オリンピア
 友人が人形を手に入れたというので、見に行った。
「オリンピアというんだ」
 彼は興奮気味に言った。
「どうだい、きれいなもんだろう」
 なるほど、その人形はたしかにきれいだったし、よくできていた。大きさは人と同じほど、輝石で彩られた瞳、豊かな髪、すべらかな頬、ほっそりと伸びた腕。上等な絹の服にくるまれて、礼儀正しく椅子に座る姿には、匂い立つような気品すら感じられた。しかもただの人形ではない。人形師が丹精こめて作ったと思しきそれは、自動人形だったのだ。きりきりと背中のねじをまわすと、客人たるわたしを歓迎するかのようにほほえみ、椅子から立ち上がって挨拶をした。流れるような関節の動きは、人間と見まごうほどに滑らかだ。だからこそ、しかし、と言わずにはいられない。
「これは少年じゃないか」
「それがどうした」
「だって、自動人形といったら、ねえ、きみ、娘でなけりゃ。色気がないよ」
 それを聞くと彼はひどく機嫌をそこねたようだった。
「少女であろうか少年であろうか、この美しさの前には、つまらぬ要素に過ぎないよ、まったく」
 すねたように逸らされた友人の視線は、オリンピアを捉えるやいなや、ふたたび穏やかなものになった。だが、美しいものを見るまなざしもまた、美しいものであるとは限らない。彼は確かに欲情していた。そして、このすばらしい自動人形を見てはいたが、見てはいなかった。そのはるか向こうを、いとおしげに眺めていた。しかし、オリンピアはそれに気づくこともなく、美しくあいまいな微笑を浮かべ、やはり優雅なお辞儀を繰り返すのだった。

 そのうち、友人が狂ったようになって、あの人形を燃やしてしまったと伝え聞いたので、理由は問わずに、黙って寝床のなかで慰めた。
 オリンピアの美しさは残酷だ。たとえその容のよい唇に口づけたとしても、冷たく清潔な陶器の感触の前に、己の粘膜の熱のあさましさを、否応なしに突きつけられるだけだ。そう考えながら、寝息の主を見下ろし、自分の指を舌で舐めとった。ただ人にとってはこの汚濁が救いになることもありうるし、もしも美しい思い出にすがりたいなら、墓の穴から掘り返さないに限る。
 
 湿った風が頬に心地よい春の午後、田中少年は薄暗く繁る神社の裏の森を、小走りで駆けていた。学校から家までの近道なのだ。ここは静かだし、ふんわりとした土の感触が足に馴染むし、人を気にせず思い切り走っていいのも快適だ。この森には変な人がでるから気をつけろと大人たちは言うが、そんな奴は見たことがない。
「おれ、男だし」
 何を心配する必要があるのだろう。そう言い返すと、大人たちは、最近は男の子もねえ、とか何とか苦い顔をして、ことばを濁すのだった。
 肩掛け鞄を邪魔そうに右へ左と持ち替えながら、何気なく日向のほうに目をやると、神社のにわとりが何匹か、土のくぼみにぬくぬくと座りこんでいるのが目に入った。思わず顔がほころぶ。小学生のときは、この凶暴な赤いとさかの悪魔どもに、つつかれ、追い回され、泣かされたことも少なからずあったのだが、今は遠いむかしの話だ。
 しかし、余裕たっぷりの表情は、にわとりのすぐ横に視線が移った瞬間、にわかに凍りついた。誰かが寝そべっている。にわとりと同じような格好で、背を丸め、半ば土に埋もれかかっているその姿は、サスペンスドラマの死体を思い起こさせた。田中はぎゃ、と小さく叫ぶと、踵を返して走り出した。が、一度立ち止まって大きく息をつくと、恐る恐るそれに近づいた。死んでいるとは限らない。もし病人だったら、救急車を呼ばなければ。そう考えながらも頭のなかでは、第一発見者として警察に事情を説明する自分の姿が、ぐるぐる回っていた。
 震える膝をぎゅっと握りながら、つま先でつんとそれを突いた。落ち着いて注視すると、自分と同じ制服を着ていることに気がついた。
「おい、死んでんの?」
 首が振られた。安堵が胸に広がっていった。
「じゃあ、こんなとこで、何してんの? 調子悪い?」
 鞄を胸に抱きながら、そろそろと覗き込む。その顔には覚えがあった。となりのとなりのクラスの奴だ。名前は知らない。
 となりのとなりのクラスのナナシノゴンベエは目を開け、しばらく田中の顔を不審そうに見つめたあと、あくびまじりに答えた。
「寝てる」
「何で?」
「寝たいから」
「は?」
 寝たいから寝る。その答えはあまりにも当たり前で、あまりにも衝撃的だった。大人もたまには本当のことを言う。神社の裏の森には、変なやつがいる。
「だってさ、ここ外だぜ。風邪引くよ」
「引かないよ。気持ちいい」
「にわとりと同じだぜ」
「にわとりは、にわとり。ぼくは、ぼく」
「自分がやりたいからやるの?」
「そう」
「じゃあ聞くけどさ。お前、殺したくなったら人殺していいわけ?」
「んなわけないだろ」
「どうして」
「自分がされたくないから」
 妙であるが、健全な倫理観だ。
「ふうん」
 そう呟くと、田中は黙って、ゴンベエの横に膝を抱えて座っていた。ゴンベエは寝返りを打って、愛想の欠片も見せずに言った。
「まだ何か用?」
「いや、面白いなと思って。あのさ」
「何?」
「おれも、そこ、寝てみたい」
「寝れば」
「うん」
 詰襟を脱いで、鞄の上に置いた。それから田中はおずおずと、地面に横たわった。土の湿り気が、薄手のシャツを通して、にじむように肌に伝わってきた。
「ぬくい」
 ゴンベエは何も言わなかった。口を動かしたくなかったし、動かす必要もなかったのだろう。田中のほうも、べつに返答を期待していたわけではない。
 早春の空気はすがすがしく、木々のざわめきは耳に心地よい。とてもよい気持ちだ。春のあたたかさがじんわりと満ちていく気がした。つま先から心まですっかり、森のなかに溶けこんでいるようだ。今までこうするのをためらっていた自分が、馬鹿らしく思えてきた。世界のすべてがどうでもよく、しかし限りなくいとおしいものになった。今なら、にわとりのふんを顔にくらっても、笑って許せると思う。
 土に押しつけられた田中の頬は、酔ったように紅潮していた。それから自然と、口にした。
「近づいていい?」
「いいよ」
 腹ばいでじりじりと近づいた。目の前に迫るゴンベエのうなじは、細かった。
「なあ」
 乱れた黒い髪の隙間に、肌が白く浮きあがっていた。
「手、握っていい?」
「ん」
「触ってもいい?」
 ゴンベエが振り返らずうなずいたので、田中はそうした。息が止まった。春の夜のように、胸がさわいだ。頭がくらくらする。もっと深くを探りたい、渇きを癒したい、もっと。
 にわとりが遠くで鳴く声がした。
 もう、自分はこの森から抜け出せないかもしれない。そのとき、田中少年はふと考えた。
 
