顔のない肖像
 冬を間近にひかえた、晩秋の夕暮れどきのことだった。美貌と浪費とで知られた女領主が治める土地で、反乱が起こった。館を囲む兵士たちの剣の夕日に赤くかがやく切っ先が、すべて己の喉元へとむけられていることを悟った領主は、自室にこもり、卓の上におかれた色鮮やかな瓶いりの毒薬を、夢でも見るかのように眺めていた。やがて、いくつもの荒い足音が回廊に響きわたるのが聞こえ、つづけて、厚い木の扉が慎重にひらかれた。同時に、ゆっくりとした歩調で部屋に足を踏みいれた男の姿をみとめると、領主は目を大きく見ひらいた。紅をさした唇を自嘲気味にひきあげる。
「そう、あなたがこの茶番の黒幕だったの。あなたにしては気のきいた台本ね」
 男は何もこたえない。ただ、うつろな瞳だけを女にかえした。女は猫のようにしなやかな足どりで男に近づいた。
「殺せるの、わたしを」
 甘い声でささやきながら、男の首に腕をからませた。
「すべてを失った、無力であわれな女を殺せるの。かつて抱いたその腕で」
 仰ぐ男の眉がゆがんだ。吐息が熱をおび、背にまわされた腕に力がこもる。そのなかに自分へのはっきりとした欲望を感じた女は、勝利を確信し、笑った。
 しかし、その笑みは一瞬にして凍りついた。背には、一本の冷たい刃がつきたてられていた。
「どうして」
 女は、温度を感じさせないまなざしを、ぼうぜんと凝視した。相手の外套をしっかりとにぎりしめながら、女のからだは、なおもすがりつくように静かに男の腕のなかへと崩れおちていった。うるむ瞳に、幼子のような戸惑いが浮かぶ。
「どうして」
 その瞬間、館に備えられた礼拝堂の鐘が、興奮した兵士たちの手によってゆさぶられ、歓喜の叫びとともにけたたましく鳴り響いた。甲高く澄んだ音が、停滞する空気をふるわせた。それを聞いた男は手にした狩猟刀を機械的にひきぬき、穏やかな声で、ただひとことつぶやいた。
「終幕の鐘です、義母さん」

 民衆の歓声とともにその座についた新しい領主は、石の壁にかけられた一枚の肖像画の前に立っていた。波うつ豊かな髪と、挑発する瞳、透きとおるような肌をもつ、うつくしい女の絵姿だった。領主は、女のふっくらと瑞々しい唇に口づけた。それから、手のひらにこびりついた乾きかけの血で、微笑する女の顔を荒々しく塗りつぶした。
 誰ひとり、彼女に口づけるものがないように。