々に血管を流れていくのがわかった。
「これでよし。お父さんと僕、部屋のすぐ外にいるから、もし針がずれたり、早く終わっちゃったら、先生!って叫んでね。大声で。田口大先生って読んでくれても構わないよ」
 手をひらひらと振って立ち去りかけた田口は、そうそう、と何かを思い出したかのように急に振り向いた。
「言い忘れてたけど、僕、今も昔もこれからも、君のお父さんの彼氏じゃないんで、安心していいからね」
 無意識のうちに考えていたことを真正面から否定されて、ばつの悪さに頬が火照るのを抑えきれなかった。
 田口がいなくなると同時に、水を打ったような静けさが室内に広がった。点滴が単調に雫を落としている様子を眺めていると、部屋の外から低い話し声が流れてきた。途切れがちな音はぼそぼそと響くばかりで、会話の内容まで聞き取ることはできなかった。
 やがて点滴が終わったのを見計らったかのように田口が部屋に戻ってきて、手早く荷物をしまうと、点滴をしにまた明日来るからと言い残して帰って行った。
 医者に診てもらったというよりは、何がなんだからわからないまま、突然の嵐に見舞われたという方が感覚的には近いかもしれない。将生自身は淡泊な性格なのに、ずいぶん強烈な個性を持つ友人がいるようだ。田口と話していると疲れはしたが、不思議と嫌な疲労ではなかった。
 しばらくして、将生が部屋にやってきた。
「うどん食うか?」
 とりあえず何か口にしておいたほうが回復も早いだろうと、素直に頷いた。十五分ほどしてから、将生は盆を持って再び現れた。
 うどんの横にはご丁寧に、うさぎの形を模したりんごが添えられている。怪訝そうに注視する貴之に、将生は説明した。
「皮がついていたほうが、栄養があるらしい」
「田口先生が言ってたんですか?」
「よくわかったな」
 あんた、絶対にだまされてるよ。
 内心で呆れながら、箸に手を伸ばした。鰹節の香りが鼻腔をくすぐったとたん、耐え難い空腹感に襲われた。
「……いただきます」
 身体が求めるままに、勉強机に置かれたうどんをすすった。だしがきいていて、美味しかった。将生の料理を美味しいと思ったのは、これがはじめてかもしれない。
 将生は貴之のベッドの際に座った。
「いきなり医者を連れてきてすまなかったな。驚いただろう?」
 驚いたことには驚いたが、それは医者が来たことにはなく、ブレーキの壊れた車のような田口の話しぶりにだ。
「一週間は学校を休めとのことだ」
「一週間も? 大袈裟ですよ」
 貴之は目を見張って箸の動きを止めた。
「明日から登校しても平気なくらいなのに」
 だが将生は、頑として譲らなかった。
「医者がそう判断したんだ。休みなさい。あいつは、医者としてはまともだから」
 まとも、ただし医者としてはという限定付きで。では、人間としてはどうなのか。貴之は口に出かけた問いを引っ込めて、再びうどんを咀嚼しはじめた。
「何か要るものはあるか?」
 将生に聞かれて、反射的に答えた。
「ものではないんですが、風呂に入りたいです。田口先生にも、入浴は問題ないと言われました」
「わかった。沸かしておくよ」
 空になったどんぶりを台所に持って行ったときには、すでに風呂の支度は整っていた。
「いいから、早く入ってこい」
 食器を洗おうとしたところをちょうど廊下からやって来た鋭く将生に見咎められて、貴之は渋々ながら従った。病人扱いされると、かえって気が滅入ってしまうのだが。
 風呂場にはうっすらと白い湯気が漂い、石鹸の柔らかなにおいが満ちていた。怪我をした姿が映るのが嫌で、鏡から眼を逸らしつつシャワーを浴びた。できるなら、内臓までごっそりと洗い流してしまいたかった。身体中のすべての器官に、金子の香水のにおいが染みついているような気がする。
 田口からはシャワーを浴びるぐらいならといい言われていたものの、誘惑に耐えきれず、湯船に足を向けた。半身を沈めると、思わず深い吐息が漏れた。実際には家を出て数日しか経っていないのだが、一年ぶりに湯船につかったような気分だった。
 長く入りすぎるとまた出血するかも知れない。そう思うのに、重い身体は立ちあがることを頑なに拒否する。肉体も頭も、自覚している以上に疲労していたのかも知れなかった。
