夢の城
 川沿いの急斜面にそびえたつ石造りの城は、遠いむかし力ある貴族によって建てられたものだが、この時代悪名高い盗賊団の寝床となり、あえて近づく人間は誰もいなかった。
 その夜も、断崖から真下に黒々と広がる森へ、ひとり、またひとりと、荷を奪取された旅人の群れが、老いも幼きも関わりなく生きながらにして放り出されていた。わずかに明かりのともる城の露台は、すすり泣きと、悲痛な叫びと、そして狂気じみた笑いに満ちていた。ときおり、人の四肢のもげる鈍い音がわずかに響いた。
 闇を裂くような断末魔の声を、盗賊の若き首領は顔色ひとつ変えずに聞いていた。彼は貧村の生まれであり、はじめこそこの仕事に激しい嫌悪を覚えていたものの、じきに慣れた。人を殺めることは、家畜を屠ることとそう違いはなかった。
 子どもの柔かな体が、屈強な男の手を離れ軽々と宙に浮かぶ。幼い頭は何が起きたかを未だ理解できない様子で、叫びもせず、ただ口をぽかんと開け目をぱちくりさせていた。やがて乳のにおいの残る小さな体は、深い闇へと飲まれていった。犯され死んだ母親の空ろな眼差しが、硝子のように奈落をじっと見つめていた。
 首領は目を伏せた。そう、とっくに慣れたのだ。
 今まさに死地へと向かおうとするひとりの女が、やおら笑い始めたのはそのときだった。まだ年若く、腕を荒い縄で後ろに縛られ、粗末な旅衣に身を包んでいた。もっとも、それはあちらこちらが切り裂かれており、そしてその理由は明白だった。
 盗賊たちが声荒くとがめるにも構わず、女はなおも笑い続けた。その声にあったのは、恐怖ではなかった。悲しみではなかった。嘲笑であった。すぐさま部下たちが背後から切り捨てようとするのを、男は制した。
「何が言いたい?」
 男は訊ねた。突然慈悲の心が芽生えたわけではない。女に興味を抱いた。それだけだった。
 女は答えた。
「命を乞おうとは思わない。ただ少し話をしたいの」
 わずかの沈黙の後それを許すと、女はぽつりぽつりと語り出した。男は、女が狂気の世界に片足を踏み込んでいるものと理解していた。ふくよかな月の光が、乱れた女の髪を照らした。
「わたしのふるさとの村は貧しかった。大地に実りは少なく、税は重く、食べるにも困る有様。赤子は間引かれ、子供は売られ、老人は捨てられた。空ろな目にうつるのはどこまでも続く荒野、地肌がむき出しの山。切り立った崖をかすめて、風がひゅうひゅうと生気のない音を立てる。村を時おり通りがかる巡礼は揃って顔を見上げ、景色の美しさ、壮大さを褒め称えたけれど、美しさで腹はふくれないわ。それに、よそ者は知らないのよ。眼前の絶壁に立つ木々に吊られた死人がぶらぶらゆれていて、鈴の鳴るみたいにさえずる鳥がその肉を食らうなんてことは、ちっとも」
 女は垢にまみれた髪を振り乱し、顔をあげた。
「手を天にかざし祈る巡礼の上に、赤茶けた荒野の上に、しらみだらけの人々の頭の上に、うじのわいた死体の上に、いつでも突き抜けるような青い空があった。今日も、明日も、その次の日も。いつまでも、永遠に。ある少年は、それに気付いてしまった。彼の妹が貴族に売られて数日で死んだという知らせを聞いた直後だった。妹が死んでも空は青くて、自分が死んでもやっぱり空は変わらず青い。ぞっとした。恐ろしくなった。だから、耐え切れず村を出た。親しい友人の耳にだけそっと、この手で必ず何かをつかむと言い残してね。静かな夜だった。家族はみな眠りについていた。もしかしたら、寝たふりをしていたのかもしれない。少年は家族には何も言わなかった。心配をかけたくなかったわけじゃない、ただ、自分が出て行くと言ったときの父親や母親の嬉しそうな目の色が見たくなかったのよ、生きるのに疲れた表情から思わずこぼれ落ちるような、目の色が」
 そう言い終わると、ただ一度振りむいた。
「馬鹿な兄さん」
 男は驚いたように目を大きく見開き、立ち上がった。女は笑った。母が子をやさしくあやすような声だった。
「でも、あなた結局、何も手にいれることができなかったじゃないの」
 男は誰かの名を呼ぶと、女の腕をつかもうと手を伸ばした。女は笑いながらそれをするりと抜け、軽やかな足取りで夜の闇に躍りでた。そして人の姿を失った。白い蝶が一匹、黒い世界にひらひらと舞っていた。清らかな姿は、次第に暗がりへと消えてゆく。
 男はそれに向かって叫んだ。ただ声もなく叫んだ。叫んださきから、自分の体が崩れていくのがわかった。肌が滑るように溶け、指が落ちた。目が落ちた。最後に手が落ちた。けれど止められなかった。どうしてか、ひどく心地よく、ひどく胸がつまった。男は声を絞り出した。
「俺は」
 そのことばがしまいまで語られることはなかった。やがて、すべてが波にさらわれた砂城のように形を失うと、自らの意識もまた、闇に落ちていくのを感じた。

 部下に声をかけられ、ふいに首領は目を覚ました。鼻の頭には脂汗が浮かび、固く握った手のひらは、じっとりと嫌な汗で湿っていた。胸に残るざわめきを急ごしらえの鉄面皮で隠しつつ、あたりをぐるりと見回すと、意識が遠のく前と変らず、そこはまこと純粋な絶望に支配されていた。
「この叫び声を子守唄に出来るなんざ、さすがお頭ですな」
 いくつかの太い声が愉快そうに笑い声を立てた。しかし、男は笑わなかった。鼻をかすめる血の匂いのなかで、首領は眉にしわ寄せ、手を額に当てた。
 あれは夢だった。幻だったのだ。

 それから数ヵ月の後、古城を住処とする盗賊団の首領が、自らの部下の手にかかってその短い一生を終えた。首領の亡骸は、冷たい河水へぞんざいに投げ込まれ、浮いては沈み、沈んでは浮いてを繰り返した。男の瞳が天を仰ぐ。双眸には空が青くがかがやき、水面には寄り添うように白い蝶の羽が揺れていた。
 河の流れは、男の故郷に続いている。