強く、弱く、もっと強く
前編
 思春期は難しい。
 白瀬和臣はつくづくそう思いながら、防音室に満ちる重い沈黙に耐えていた。グランドピアノの横に棒立ちになって、どれくらいの時間が過ぎただろう。視線の先には、鍵盤の前に俯いて座る制服姿の少年。宮代哉は中学生、和臣が自宅で経営するピアノ教室の生徒だった。
 思い返してみれば、今日は最初からどうも様子がおかしかった。遅刻も無断欠席もしたことのない子だったのに、レッスンが始まる時間になっても姿を見せない。十分経ち、十五分経ち、二十分経ち、いよいよ心配になって保護者に連絡しようかと思い始めた頃、ようやく生徒の来訪を告げるインターホンが鳴った。
「どうしたの、具合でも悪い?」
 遅刻の理由を問いただすより先にそう尋ねてしまったのは、自分を見上げた哉の顔がひどく蒼白だったせいだ。
 返事はなかったが、それを自分が投げかけた質問への肯定と解釈して、和臣は狼狽したように続けた。
「今日のレッスンは止めにしようか? お母さんには僕から連絡して……ああ、ごめん。その前に中に入って休みなさい。お茶でも入れてくるから。それとも、水かスポーツドリンクの方がいいかな?」
 畳みかけるように気遣う言葉をかけられても、哉は軽く左右に首を振っただけだった。
「いえ、大丈夫です」
 いつの間にかコートも靴も脱ぎ終えていた哉は、そう言ってすたすたと廊下の奥にある練習室へ向かっていった。
 よかった、体調が悪いわけではないのだと安堵したのも束の間、今度はピアノの前に座ったきり口も手も動かそうとしない。二言三言、当たり障りのない会話を振ってみたが、石に話しかけているようで反応が全くない。
 和臣は困惑を外に出さないように努力しながら、素知らぬ顔の下で必死に考えを巡らせていた。
 前回のレッスンで何か気に障るような言動をしてしまっただろうか。
 いや、と和臣はその仮定を振り払った。先週別れの挨拶をした時にも、険悪な空気などどこにもなかったはずだ。「また来週」と和臣が声をかけると、哉は少し照れくさいような表情をして、ぺこりと頭を下げて帰って行った。
 哉は同年代の少年少女と比べても、驚くほど大人びていて、礼儀正しく物静かな少年だった。口数は多くなかったが、それなりに慕ってくれていると思っていた。が、それは和臣の勝手な願望であったらしい。
 思春期は難しい。
 内心の呟きと共に思わず漏れそうになったため息を、慌てて飲み込んだ。
「先生」
 そのとき、黙りを決め込んでいた哉が突然口を開いた。
 和臣は何気ない素振りをしつつ、半ば不安を、半ば期待を込めて哉の方に上半身を傾かせた。
「どうした?」
「俺、やめたいんです」
 驚きに硬直しかけた喉を、和臣はやっとのことで動かした。
「この教室を? それとも、ピアノを?」
「両方」
 突然の申し出に強い衝撃を受けながらも、頭は冷静さを残していた。
 和臣が教えているのは、所詮星の数ほどある習い事のひとつに過ぎない。
 単に飽きたから、やってみたら想像と違っていたから。塾が忙しくなったから、引っ越しをするから。ちゃんと理由を教えてくれるのはまだいい方だ。家に電話をしても連絡がつかず、いつの間にか来なくなってしまった子もいた。
 それ以外にも、様々な理由でやめていった生徒は山ほどいる。こちらも商売でやっていることだ、その度に悲しんでいたら身がもたなかった。だからひとときでもその子と縁があったことを幸運に思いつつ、せめて別れの時は笑顔で見送ることにしていた。生来感情を引きずる性質ではなかったので、一週間もすれば寂しい気持ちなどすっかり消え去ってしまう。
 だから、哉がやめたいと言った瞬間、言葉を失うほどショックを受けている自分自身に驚いた。
 確かに、哉は特別だった。良くも悪くも手習いの域を出ない者が多い和臣の生徒のなかで、コンクールで上位入賞を狙える実力を持っているのは哉ひとりだった。もっとも、職人気質といったらいいのか、自分の技術を磨くことだけに執心しているようで、本人にはまるでその気はなかったが。