 ぬるめの湯の快さを味わっていると、ふと外に人の気配を感じた。
「大丈夫か?」
 曇り戸の向こうから、将生のくぐもった声した。水音がしないから不安になったのだろうか。
「ご心配なく。生きてますよ」
 返事を聞いて立ち去ろうとした将生に、貴之は声をかけた。
「悪いんですが、タオルを持ってきてもらえますか? 湯船に落としてしまったんです」
 将生の動きがぴたりと止まった。と、少しだけあいた扉の隙間から、タオルを握った手がぬっと伸びてくる。出来の悪いホラー映画のようだった。
 実際には、タオルを落としてなどいなかった。からかい半分、将生に声をかける口実が欲しかっただけだ。
「そこまで手が届きません。すみません、入ってきてもらってもいいですか?」
 湯船から声を張り上げると、わずかに間をおいて、将生がのっそりと風呂場に現れた。
「ほら、これでいいか」
「ありがとうございます。俺が風呂で倒れていないか心配なら、村沢さんも一緒に入りますか?」
「狭いだろ」
 相変わらず冗談の通じない男だ。いつもの通りにこりともせずに現実的な反応をされて、貴之の胸のなかに、この男の困った顔が見たいという欲望が膨れ上がった。
 貴之はおもむろに湯船から出ると、シャワーヘッドを手に取った。
「……何だ?」
 怪訝そうな顔をする将生を無視し、貴之はシャワーの栓をひねって全開にした。勢いよく飛び出した水しぶきで、将生の全身はあっという間にぐっしょりと濡れてしまった。かけたのは水ではなくて湯だ。さすがに風邪を引かせるのは本意ではない。
「すみません、濡れちゃいましたね。でも、風呂には入れませんよね。狭いですから」
 こんな子供じみた悪戯は、小学生のときですらやった覚えはなかった。前髪から水滴をしたたらせた将生を見て、貴之は満足感に浸った。
 俯いていた将生の顔がのそりとあがった。さすがに怒ったのだろうか。貴之の胸に兆した期待と不安に反して、何を思ったか、将生はそのまま服も脱がずに風呂場に入ってきて、ためらいなく身体を湯船に沈めた。呆気にとられた貴之の方に、手をさしのべる。
「来いよ」
 貴之は言葉を詰まらせた。
 確かに、最初に誘ったのは自分自身だ。だが、まさか将生が応じるとは思わなかった。しかも着衣のままで。
「どうした、一緒に入るんだろう?」
 躊躇する貴之を、将生はなおもゆるゆると追いつめる。
 完全に敗北を喫した貴之は悔しげに顔をしかめて、ほとんど飛び込むように湯船に入った。その勢いでかなりの水が散った。
「やっぱり狭いな、男二人だと」
 将生がしみじみと言った。
 湯船のなかで、ちょうど互いに向き合う格好になっていることに気がついて、貴之は慌てて方向転換を図り、将生に背中を向けた。なるべく触れ合う面積が狭くなるように、将生の足のあたりで背を丸くして膝をかかえた。それでも、背中に濡れた衣類のごわつく感触があたった。
 そのとき急に、これまで将生にぶつけてきた言動が次々と脳裏に蘇ってきた。湧きあがった羞恥で、頭が沸騰しそうだ。
 貴之は歯を食いしばって、火照った頬を隠すように水面を睨みつけた。
 ふと、背に痛いほどの視線を感じた。振り返らずともわかる。将生が傷のある場所をじっと注視しているのだ。
「湯に浸かって、怪我は痛まないか?」
 尋ねられて、貴之は思わず強い口調で答えた。
「骨も折れていないし、ほとんど打ち身みたいなものです」
 傷がどのような状態になっているのか、貴之自身も知らない。傷自体は、それほど深いものではないはずだ。血で自分たちの服が汚れるのは嫌だと、笑って言っているのが聞こえたから。
 将生はその先を続けなかった。問いただすことも、責めることもしなかった。それでも貴之は、言い訳じみた台詞を口にせずにはいられなかった。
「仕事でしくじっただけです。自己責任ですよ」
 それに対する将生の声は、いつになく低く、厳しいものだった。
「自己責任なんて、軽々しく口にできるものじゃない。人ひとりが個人で責任を取れる範囲なんて、たかが知れている」
 教師が諭してくるような声音に、再び反発心が芽生え始めた。
