真実をうつす鏡
 むかし、ネッビアという村に、ひとりの若い農夫がいた。名をジュゼッペといった。この若者は、まじめな性質で、女もやらず、酒も飲まず、嗅ぎたばこも嗅がず、そのうえ信心深く、よく働く正直者だったから、村人たちから慕われていた。
 あるとき、森でジュゼッペが薪を集めていると、上のほうから自分を呼ぶ声を聞いた気がした。はじめは空耳と思って気にも留めなかったが、三度呼ばれてやっと、太い木の枝にぶら下がっている、みすぼらしい老人に気がついた。
「そんなところで何をしているんだい?」
 こうたずねると、老人はきいきいわめいた。
「旦那、おねげえします。ここから降ろしてくだせえ」
 ジュゼッペは親切だったから、男をすぐに降ろしてやった。
 しかし、この老人、奇妙ないでたちをしていた。頭のてっぺんからつま先まで、真っ黒な服に身をつつみ、そこだけ灰色のひげはだらしなく伸び放題だ。格好ばかりではない。脂っこいやにの奥の目は、白いところは泥沼のようににごり、そのほかは、昼間だというのに、夜のみみずくのようにぎらぎらと光っている。
 ほかの誰かだったら、このよそ者を怪しく思ったかもしれないが――不幸なことに――ジュゼッペは素直な若者だった。
 老人はジュゼッペに言った。
「ありがとうごぜえます、旦那。助けてくだすったお礼に、これを差しあげましょう」
 そう言いながら、懐から、丁寧に布でくるんだ何かを取りだした。それは、とりたてて変ったところのない、古びた小さな手鏡だった。
 けれど、ジュゼッペのほうは、礼がほしくて助けたわけではないと、申し出を頑なに拒んだ。それに、とジュゼッペは言った。
「鏡なんてもらっても、娘じゃあるまいし、ぼくには使い道がないよ」
 だが、老人はなおも引き下がらなかった。
「これはね、なかなかたいしたものでごぜえますよ、旦那。ほかではまずお目にかかれますまい、真実をうつす鏡とくれば」
「真実をうつす鏡だって?」
 この老人のことばを聞くと、ジュゼッペの表情に、若者らしい、わずかな好奇心が浮かんだ。老人の鋭いまなざしは、それを見逃さなかった。
「ええ、天に誓ってほんとうでございます。おや、まだお疑いのご様子」
 そのときちょうど、村人のひとりがやって来るのが、遠目に見えた。
「あいつでためしてごらんなさい、さあ」
 言われるままに、ジュゼッペは手鏡を懐に忍ばせて、村人に近づいた。老人のことばをまるきり信じたわけではなかったが、ジュゼッペはまだ若かったし、純朴だった。奇怪なものへの興味には勝てなかったのだ。
「こんにちは、ペニーニさん」
「よう、ジュゼッペ。精がでるな」
「ペニーニさんも薪拾いですか」
「かみさんがよう、水張った鍋え落っことして、足を痛めちまってなあ……」
 しばらくの間、二人の農夫はペニーニの奥方の身に降りかかった悲劇を、深いため息と共に嘆いた。と、ジュゼッペは隙を見て、期待に弾む胸を落ち着かせながら、懐にさりげなく手をやった。手鏡にペニーニの赤ら顔がちらとうつった。
 その瞬間、ジュゼッペは思わず声をあげてしまった。
 ペニーニはふしぎそうに若者を見た。
「どうした?」
「いいえ、何でも。ちょっと用を思い出したので、ぼくはこれで」
「またな」
 ペニーニが重い腹をゆらしてその場から去ると、ジュゼッペは木の裏に隠れて様子をうかがっていた老人に駆け寄った。
「ほんものだ!」
 老人は黄色い歯をむきだして笑った。
「はじめから、そう申し上げておりますよ、旦那」
「ペニーニさんは、嘘をついた。ほんとうは、酒場のつけがたまってるのがばれて、奥さんに怒られたんだ。だから、その罰に薪拾いを言いつけられたんだ」
 ジュゼッペは、興奮にほおを赤くしながら言うと、手鏡を取りだした。
「すばらしい鏡だ!」
「おっと」
 だしぬけに、老人の干からびた指先が、ジュゼッペの手から手鏡をひったくった。
「まさか、もう返せって言うのかい?」
 ジュゼッペが悲しげなまなざしをむけると、老人はいいやと首を振った。
「これはあなたに差し上げます、と先ほど申したとおり。この鏡はたしかに素晴らしい鏡、ただし、決して見てはいけねえものがあるんで」
「それは?」
 老人はジュゼッペの手に、ふたたび手鏡をにぎらせた。その手は冷たく、若者の背を、足の多い虫のような、何かぞっとする、おぞましいものが走っていった。
「ほんとうに大切なものと、自分、でごぜえます、旦那」
 言うやいなや、にわかに土を含んだ突風が吹いた。そうして、次にジュゼッペが目を開けたときには、老人の姿は霧のように消えていた。