 けれど、ピアノが上手いからという理由で目をかけていたわけではない。
 何よりも、哉はピアノが好きだったのだ。ピアノが好きで好きで仕方なくて、時間を惜しんで熱心に練習していたことは、鍵盤で踊る指の動きが雄弁に物語っていた。
 どの生徒も平等に接するよう心掛けてはいるが、教える側とて人間である。こちらの熱意に応えてくれるのは嬉しいものだ。
 その彼が、ピアノそれ自体をやめたいという。
 いったい何があったのか。
 そう問いただしたい気持ちをぐっとこらえる。単刀直入に聞いたところで、却って反発を覚えて口を閉ざしてしまうかもしれなかった。ひとまずは本人の言葉を促そうと、和臣は平静な声を保って言った。
「ご両親には話したの?」
「これから」
「そうか」
 数十秒の短い沈黙の後、哉は椅子からすっと立ち上がってコートと鞄を手にした。
「今日で最後のつもりですが、月謝は三月分までお支払いするように母に伝えておきます」
「いや、いいよ! そんな……」
「今までありがとうございました。見送りは結構です。さようなら」
 そう淡々と告げると、哉はさっさと表へ出てしまった。引き留めかけた手が行き場を失い、空しく宙に浮いていた。和臣はのろのろと思考を巡らせた。
 震えるように開いた哉の唇は、最後に何を言おうとしていたのだろう。
 ごめんなさい。
 謝る必要があるとすれば、むしろ和臣の方だろう。
 哉は思慮深い少年だ。安易にやめるなどと口にするはずがない。あれほど好きだったピアノから離れたいと思わせる出来事があったはずなのだ。よほど深い悩みだろうに、頼りない自分では相談相手にもならない。
 和臣は椅子に腰を下ろし、丸めた拳に顎を乱雑に預けた。
 思春期は、難しい。

 上の空で眺めていた楽譜から顔を上げ、和臣はレースのカーテンの隙間から差し込む夕暮れの鋭い光に視線を移した。少しだけ開けた窓からは、冷たい冬の風が流れ込んでくる。
 カーテンはごく薄いもので、外からレッスンの様子がよく見える。若い男に娘を預けることに不安をもつ親の気持ちに配慮したものだったが、どうやら宣伝にもなっているらしく、加えて教え子の母親たちがよい評判を広げてくれているのもあって、少しずつであるが着実に生徒が増えてきたところだった。
 元々、ここは祖母が開いたピアノ教室で、音大に通っていた頃から手伝いと称して入り浸っていた。大学卒業と同じ時期に祖母が亡くなった後、ひとり娘である母がこの家と土地を、和臣が教室を継いだ。もっとも、祖母への思慕や憧憬に背を押されての選択というよりも、音楽の非常勤職員として働く傍ら、副業として生活費を稼ぐための手段という側面が大きい。募集の少ない音楽教師の正規採用試験には、毎年悉く落ちている。
 卒業から数年。細々と続けている教室の運営も軌道に乗ってきたことであるし、もうこのままの暮らしでいいかという諦観と、このままではいけないという焦りが胸に仲良く同居している。
「さようなら」
 無意識のうちに舌の上で別れの言葉を転がしていた。見送りどころか、別れの言葉も言い損ねてしまった。家は近所だから、またすぐに顔を合わせる機会もあるだろうか。いや、生活の時間が重ならなければ、もう二度と会うことはないかもしれない。
 哉は、この教室で最も古株の生徒だった。小学校に上がる前から通っている。親に言われるまま、わけもわからずに通い始める子も多いものだが、哉は自分からピアノがやりたいと言い出したのだそうだ。その頃は祖母もまだ元気だった。三人でよく連弾をしたり、童謡をうたったりしたものだ。
 胸にぽっかりと穴の空いたような空虚感に襲われたのは、この教室で積み重ねたたくさんの思い出も、哉と一緒に別れを告げて出て行ってしまったような気持ちがしたからかもしれなかった。いい年をして情けないな、と和臣は思わず苦笑した。
 そのとき、不意に耳の奥に懐かしい声が蘇った。
 哉がまだ小学生で、背は低く、声は高く、補助用の道具がなければまだペダルに足が届かなかった頃。
 ごく丁寧な口調だけが、小さな身体に不釣り合いなほど大人びていた。
「先生、外国に行ったことありますか?」
