古塔の影
 古城に建つ塔の一室に、女がひとり立っていた。女は顔をあげて窓の外を眺めていた。兵士のなりをした男がその足元に頭をたれていた。男は微動だにしなかった。
 旋回する一羽の鳥の姿が四角い空から消えてしまったのを見とめると、それまでの沈黙を破って女が口を開いた。
「いつまでそうなさっているおつもりなの」
 男が応えた。
「王女がここから出ると仰るまで」
「それはもう意味あることばではありません。わたくしはここを離れるつもりはないし、もはや王の娘でもないのだから。あなたももうお行きなさい」
「いいえ、それは出来ませぬ」
 小さく息をつき、王女は身につけた粗末な服をつまみまがら、兵士に歩み寄った。
「今のこの状況は、わたくしたちのかつての行いを、鏡にうつしたそのままですもの。何を嘆くことがありましょうか?」
「しかし」
「父はあまたの国を攻め滅ぼし、それと同じ数だけの砂上の夢を手に入れました。わたくしにはそれが良いことであったのか、悪いことであったのかまでは存じませんが、夢はいつしか覚めるものであるとは、存じておりますから」
 そのことばを聞くと、兵士は静かに顔をあげた。
 まだ少年とも呼べる、血と泥にかすかに汚れた実直そうな若い表情があらわになった。目を逸らすことすら忘れたように王女を凝視し、震える声を絞りだした。
「王はただ切に国の栄光を」
 王女は相手のことばを鋭く遮った。
「では、人の行いがまことに正しいものであるのかそうでないのか、あなたがお答えくださると?」
「王女」
 繰り返される謎かけに堪りかねたように兵士は立ち上がり、室内の冷たい空気にすっかり凍った指で、王女のか細い肩を強くつかんだ。
「私とともに参りましょう。あちらへ行かぬ限り、残された道は磔台の上の苦しみしかございません。そのような辱めを受けるあなたさまの姿を見ることなど、私にはとても耐えられそうにもない」
 兵士は言いながら、片手で窓を指さした。王女は踊りを断るようなゆったりとした仕草で、肩に乗せられた相手のもう片方の腕を解くと、血に固まった髪をやさしくなでた。
「あなたには、幼いころから我がままばかりを言って、いつも困らせてしまいました。しかし、これが最後の我がままです。願わくは、このことばがあなたの耳へと届かんことを」
 王女はやわらかにほほえんで、兵士の手をそっと握り、自分の胸元に引き寄せた。
「どうか、わたくしをあわれみくださいますな。あなたがあわれんだその瞬間、わたくしは真にあわれな女となるのですから。同じように、わたくしはあなたをあわれみません。先の戦で命果てたあなた、いまだご自分の死せるをご存じない」
 兵士は目をみはった。しかし黒く落ちくぼんだ眼窩には、なにひとつ映ってはいなかった。
 震える唇は、もはやことばを失っていた。伸ばした腕が届くはずはなかったのだ。すべては茶番であった。若い兵士はそれを知った。
「あなたは残酷だ」
 悲しげに歪ませた顔を手で覆うと、深い慟哭と影ひとつを残してその姿は霧と消えた。
 ひとり残された王女は顔色ひとつ変えずに足元に刻まれた黒い影にそっと近づくと、ひんやりと沈黙する石畳の上に座り込んで、祈るように口づけた。それからふたたび窓のきわへと足を向けた。そして眼下に広がる草原のけぶる緑を、連なる山々の頂の白さを、ふたつのまなこに焼き付けるように、せんと同じく顔をあげ、いつまでも眺めつづけていた。