きみは花のように
 人里離れた小高い丘に、朽ち果てた廃墟がある。館の主であった一族の血は絶えて久しく、遠き栄華の残り香を伝えるのは、主なき庭で春の悦びを高らかに歌いあげる花々のみ。
 空の高く澄んだ夕べには、土地の者ですらほとんど足を踏み入れることもないこのうらびれた場所に、若い男女の姿が見られるという。目を凝らしたとたんに霧散する、人に似て人ならざる影は、亡霊と呼ぶにはあまりに輝かしく、幻と呼ぶにはあまりに温かい。
 人は言う。あれは誰かが見ている夢なのだろうと。

 今は遠い昔、屋敷には領主夫妻とその娘が住んでいた。彼らは領地の穏やかな気候と同じく善良であったが、とりわけ娘はおっとりとした気質で、柔らかな仕草と表情は人々の心を和ませた。その微笑みは華やかな美しさで人目を引く大輪のばらというよりも、その下にひっそりと息づく名もない野の花に似ていた。そしてそれは、領主とその妻が突然の事故で帰らぬ身となったあとも変らなかった。
 娘は館の主となった。父母を失った悲しみにくれる間もなく、喪主として葬儀をとりしきり、遺族として遺産を整理し、女領主として采配を振るった。しかし、娘として涙することはなかった。
 そのような若い主人の姿を不思議そうに眺めていたのは、庭師の息子であった。少年は幼いときから、この娘をよく知っていた。よく泣く子供だった。転んでは泣き、悲しい物語を読んでは泣き、生き物が死んでは泣いていた。だから両親の死の報せに、しばらくは立ち直れないだろうと館の誰もが考えていた。もちろん、少年の気持ちも同じだった。ところが、どれほど目を凝らしてみても、娘の白い頬には涙のあとひとつなかった。それどころか、穏やかな物腰で雑事をこなしていく横顔には、人の上に立つ者の厳かな静けさがあった。
 しばらくして、少年が裏庭で灌木の剪定をしていると、青く茂る木の葉の間に、主の姿を見つけた。ぼんやりと花壇に咲く花を見つめているようだったが、何も見ていないようにも思えた。
「お嬢さま」
 娘が弾かれたように振りむくと、少年はしまったという顔をして、恥じらいつつ帽子を脱いだ。
「もうお嬢さまとお呼びするのはおかしいですね」
 娘はゆっくりと、いとも優しい仕草で頭を振った。
「いいえ、昔のままに呼んでくれるほうが嬉しいわ」
「こんなところで、何をなさっておいでだったのですか」
「少しだけお休みをいただいていたの。お庭の空気はとても気持ちがいいわね。あなたが心を込めて手入れしてくれているからでしょう」
 淡い紅の唇に笑みが浮かんだ。だが静かな微笑は以前と同じようでいて、確かに違うものであることを庭師の目は見抜いていた。
 朝早くから夜遅くまで執務用の椅子の冷えるときがほとんどないことを、夜が更けても書斎の窓が煌々と明かりを放っていることを少年は知っていた。それを目にするたび、ちくりと胸が痛んだものだった。ちょうど、水を失って萎れかけた草花を見つけたときと同じように。ただ樹木や花々を労る術には長けてても、相手が人とあっては、慰めの言葉ひとつ見つけられなかった。
「俺にも、お手伝いできることがあればいいんですが」
 伏せた顔の奥にある語調も眼差しも、少年の実直で誠実な人柄をありありと示していた。
 娘はそっと目を細めた。
「まあ、そんなこと。あなたの働きには感謝しているわ。花は言葉を持たないけれど、この美しい庭を見ればわかることよ。どんなに花々を、この場所を愛してくれているか」
「そうじゃないんです! 俺、学がないんでうまくいえないんですけど」
 驚いたように目を見張った娘から目をそらして、少年はぽつりと呟くように言った。
「お嬢さまは、おひとりで頑張りすぎですよ。もっと人を頼ってください。甘えてください。旦那さまたちがお亡くなりになってから、ずっと泣いてなさるみたいで」
 その言葉は飾り気のないものだった。しかしそれゆえに、研ぎ澄まされた刃のように鋭く小さな胸を貫いた。
 娘は驚いたように大きく目を開いた。開いたかと思うと、見る間に涙があふれていった。花のような笑顔は、今やくたりとしぼんでいた。
 大粒の涙が、あとからあとからはらはらと頬を伝った。娘は慌てて赤い頬を白い手のひらで隠して、すべてを否定しようとした。涙をぬぐうことも忘れているようだった。
「どうしたのかしら。なんでもないのよ、ほんとうに。なんでもないの」
 少年は目の前の状況にうろたえ、しばらく意味なく手を泳がせていたが、やがて指先についた土を前掛けの裾で落とすと、柔らかな髪をぎこちなくなでた。そうして、幼子をあやすように言った。
「大丈夫、大丈夫です」
 娘はそれを聞くと、少年の胸に顔をうずめ、声を殺して嗚咽した。若い庭師は唇を固く結び、細いその肩を抱き続けた。

 以来、庭に花の絶えたことはない。かつて少年であった庭師の花は、主の白い花嫁衣裳を飾り、その冷たい墓を飾った。
 月日は風のように流れゆく。いつしかその館には生ける者よりも、土の下で安らう死者たちのほうが多くなっていた。
 今では誰も世話をする者などないというのに、それでも、忘れ去られた庭で草木はなお実を結び、花は色鮮やかに咲き誇る。
 人の口は喜びを物語り、人の手は悲しみを記す。だが言葉を持たぬ花々は、微睡みのなかにただ夢を見る。
 蕾が開き、枯れ、種子になり、地に落ち、芽吹き、再び花を咲かせる。巡る季節のなかで、花たちは気まぐれに思い返すのだろう。
 かつて己を慈しんだ手を、その手が愛おしんだものを。失われた景色を、遠き日の面影を。