 目の覚めるような青い空が広がる夏の日だった。厚い窓ガラスの向こうでは、蝉が盛大な鳴き声を上げていた。
 和臣は楽譜をしまう手を止めて、海を隔てた異国の記憶を辿った。
「そうだね、何回か」
「どこですか?」
「ヨーロッパとアメリカがほとんどかな」
「すごい! 俺、テレビか本でしか見たことない。どんなところなんですか?」
 お世辞にも決して巧みとは言えない和臣の話を、哉はほとんど椅子からころげ落ちそうなほど身を乗り出しながら、目を輝かせて聞き入っていた。和臣は微笑した。その澄んだ瞳には、遠い遠い国にいる、遠い遠い人々の姿が、生き生きと映し出されているのだろう。
「先生は、どうしてそんなに色々な国に行っているんですか?」
「父親の仕事についていったんだよ」
「お父さんの?」
「そう、ピアニストなんだ」
 無邪気さの残る目が、驚いたように見開かれた。
「ピアニスト……」
「ああ」
「だから先生もピアノが上手なんですか?」
 屈託のない笑顔を向けられて、和臣は困ったように言葉を濁した。
「上手、かなあ」
「すごく上手です。俺、先生のピアノ大好き!」
 率直すぎる讃辞を贈られ、思わず耳まで赤くなってしまった。
「……それは、ありがとう」
 自分のもたらした言葉の破壊力など与り知らぬ様子で、哉はくるりと話題を転換した。
「ねえ、先生。何で夏でも長袖なんですか? 暑くないんですか?」
「ここは防音設備……音が外に漏れないように、特別に頑丈につくった部屋なんだ。だから窓が開けられなくて冷房を入れているんだけど、ずっといると寒くてね」
「俺は寒くないです。半袖だけど」
 大きな目が、和臣をしげしげと観察するようにじっと見つめた。
「先生は俺たちより年上だから寒いんですか? お母さんもよく寒いって言ってます」
 僕、まだ二十代なんだけど。
 後頭部に激しい衝撃を受けたような気がして、こう返すのがやっとだった。
「うん、そうかもね」
 しかし哉の関心は、子供らしくすでに別のものへと移っていた。
「先生、外国語でピアノって何て言うんですか?」
「外国語?」
 哉の頬が、心なしか誇らしげに赤く火照ったようだった。
「ピアノを自由研究のテーマにしようと思うんです。それで使おうと思って」
「素晴らしいね」
 哉はよほどピアノが好きなのだろう。それを思うと、自然と唇がほころんだ。
「ドイツ語だと、クラヴィーア。イタリア語だと、ピアノでも通じるけど、正式にはピアノフォルテというよ」
 小さな口の中で、哉はゆっくりとその響きを噛みしめているようだった。
「ピアノフォルテ……弱く、強く?」
「よく覚えていたね。そう、楽譜に書いてある、強弱の記号と同じだよ」
「どうしてそんな名前なんですか」
 何とか分かりやすくかみ砕いた答えを返そうと、和臣はなるべく平易な言葉を選んだ。
「ピアノが生まれた時代には、ピアノほど強弱をつけられる楽器がなかったみたいだね」
 哉はポケットから取り出したメモ帳に、今得た情報を懸命に書き付けていた。
「そうだ、よかったら資料を貸すから、自分で調べてごらん。大人用の本だから、ちょっと難しいかもしれないけど」
「……ありがとうございます」
 今でも意識を研ぎ澄ませれば、はにかんだように笑う幼い哉の姿が見えるようだった。
 和臣はため息をつき、鍵盤の蓋を押し上げた。
 白、黒、白。
 曲を弾くあてもなく、鍵盤の冷たい感触を確かめていく。
 ピアノの音が、今日はいやに大きく響く気がする。自宅を兼ねた教室はそれなりに広い家だが、和臣の他に人の気配はなかった。父も母も海外生活が長く、もう二年は顔を合わせていない。
 いつの間にか日は落ちきっていた。哉がいなくなった今となっては、冷え冷えとした室内は息苦しいほどに静かだった。
 一週間もすれば、慌ただしく押し寄せてくる日常がこの虚しさを埋めていくのだろうか。
 あの痛いほど真摯な音も、共有した温かい記憶も。
 いつもと同じように消えていくのか。
 長い指先が、音階を無視して気まぐれに鍵盤を叩いた。
 強く、弱く、弱く……。