 さて、ジュゼッペの住む村には、アデリーナという美しい娘がいた。村の若者たちはみなアデリーナに夢中だった。ジュゼッペもまた同じく、この器量よしに熱い視線を向けるひとりであった。
 しかし過ぎた美しさは時として災いをもたらすもの、領主の息子の好色な指先が、哀れなアデリーナを運命を絡めとる。若者たちの嘆きは深かったが、当人であるアデリーナの嘆きはもっと深かった。何しろその領主の息子というのが、麗しいのは見目ばかり、性格の残忍なことで名高く、戦場でだれそれの腕をもいだ、足を食らったという、聞くも恐ろしいうわさには事欠かない男だった。
 ばら色の頬もつアデリーナのいのちもこれまでかと、涙に暮れるジュゼッペであったが、にわかに老人の鏡を使うことを思い立った。ふだんは奸計など思いもつかぬ素朴な青年である、しかし恋は人の心の動きをおかしくすることも珍しくない。
 折りしも、領主の息子とアデリーナとの婚礼のために、王とその后が領主の館に滞在していた。ジュゼッペは、蟻のように働く召使いの群れにまぎれて、婚礼の宴にもぐりこんだ。そうして、うつむくアデリーナの横で、醜悪なほどに着飾り、誇らしげに胸を張った、領主の息子の姿を鏡にそっとうつしてみた。
 柱のうしろに姿を隠したジュゼッペは、大声で叫んだ。
「花婿殿は閨をまちがえていらっしゃる、なぜいつものようにお后さまのもとへもぐりこまないのか!」
 王がただすまでもなかった。真っ青に染まった后の顔が、すべてを物語っていた。
 こうして、領主の息子と后のふたりは、共に仲睦まじく刑場でぶらぶらゆれることになり、アデリーナはジュゼッペの妻となった。

 何年かのち、ジュゼッペはこの鏡を使って、一儲けしようと考えた。村の酒場で仲間と賭け事をして、しこたま儲けたのだ。山と積もる金の音は魅惑的だった。銀貨一枚稼げばもう一枚、二枚稼げばもう四枚と、欲は際限なくふくらんでいった。ふしぎな鏡さえあれば、その夢は容易く現実になるのだ。
 こうして、ジュゼッペは美しい妻とその間にもうけた子どもたちを連れて、町に移り住み、そこで商いをはじめた。この試みは大成功だった。何せ、相手のうそとまことがこちらには手にとるようにわかるのだ。その様たるや、まったく神の業であった。ジュゼッペの家の金庫は、瞬く間に金であふれかえった。暮らしの豊かさときたら、村にいたころの比ではなかった。ジュゼッペはもう薪を集めない。アデリーナの長く豊かな髪を飾るのは、野の花から高価な輝石に変わった。有能な商売の相棒もできた。ミケーレという若い男だった。ジュゼッペはミケーレを信頼していたが、それでも鏡の秘密を打ち明けることはなかった。ミケーレだけではない、愛する家族にとっても親しい友人にとっても、ジュゼッペの成功のかぎは深い闇のなかに隠されていた。ジュゼッペは自らの秘密を、ひとり墓石の下に持っていくつもりだった。つまり、老人の言いつけをきちんと守っていたわけだ、根は善良な男であったから。
 ジュゼッペは目に見える多くの幸福を手に入れた。
 そして気づかぬうちに、目に見えぬ多くを失った。
 だからその夜、酔いの戯れに、妻の姿を手鏡にうつして、こうたずねてしまったのだ。
「おまえの愛を受けている、この世でもっとも幸福な男はだれだい?」
 妻は夫に甘く身を寄せた。
「もちろん、あなたですわ」
 手鏡をのぞく、ジュゼッペの顔が凍りついたのを、年を重ねてなお美しく咲き誇る、ばらのようなアデリーナは知るよしもない。

 昼でも薄暗いネッビアの森を、身を引きずるように歩くジュゼッペの姿があった。老人は古い知己を見とめると、愛想よく声をかけた。
「お久しぶりですね、旦那。鏡の具合はどうでごぜえますか」
 ジュゼッペはかん高い声で、うつろに笑った。
「割れてしまったよ、これを切るときにね」
 そう言うと、土と血に汚れた長い髪の束を掲げ、いとおしそうに口づけた。それからふたたび、口のなかでぶつぶつ独り言を転がしながら、森の奥へと向かって歩きはじめた。
「おうい、そっちには崖がありますぜ、旦那」
 しかし、ジュゼッペはもう振り返らない。そのうしろ姿を眺めながら、老人は深く息をはいた。
「人間とは、まあ、妙なものだ。放っておいても滅びちまうんだからな」
 しばらくのあいだ、妻と共同経営者を殺して行方をくらませた、ある残虐な商人の話が町の人々の心を楽しませた。が、すぐに忘れ去られた。
 その後、ジュゼッペの姿を見たものは誰もなかった。