-数年後-
小話その4
 珍しく定時に職場を出た。
 まだ明るい街を持て余し気味に歩いていたとき、将生から連絡が来た。自分も早く上がれそうだから、駅前の小料理屋で待ち合わせないかという。
 カウンターで焼き魚の身をほぐしていると、隣の席に大型の生き物がのそりと座る気配がした。
 おしぼりから移動してきた将生の視線が、手元にある冷酒のグラスで止まった。露骨すぎるのが気に障り、こちらもわざとらしく無視した。
 アルコール耐性がないのは承知している。酒はいつも付き合い程度。深酒なんてもってのほか。
 しかし、時には自分の肉体なんてものに辟易して、素直に従いたくないこともあるのだ。
 お互い黙々と手酌で杯を空にすることしばらく、将生がぼそっと言った。
「珍しいな」
「飲んじゃ悪いですか」
「いいも悪いも、子供じゃあるまいし」
 やけくそみたいな絡みは、やる気のない返事で受け流された。子供じゃないと言われていることで、逆に子供扱いされている気分になる。
 その後も特に話らしい話もせず、各々食べたいものを食べ、飲みたいものを飲み、別々に会計を済ませて店を出た。切り上げるタイミングだけが、憎たらしいほどぴったり合っていた。
 自宅マンションまではゆっくり歩いて十五分ほどだ。貴之は半歩先を行く将生の背中を見た。上着を脇に抱え、長袖を肘まで捲り上げている。
 街灯に照らされた白いシャツはくたびれて皺だらけだ。出社するときにはきちんと糊が利いていたのに。だらしない感じはしないし、べっとりと嫌らしい染みこそないが、ものすごく汗くさくて男くさそうだ。二人分の足音を聞きながら、そんなことばかり考えていた。
 将生には悟られないようにしているけれど、足元が覚束なくて、綿飴の上を歩いている気分だ。
 貴之は右手から左手に鞄を持ち替え、眉間に軽く指を当てた。
 綿飴なんてらしくない単語が自然と出てくるあたり、やはり酔っている。
 シャワーを浴びたらすぐにベッドに飛び込みたいが、しばらくすれ違いの生活が続いていて交渉がなかった。したがるだろうか。するならするで構わないが、キスも前戯も省略して手早く終わらせてほしい。終了後、速やかに床から出ていってもらえるとさらにありがたいのだが。
 小川にかかる橋に来たところで、将生はぴたりと立ち止まった。
「少し休んでいかないか」
 怪訝な顔をする貴之に、将生はごく真面目に告げた。
「酔ってるみたいだ」
「誰が」
「俺がだよ」
 酔ってるみたい。
 陳腐な誘い文句だ。だが目の前にいる中年男に似合う台詞ではない。
 それとも、実際酔っている自分への皮肉かとむっとした。そんな悪ふざけや当てこすりをする人間ではないとわかってはいるけれど。
「飲み過ぎたな」
 言い訳じみた棒読みで呟き、将生はとても酔っているとは思えない足取りで橋の半ばまですたすたと歩いていって、組んだ腕を欄干にもたせかけた。酔っていると自称している人間を置いていくこともできず、貴之も仕方なく歩みを止めた。
 だらだらと空に居座っていた真夏の太陽のせいで、夜になっても暑さが重い。時々思い出したように吹く微風も、不快指数を上げるだけの代物だった。
 足元の流れは川というより用水路に近く、両岸は隙間なくコンクリートで固められている。即物的すぎて風情の欠片もない。
 それなのに将生ときたら、何が気に入ったというのだろう、いつまでもいつまでも帰ろうとせず、のんびりと泥臭いせせらぎに耳を傾けている。
 貴之は眉を顰めた。
 まさか本当に酔っているとか、身体の具合が悪いわけではあるまい。将生は貴之が知る中で、もっとも頑丈で、もっとも酒に強い人間のひとりだった。
 長いこと黙りこくっているうちに、だんだんと苛立ちが募ってきた。夜が明けるまでこうしているつもりか。いくら残業がなかったとはいえ、目的不明の徘徊に付き合いきれない程度にはこちらも疲れているのだ。
「用がないなら帰ります」
 耐えかねて立ち去りかけたとき、引き留めようとしたのか、右肩に手がかかる気配がした。ぎょっとして、思わず視線を上に滑らせてしまった。
 目と目がまともにぶつかった。一瞬で自由を奪われた。
 義理の父親を、数え切れないくらい寝た相手を、貴之ははじめて見る男のように見た。
 帰る、とその一言が再び継げない。口は半ば開いたまま石になった。
 足元の綿飴が大きくうねる。胸が早鐘を打つ。心と身体が自分のものでなくなる。
 ふだん動物みたいに鼻が利くくせに、察してほしいときに限って察しが悪いのだから嫌になる。下手な気遣いなんかいらないから放っておいてくれ。疲れているだけだ。理由もなく機嫌が悪いのなんていつものことだろう?