「村沢さん、お願いがあるんですが」
「何だ?」
「離縁するなら、一人暮らしができるように取りはからってください。それが無理なら、施設に入りたい。祖母の家に行くのだけは、絶対にいやです」
 沈黙の後、将生は問いかけた。
「お前は、籍を抜きたいのか」
「だってどう考えても、俺たち、このまま続けていくのは無理でしょう?」
 風呂場全体に、貴之の声が虚ろに反響した。思ったことを口にしているはずなのに、わざとらしく聞こえるのはなぜだろう。
 あと一年少々の短い期間とはいえ、将生のお荷物として暮らしていくなどまっぴらごめんだった。これだけ悪事を働き、悪態をつけば、いくら将生でも自分を見放すだろうと思っていた。
 だが実際には以前と同じように、このままずるずると中途半端な関係が続いていってしまいそうな雰囲気があった。
 平然とやりすごすには長すぎる静寂に、ぴたん、ぴたんとシャワーヘッドから雫が落ちる音が単調に響いた。
 やがて、将生は静かに言った。
「もう一度だけ、やり直してみないか」
 何を、とまで告げる必要はなかった。
 読んだことはないが、恋愛小説ならばきっと、主人公が泣いて喜ぶような場面なのだろう。だが貴之は、彼らしくもない夢見がちな提案に、涙を流すどころか眉を顰めた。
「やり直してうまくいくんですか」
 最初から破綻していた関係をやり直したところで、何が変わるというのだ。具体的に教えてほしいものだった。案の定、将生から投げ返されたのは、やはり曖昧な返答だった。
「どうだろうな」
「呆れた。あんた、その脳天気な楽観論で自分の貴重な一年をふいにするっていうんですか?」
「どんな結果になっても、無駄にはならないさ」
 心なしか強い口調で言われて、でも、と貴之は反論した。
「俺はいい息子になんかなれませんよ」
「息子にいいも悪いもあるか。お前はお前のままでいい」
「詭弁ですね。どうせまた同じことをしますよ。金欲しさに身体を売って」
「しないよ」
 投げやりに放たれた言葉の続きを引き取って、将生は言った。
「お前は、もうしない」
「根拠は?」
 将生はきっぱりと言い切った。
「根拠はない」
「またそうやっていい加減なことを……」
「お前自身が、一番よくわかってるんじゃないか」
 穏やかな言葉に毒気を抜かれて、次にぶつけようと思っていた皮肉は喉の奥で消えてしまった。着地点の見えない、不毛な議論にも疲れてきて、貴之は不機嫌そうに溜息をついた。
「そこまで言うんなら、感動的な台詞でも使って俺を説得してみてくださいよ。やっぱり親子関係を続けた方がいいんだって思うような」
 憎まれ口をききながら、身よりのない貧しい少年少女が、裕福な大人に引き取られて幸せになる。そんなおとぎ話を思い出していた。子供の頃、そういった話をいくつも読んだり観たりした記憶がある。
 どの物語でも主人公は健気で心優しい者ばかりで、自分の世話を引き受けてくれるという親切な人に対して、さあ説得してみろ、などと偉そうに言う場面は絶対になかったはずだ。
 しかし将生の前では、貴之はもう聞き分けのいい模範生でいる必要はなかった。
「そもそも、俺は村沢将生って人間をぜんぜん知らないんです。知らないのに、どうして信頼できるんですか? あんた、自分について説明するのを怠けすぎじゃないですか?」
「……それもそうだな。俺はお前に、自分のことを話してこなかった、と思う」
「思うんじゃなくて、実際そうなんです」
「そうか。はじめから、全然駄目だったんだな」
 耳のすぐ近くを、溜息のような、呟きのような声が流れた。
「わかった。俺自身のことを話すよ。見ての通り喋るのが下手くそで、うまく伝わるかわからないが……」
「誰もあんたに喋りのうまさなんか期待してませんよ」
「どこから話そうか」
「まず生い立ちから」
 無愛想に促されて、将生は擦り切れかけた記憶の糸をたどるように、ゆっくり、ゆっくりと話し始めた。
 母親は将生を産むと同時に亡くなったこと。父親はその数ヶ月後、息子を置いて失踪したこと。
