椅子とり遊戯
 ある朝、教室の机のひとつに、花が飾られた。
 花びらが落ちるたびに、すすり泣き。
 かすかな音が、小さく胸にのしかかる。
 やがて、季節が変わった。
 席替えをした。
 花瓶を窓ぎわに移動した。
 転校生がきた。
 笑い声が日の光にとけた。
 花は色褪せ、涙は枯れる。
 風に吹かれて花びらは、ちりりとくだけ散った。
 沈黙はもう聞こえない
 空いている椅子は、なくなった。
 誰かが席を立てば、そこに別の誰かが座る。
 でも、ぼくの隣りの椅子はひとつだけ、空けたままにしておくよ。
 
ある夜
 暗い車内に、乾いた衣擦れの音だけがあった。少年は制服のズボンを引き上げながら、何度も何度も、子犬がそうするように、自分の手の平を鼻に近づけ、ひくひくとやった。においをかいでは、ちり紙でそれをこする。それから、思い出したようにつめの先をほじくる。単調な作業を、黙々と繰り返した。
「これ」
 それから、ボタンを留める音。
「何?」
 やや高めの声が問い返すと、運転席に座る男が、正面のガラスを睨みつけたまま、腕だけを重たげに横に押しやった。煙草の残り香と車のにおいが絡まって、しめった空気に漂った。
「小遣い、今月止められてるんだろ」
「別にいいよ」
「いいから、ほら」
「いらない」
「頼むから」
「……じゃあ、もらっとく」
 夏服の袖から伸びた手が、紙幣を荒くひったくった。小さな影はベルトを締め終えると、そのまま何のためらいもなく、車外に飛び出そうとした。
「ちょっと待てよ」
 焦りの混じった声で言うと、男の腕が、まだ未熟なそれを強く掴んだ。少年は、苛立ちを隠そうともせずに言った。
「だから、何」
 男は、ひとつ大きく息をついてから、ことばのかたまりを吐きだした。
「ボタン、掛け違えてるぞ」
「ほんとだ。うわ、だせえ」
「来いよ、貸してみろ」
 少年は、素直にその手に従った。指先がわずかに強ばっているのが見て取れたが、一瞥しただけで、他に何の反応も示さなかった。
「言うなよ」
 低い声が、うめくように言った。
「誰に?」
「……誰にもだ」
「はいはい、わかってるよ」
 少年は面倒くさそうに答えると、男の目を見て、ただ一度、はっきりと口にした。
「じゃあね、義兄さん」
 沈黙が重苦しく返事をした。
 自分にかけられた枷を、軽々と踏みつけて、細い後姿が夜の向こうに消えていった。残された車のエンジンが震えた。その後部からは、しばらくの間、無意味に白い煙があがっていた。
 
裸足
 深い意味はなかった。ただなんとなく、外を裸足で歩いてみたかっただけだ。夕暮れどきの街並みは熱を失い、足の裏に吸いつく六月のアスファルトはすこし湿っていた。すれ違った何人かが、妙な顔をして振り向いたが、どうでもよかった。みすぼらしい裸足で歩く自分と、立派な靴をはいて歩く彼らは、別の世界の住人だった。そうして十分ほど歩いて、幼なじみの藤川の家についた。
 扉を開けるとすぐ、藤川は目を見張って門に駆け寄ってきた。
「どうした。今日、学校休んでただろ」
「なんとなく、来たかったから」
「とにかく家に」
 言いかけて、藤川は叫びにも似た声をあげた。
「何で裸足なんだよ!」
「なんとなく」
「とりあえず、入れよ」
 風呂場まで手をひかれていった。大きな手が汗ばんでいた。
「足洗えよ」
「めんどくさい」
 藤川は舌打ちした。
「くそ、じゃあ、おれが洗うぞ、いいな!」
 ひとつうなずいて、そのことばに大人しく従った。風呂場の入り口、段差になっているところに腰かけた。それと向かい合って、藤川が座り込んだ。ぶつぶつ言いながら、自分の制服のズボンを、水で濡れないように折り曲げた。
「ばか。いくら面倒だからって、靴くらいはけよ」
「変?」
「おかしいよ」
 昼間の浴室に満ちる光は、どこかくすぐったかった。
「そうかな」
 石鹸にぬめる肌の熱と、シャワーの細かな飛沫が気持ちいい。
「けがしたら、どうすんだ。来月大会だろ、陸上部の」
「やめた」
「え?」
「だから、やめたんだよ、部活」
「冗談だろ」
 藤川の手が、汚れた足の指のまたをまさぐった。
「ほんとう」
「……どうして」
「コーチが、聞いてきたんだ。男とやるのって、どうすんのって。にやにや笑ってた。だから殴った」
 もう一度聞いた。
「おかしい?」
 藤川は手を止めた。石みたいになった。長いあいだ、沈黙した。それから無言で、おれのひざに頭をもたせかけた。その仕草がひどくやさしかった。ざあざあと流れる水の音が、やさしかった。
 
扉の向こう
「いやだいやだ」
「暴れないでくれよ、頼むから」
「触るな」
「……泣くなよ」
「泣くなったら」
「なんでこんなことするんだよ」
「何か言えよ」
「言えよ」
「卑怯者」
「扉の向こうに誰かいるんだろ?」
「いないよ」
「いるかもしれない」
「家族はみんな出払ってる」
「計画的犯行かよ」
「だから帰るの誘ったのか」
「顔に胸くそ悪い笑い張りつかせて」
「ちがう」
「何なんだよ、おまえ、寄るな」
「吐きそう」
「おれだってわかんないよ」
「好きなんだ」
「うそだ」
「好きだ」
「うそつき」
「好きならこんなことしない」
「テレビとか」
「本とかでやってるじゃないか」
「じゃあ、どうすりゃいいんだよ」
「苦しいんだよ」
「ひとりでやってろよ」
「鏡でも見て」
「痛くしないから」
「絶対、約束する」
「どうして笑うんだよ」
「何がおかしい」
「変なことは言ってないだろ」
「笑うな」
「笑うんじゃねえよ」
「……好きだ」
「外に聞こえるって?」
「誰もいないよ」