ある愛のかたち
 語学の勉強というものは、概して忍耐と根気、それから時間が必要である。つまりは退屈なのだ。古典語となれば、なおさらだ。だからその二人の少年も、日の翳った裏庭の隅、午後のギムナジウムの気だるい空気と同じような声で、ラテン語の複雑な変化形を互いに復唱しあっていた。
 一方が大きなため息をついた。
「ローマ人に生まれたら楽だったのに」
 もう一方が、眉をひそめて言った。
「ローマ人だって、悲劇を読みたいと思ったら、ギリシア語を勉強しなきゃいけない」
「彼らはギリシアの文芸を評価していたのかな?」
「さあね。ただ今言えるのは、ぼくたちはローマ人ではないということ、ここで名詞の変化を覚えなければ、きみはきっと落第して放校処分になるだろうということだけだ」
 のんきな表情が、きりりと引き締まった。
「それは大問題だ」
「ばかなことばっかり言ってないで、ほら、次にいくぞ。変化形を言うから、意味を答えるんだ」
 理性的な薄い唇から、責めたてるような声音に似つかわしくない甘い言葉が吐かれる。少年は目を細めた。
「わかってるよ。愛ね。いくらおれだって、こんな基本的な単語くらい知っているさ、失敬な。愛、ああ愛! なんと甘美な響きよ!」
 片割れは教本からちらとも目をあげずに、冷たく言い放った。
「早く」
「何しろ、この音のひとつひとつに、ローマ的な精神が満ちているわけだからね」
「早く!」
 愛、というありふれた言葉が、次々に形を変えて迫りくる。
「簡単すぎて欠伸がでるよ。愛は」
 視線が重ねられると同時に、ふいに、空気が変わった。青草のうえに置かれた教本の項が、そっと閉じられた。
 吐息が密やかに熱を帯びはじめる。
「愛の」
 ひとりが身を寄せ、ひとりが身を引いた。
「止めろよ」
「どうして」
 無邪気に問われて、少年は赤くなった顔を背けた。
「どうした、続きは?」
 躊躇いがちに正しいラテン語を放つ口腔は、熟れた無花果のように赤かった。
「愛を」
 葉陰の落ちた顔を強引に上向かせ、制服のタイを引き寄せる。
「愛に」
 最後に、軽く唇を重ねた。
「これは、愛ではない?」
 二度目は深く、抉るように。絡んだ舌先の奥から、欲情、と風にまぎれて苦しげに囁く声がした。