「何年かごとに親戚の家をたらい回しにされていたんだが、十歳くらいのとき、母親のはとこだか従兄弟だか忘れたが、とにかく遠縁の男に預けられた。その男は独り身だったから、いきなり子供を押しつけられても手に余ったんだろうな。中学に上がってしばらくして、施設に預けられることになった。平井先生はその時の担任で、面倒事を嫌がる親戚の男に代わって、事務手続きなんかを一緒にやってくれた。ありがたかったよ。役所に提出する書類の書き方なんか、中学生の俺には全然わからなかったから」
 物心つく前から家族はなく、どこに行っても厄介者扱い。悲惨な過去であるはずなのに、将生の語調はどこか懐かしそうだった。
「施設というと、ドラマや小説の影響なのか知らないが、あまりいいイメージを持たれないようだが、そんなことはなかった。職員の人もよくしてくれたし、他の子供ともそれなりに仲良くやっていた。でも、家族ではなかったな。だから今も、正直、普通の家族というのが、どういうものかよくわからない。見たり聞いたりしたイメージの枠を出なくてな……家族の真似事、以前お前にそう言われたが、全くその通りだ。お前にも、それで嫌な思いをさせたと思う」
 貴之は口を挟もうと唇を動かしかけて、やめた。最後まで黙って、この不器用な男の不器用な話を聞いていたかった。
 将生は淡々と先を続けた。
 高校を卒業した後、貴之と同じように就職するつもりでいたが、由美子が奨学金の資料をたくさん集めてきてくれて、それを見ているうちに、進学に心が傾いていったそうだ。
「由美子さんとは、ずっと手紙だけのやりとりが続いていた。頻繁に会って話すようになったのは、俺が社会人になって、一応、対等な立場になってからだ。いわゆる飲み友達だった。……わき道に逸れたな。話を戻そう」
 奨学金を貰って大学に入学はしたものの、生活費は自分で稼がなければならなかったと将生は言った。
「だから、掛け持ちで色々なバイトをしたよ。授業が詰まっていたから、短時間で稼げるもの……お前と似たような仕事もしていた」
 最後の一言が、貴之の全身を鋭い刃のように貫いた。将生は、貴之がしていた仕事の内容を具体的に知っているということだ。客とのセックスの現場を見られていたような気分になって、落ち着きを失った身体を一段と小さく丸めた。
 貴之の困惑に気づいているのかいないのか、先を続ける将生の話しぶりは、下手な朗読のように単調なままだった。
「大学時代、それこそ星の数ほどバイトをやったが、印象に残ってるのは特殊清掃……大ざっぱに言うと、ゴミ屋敷や遺品整理の仕事だな。知ってるか?」
「ニュースで見たことがあります。亡くなった人の遺品を処分したり、遺体があった場所を清掃したりする仕事、ですよね」
「そうだ。体力的にも精神的にも、しんどい仕事だった。テレビでやっているようなゴミだらけの家も多かったが、やっぱり一番堪えたのは普通の家だった。掃除の行き届いた室内、整理された郵便物や書類、きれいに畳まれた洗濯物。仏壇には遺影と家族写真が並んで置かれていて、その横に花やら菓子やらが供えてある。そういうごく普通の人間が、ごく普通に暮らしてきた部屋に、ここで死んだんだろうなあって跡が残ってるのを見るのは、きつかった」
 それまで平坦に継がれていた将生の言葉が、かすかに揺れた気がした。
「俺には身寄りがなかったし、誰かと最期まで連れ添う可能性も限りなく低い。いつも思い悩んでいるわけじゃなかったが、時々、夜ひとりで寝ていると、あの光景が頭に浮かぶことがあった。俺もいつかああいう風に死ぬんだと思うと、それまであった仕事への意欲とか、金を貯めて欲しいものを買おうって気持ちなんかが、ふっと消えていくんだ。どんなに仕事を頑張ったって、どうせ死ぬだけだ。どんなにいいものを買ったって、結局はゴミを増やすだけだってな」
 貴之はすっかりぬるくなった水面に目を落とした。
 意味のない存在。
 自分も、同じ感覚を知っている。
「でも、今は違う」
 将生の語調は、いつもと同じように落ち着いていた。しかしその奥に静かな力強さを感じて、貴之は湯船に沈んでいた視線をあげた。
「変わったのは、お前たちと暮らすようになってからだ。夜中目が覚めたとき、以前のように遺品処理の仕事を思い出すこともあった。それでも、同じ家で由美子さんとお前が寝ているんだと思うと……逆に、力が湧いてきた」