 数秒してようやく我に返り、渋面を作る程度の余裕が出てきた。
「あんた、変ですよ」
「どこが」
「することなすこと全部」
「そうか」
「いつもだけど、今日は特におかしい」
「……そうか」
「暑いせいですか」
「いや」
「寝不足なら、さっさと帰って寝てください」
「睡眠は足りてる。そうじゃなくて」
「何?」
 息子の刺々しい言動に動じるでもなく、将生は神妙な顔つきで唇を開いた。
「デ」
 謎めいた一音のあと、これまでとは質の違う沈黙があった。
 大きな大きな深呼吸をおいて、ようやく先が続いた。
「デートするか」
「……は?」
 絶句するしかなかった。この男のボキャブラリーにそんな浮ついた単語があったとは。
「誰が」
「俺とお前が」
「いつ」
「これから」
「どこに」
 間があった。
「映画はどうだ」
「予告編が終わらないうちに寝るくせに?」
「じゃあ海か」
「何で海?」
「……夏だから」
 深く考え込んだからにはもっともらしい理由があるのかと思ったが、宿題を忘れた小学生みたいな答えに呆れた。それが顔に出てしまったか、困ったような、照れくさそうな表情をされた。
「今は、デートなんて言葉使わないのか?」
 そういう問題じゃない。
 不本意にも、噛みつく前に笑みがこぼれそうになった。
 唇を固く結んでいた糸がするりと弛んだとたんに、時計の針が勢いよく逆回転をはじめる。
 十時間ほど遡ったところで、針はぴたりと停止した。
 ベッドにしては固すぎる場所に寝かせられた初老の男を囲んで、数人が声を潜めている。
「気温のわりに状態がよかったな」
「埋められていたのが日の当たらない砂山だったので、傷みが少なかったんでしょう」
「病死だったのに、どうしてそんな真似を?」
「主犯格の経営する会社の従業員だったんですが、違法採掘をやってましてね。前から本庁に目えつけられてたんですよ」
「なるほど。だから社員寮で死んでいるのを見つけて、慌てて隠そうとしたわけだ」
「変死扱いになれば警察が介入してきますから、それを端緒にしょっぴかれると思ったらしいですね」
「結局、身元はわからずじまいですか」
「ここ数年は日雇いで食いつないでいて、本名も家族も出身地も誰も知らない。ただ、死人に口なしっていうが、この男もねえ」
 禿頭の刑事は腕の注射痕を示して肩をすくめた。
「マル暴との付き合いもあったようだし、闇金からの借金もある。身内が気づいても名乗り出ないでしょう。わざわざ火種……いや爆弾を抱え込むようなもんだ。平穏に暮らしてればなおさらね。ま、珍しいことじゃありませんが」
「……村沢、どうした。顔が青いぞ」
 男を一目見た瞬間、電流が走った。
 この額を知っている。鼻筋を、唇を、何より目元を。
 もし鑑定をすれば、親子ではないという結果は絶対に……。
「貴之」
 静かに呼びかけられて、白黒の画面はぷつりと消えた。消えはしても、底のない身震いが残る。
 反応できないでいたら、もう一度名前を繰り返された。
 たかゆき、と呼ぶ声だけが、空っぽになった耳に反響する。
 将生は貴之の名前をぞんざいに扱わないし、放り投げなかった。いつでも丁寧に丁寧に口にする。恥ずかしくて気が滅入るくらいに。
「聞こえてますよ」
 不安も安堵も一緒くたに塗りつぶしてしまいたくて、わざと無愛想を装って言った。
 目の前にいる男は死んでいなかった。動いていた。触りはしなくても温かいのがわかった。そんな当たり前のことに、ほっとしている自分がいた。
 問いつめるように見つめたら、見つめ返された。
 将生が今日の件を知るはずはないが、家に帰りたくなかったことも、顔を見たくなかったこともお見通しだったのだろうか。
 それでも帰りたくない家に帰ろうとし、顔を見たくない男に会いたかった、矛盾した感情も。
 この男といて窮屈でないのは、二人の間に嘘と秘密のための場所を空けてくれているから。けれど、ちょうどいい大きさであったはずのそれが、いっぱいになって、溢れそうになって、耐えられなくなる夜もある。
 再び、目を交わした。
 何がデートだ。笑わせる。
 なのに大真面目に言うものだから、笑い飛ばすことができない。逃げ場を与えてくれない。だからこうして見つめるしかできない。
 貴之は、行くとも行かないとも言わなかった。
 言わなかったけれど、その晩、マンションには戻らなかった。

 遠い遠い街で、抱いて、抱かれて、そのついでに顔を埋めた胸は、うっすらと汗ばんでいた。熱が鼻腔を塞ぐ。職場から持ち帰ってきた空気と湿った情欲が馴染んだ、男のにおい。やっぱり汗くさいじゃないか、なんて今更思いもしない。ひとつの生き物みたいに手足を絡ませる前から、夜道で背中を眺めていたあのときから、いや、それよりもずっと昔から知っていた。そこがひどく居心地が悪いところだということも。
 長く共に生活していても重なりあっていない部分があること、そこにしつこく恋情めいたものがくすぶっていることを思い出させる、始末に負えない居心地の悪さ。
 そんなものを味わっているうちに、二人の人間を分けていた、快適で整然とした空間は無惨にひしゃげて、呼吸できないくらい狭くなって、どんどん狭くなって、最後には潰れてなくなった。
 名前のない男は死んだ。二度死んだ。
 二度目に殺したのは、と意味のない言葉を相手の舌で押し潰す。淡く濡れた背中に強く指を食い込ませて、爪を立てる。
 少しだけ痛くするのは、痛くしてほしいから。
 息苦しい抱擁の後、二人だけのルールは律儀に守られた。