 将生は続けた。
「平井先生が亡くなった時、毎晩のように泣いたよ。この年になると、同級生や世話になった上司や、身近な人が亡くなった経験も少なくなかった。どの別れも悲しくなかったわけじゃない。でも、由美子さんが亡くなった時は違ったな。つい癖で三人分の弁当を作ったときとか、二人で食べるには多すぎる食材を買ったときとか、いつまでも経ってもコーヒーの豆が減らないとか、そういった何気ない瞬間に身体の一部が抉り取られたような気分になって、どうしようもない喪失感が広がっていった。何をしても埋められなかった。ああ、これが家族がいなくなるってことなのかと思った。それから、少しずつ実感がこみ上げてきた。……俺たちは、人から見ればままごとみたいな夫婦だったのかもしれないが」
 小さな間があった。やがて耳に心地よい穏やかな声音で、将生はその言葉を噛みしめるように言った。
「幸せだったよ。……幸せは失ってみてはじめて気づくものだ。そんなありふれた表現が、やっと理解できた」
 幸せ。
 柔らかく響く音は、かつて貴之が口のなかで転がした空っぽの音とは、似ているようで全く違うものだった。そこには、懐かしい温もりが満ちていた。恋愛感情がなくても、肉体関係がなくても、二人は確かに夫婦だった。家族だった。
 では自分は?
 貴之は危うく出かけた言葉を殺した。将生を拒んでいたのは、他ならぬ貴之自身だ。
 次に唇を開いたとき、将生の声にはどこか吹っ切れたような爽やかさがあった。
「貴之の言うとおり、色々あって、それでも親子関係を続けたいと思うのは、由美子さんに対する義務感や責任感が一番大きいかもしれない。……しかし今話してみて思ったが、自分でも気づかない感情っていうのも、結構あるもんだな。だからたぶん、胸のなかにあるぐちゃぐちゃしたものを全部ひっくるめたのが、俺がお前とやり直したい理由だ」
「ぐちゃぐちゃって……何ですか、その雑な言い方」
「他に適当な表現が思いつかない」
「語彙が貧困ですね。小学生じゃないんだから」
「そうだな」
 軽く笑って、そこで将生は急に話題を転換した。
「弁当、食ってないだろう?」
 貴之は絶句した。
 絶対に気づかれていないと思っていただけに、平手打ちを喰らったような衝撃を受けて、頭がくらくらした。
「いつもより早めに家を出た時、駅の近くの公園でお前を見かけた」
「……黙って見てたんですか」
「悪かったよ」
 どう考えても悪いのは弁当を捨てていた貴之だろうに、なぜ将生が謝罪するのだろう? その態度に苛立って、貴之は刺々しく言った。
「捨てられるとわかって、どうしてそれでも毎日作ってたんですか。腹立つでしょう、わざわざ早起きして作ったものを無駄にされて」
 いつも丁寧に作られていた将生の弁当。ゴミ箱に吸いこまれていくそれを思いだして、自分で自分の首を絞めているような気分になった。
「料理の腕が上達すれば、いつか折れて箸をつけてくれるんじゃないかと期待していた」
 つまり、と将生は続けた。
「弁当の件にしろ親子関係にしろ、意地もあった。好かれてないことはわかっていたが、それでもお前が独り立ちするまでは、絶対に面倒をみるってな。……そういえば、昼飯はどうしてたんだ」
 もうこれ以上嘘を重ねても仕方がない。貴之は正直に白状した。
「コンビニか購買で買って食べてました。あとは学食か」
「小遣い足りてたか? 昼食代も考えて少し多めに渡してたんだが」
「お気遣いなく。毎月余ってるくらいですよ」
「それなら、仕事で稼いだ金は何に使うつもりだったんだ?」
 完全に不意をつかれた質問だった。貴之はぐっと唾を飲み込んで、慎重に言葉を選んだ。
「……前に言いませんでしたっけ。遊ぶために必要だって」
「小遣いは余ってるのに?」
「小遣いとは別です。友達とちょっと遊んだら、すぐになくなりますよ。俺の学校、金持ちの息子が多いから。金銭感覚が庶民と違うんです」
「話は変わるが、もうひとつお前に謝ることがある」
 またも突然話を方向転換されて、貴之は拍子抜けした。それまで飄々としていた将生の口調に、微かな翳が差した。
「謝ること?」
「お前が家を出たとき、何か行先の手がかりになるものがあるかと思って、部屋を勝手に調べた。そのとき、金を見つけた」
 すぐに察しがついた。英和辞典に隠していた金のことだ。
「ああ、あれ。ご想像の通り、仕事の稼ぎですよ。でもそれがどうしたんですか。おおっぴらに置いておけるわけないでしょう、身体を売って稼いだ金なんて」
「見つけたとき、驚いたよ。光り物とか餌とか、鳥が巣にため込んでるみたいだと思った。大事そうに、誰にも見つからないように」
 ややあって、喉の奥から絞り出された声音が、弱い雨のように水面に零れ落ちた。
「……遊ぶための金、あんな風にしまい込むはずないだろう」
 そこにあるのは、深い苦しみと、それから怒り。
 貴之は愕然として、目を見開いた。
 違う、それはあんたの勘違いだ。あれは本当に、遊ぶために稼いだ金だ。
 そう否定したいのに、口は固く閉ざされたままだ。
 時間が凍りついたような空間で、将生の唇だけがなおも動いていた。
「お前の身分の関係とか、生命保険や相続とか、お互いに何かあったときのことを考えて、由美子さんとはかなり詳しく話をつめていた。だが、一番大事なことが抜けていた」
 後ろから伸びてきた二本の腕が、傷だらけの身体を強く引き寄せた。耳元で熱い吐息が震えて、身体の芯を疼かせた。
「不安にさせてごめんな」
 驚きと、それに続く罪の意識に苛まれて、貴之は顔を歪めた。
 将生の表情は見えなかった。だが、貴之は知っていた。泣いている。たとえ涙は流れていなくても、将生は泣いている。そして、泣かせたのは他でもない自分自身だ。
 何を言っても、何をしても、将生は動じなかった。そう思っていた。でも実際には、見えないナイフをがむしゃらに振り回し、彼を深く傷つけて血だらけにしていた。
 湯気と静寂だけが、浴室を穏やかに満たしていた。肩にもたれかかった頭が、ひどく重たかった。
 ホテルのバスルームは仕事場のひとつだった。そこで多くの男の欲望をかきたて、騙し騙され、愛撫し愛撫された。
 だが今このときほど、心が乱されたことはなかった。手淫もなく、口づけすらなく、ただ強く抱きしめられているだけだというのに。
 己に絡みつく腕を緩やかに解くと、貴之は浴槽のなかで身体をひねり、自らの顔を将生のそれに近づけた。
 はじめて由美子に紹介されてから一年以上経っていた。しかし、将生という人間の姿を正面から目に映したのは、これでようやく二度目だった。
 相手の身体の輪郭を丁寧になぞり、それから、視線は上半身に映った。濡れて色の濃くなった垢抜けない服、その上に乗った男の穏やかな顔。
 見つめ返してくるその眼差しは、出会った日と同じように、静かで、優しかった。
 何を言っても嘘になるような気がして、それ以上の言葉を発することができなかった。将生も同じように黙っていた。
 ようやく、貴之は呟くように言った。
「話そうと思えば話せるんですね」
「……これから、努力する」
「お喋りになるように? そのままでいいですよ。煩いのは好きじゃないので」
 皮肉っぽく笑いながら、額を鎖骨のあたりに凭せ掛けた。
 将生の身の上話など聞かなければよかった。
 耳を塞いで、瞼を閉じて、離縁の手続きを進めるべきだった。
 だが、今となってはもう手遅れだ。
 駒は振り出しに戻り、賽は再び投げられた。
 やり直したところでうまくいく保証などなく、最後にはもっと悪い結末が待ち受けている可能性もある。
 将生の眦に涙の跡はなかったけれど、疲れのために少しだけ赤くなっていた。抱きしめていいのか迷っている様子で、腕がそっと背中に回された。いいと答える代わりに、相手の腰に腕を絡めた。すると今度は、息ができないくらい強い力で抱きしめられた。加減というものを知らないのかと苦笑いしながら、まるではじめてするような、辿々しく、ぎこちない抱擁に身を任せた。湯はすっかりぬるくなっているのに、肌の触れたところが燃えるように熱い。
 また、やり方を間違えるかもしれない。道を誤るかもしれない。
 ぼろぼろの身体と心を寄せ合って、それでも、もう一度だけ。
 二人で、家族の真似事をしてみようか。