幸福な娘
 遠いむかし、遠い国でのお話です。
 貧しい少女アンナの奉公するお屋敷のご主人には、ひとり娘がありました。年はアンナと同じ頃、名をエルゼと言いました。エルゼお嬢さんは、半ば夢見たようなまなざしを持った、美しい、物静かな方でした。お嬢さんはいつも、ことばのひとつひとつを心でかみしめるように、ゆっくりと話しました。話し方と同じように、何をするにも、人の倍以上の時間がかかりましたし、不器用な性質でした。刺繍の時間のたびに、指先の傷が増えていきます。古典の教科書は、勉強部屋から見える庭の花々が移り変わっても、はじめの項から少しも進みません。宴の席では、小さく首をかしげてほほえむだけ、気の利いた会話とたくみな踊りとで、場を盛り上げることもしませんでした。一方、アンナは頭のよく回る、器量のよい、賢い娘でした。仕事の覚えも早く、なんでもこなしました。ですから、聡いアンナはこの若い主を、愛想のよい笑顔の奥では、なんと愚かな娘かとばかにしていました。エルゼお嬢さんの、おっとりとした声音を聞くたび、風が凪いだ日の雲のような、ゆるやかな足取りの影を目にするたび、言いようのない、苦々しい気持ちが、アンナの胸に湧きあがってくるのでした。アンナのよい働きが褒められる日はなく、エルゼの粗相がきつく折檻される日はありませんでした。アンナは屋敷で働くおおぜいの下女のひとりであって、エルゼはたったひとりの、大切なお嬢さんでした。
 あるとき、アンナが水のたっぷり入った桶を運んでいると、開け放された窓から、ぎこちなく、鍵盤を叩く音が流れてきました。エルゼお嬢さんが弾いているのだと、すぐにわかりました。アンナは足を止め、声を殺して笑いました。
「なんて気の利かないお嬢さん! お客さまたちの呆れ顔が見えないのかしら」
 少女は、ふん、と鼻を鳴らしました。
「貧しい生まれでなかったら、あたしのほうが、ずっとうまくやれるはずだわ」
 アンナの唇から自然と、歌が溢れてきました。乾いた空気に凛と響く、よく通る声でした。詩はかつて聞いたものを真似て、即興で作ったものです。韻の踏み方も内容も、なかなかのできでした。
「詩だって読める」
 高い声が、よりいっそう、強く空気を震わせました。
「それから歌!」
 そのとき、演奏が終わりました。室内から、まばらな拍手が聞こえました。しかし、それが自分への賞賛でないことを、若い召使は知っていました。アンナは唇をかみしめて、桶に張った水を睨みつけました。観客は、水面の波に顔を歪ませた少女、ただひとりでありました。その表情には、深い影が落ちていました。
「お嬢さんは傲慢だ。あたしに欠けた、ただひとつのものを持ちながら、それに気づきもせず、無邪気に窓から投げ捨てる」
 アンナは、心のなかで叫びました。
「ああ、この世界に、あたしほど不幸な人間は、いやしないだろう!」

 しばらくして、旦那さまが、急な流行病いで天に召されました。奥さまとエルゼお嬢さんはしかし、遺された仕事と屋敷を、手に手を取りあって、変わらず、守り続けていくはずでした。ところが、突然、それまで便りの絶えていた旦那さまの弟君が、王さまの印が押された文書を携えて、ゆうゆうと皆の前に姿を現しました。こうして、ふたりの婦人はすべてを失い、ひとりの男はすべてを手に入れました。あわれな母娘の居場所は、もう、屋敷のどこにもありませんでした。坂から小石が転がり落ちるような、あっという間の出来事でありました。エルゼお嬢さんは、故郷に別れを告げて、奥さまと共に、遠い北の街へと、旅立つことになりました。
 朝、夜明けからまだ間もない時分、アンナはスカートの裾をたくしあげ、屋敷の裏門へと急ぎました。かつての主に別れの挨拶をするためにではありません。エルゼの不幸を、存分にあざ笑ってやるつもりでした。自分にはその権利があるはずだと、アンナはかたく信じていました。しかし、うす紫の空を背に、息を切らせて、駆けてくるアンナの姿を見つけると、エルゼお嬢さんはいかにも嬉しそうに、顔から零れ落ちそうなほど、晴れやかな笑みを浮かべました。
「あたしは」
 アンナはその表情に拍子抜けをして、喉まで出かかったことばを、つばといっしょに、飲みこみました。飲みこんだことばは、アンナの胸を、熱くさいなみました。
「エルゼお嬢さん、あたしは」
 震えた声は、ついに途切れました。お嬢さんは、唇に笑みをたたえたまま、冬の枯れ木のように立ちつくしたアンナの手を、やさしく握りました。
「わたくし、あなたの歌、好きだったわ」
 旅衣の頭巾の奥から、透き通った白い額が表れました。それから、泉のような深い青の瞳が、若い女中をじっと見つめました。
「歯切れの良い話しぶりも、強いまなざしも、それから、その心の気高さも」
 アンナは、打たれたように黙っていました。そして、手のひらに体温を感じながら、このときはじめて、自分は、お嬢さんと出会ったのだと思いました。エルゼは清々しい、朝の光のような微笑みを、小さな友人に向けました。
「あなたの幸福を、祈っています、アンナ」
 温かな唇が、冷え冷えと刺すような朝の空気をわって、アンナの頬を流れる涙を拭いました。
「また会いましょう」

 その後、ふたりが再び出会うことはありませんでした。思いをこめて綴った便りが、大切な人の元に届くとは限りません。旅路には危険が付きまとい、人々の肩にはいつも、死の気配がそっと寄り添っていました。そういう時代だったのです。しかし、エルゼのことばは、一条の光のように、いつまでも、アンナの小さな胸を、やさしく照らしだしました。それは決して強い光ではありませんでした。ただ、たとえば春の夕べ、暖かな空気に滲むような教会の鐘を聞いたとき、また、仕事の手を止めて、何気なく夏の青い空を仰いだとき、エルゼの声が、ふいに、心の深いところによみがえってくるのでした。あるときは陽炎のようにおぼろげに、またあるときは朝やけのようにあざやかに燃えあがりました。そうして、指では数えきれないほどの季節が巡りました。ある寒い朝、かつてアンナと呼ばれた老女は、故郷の町で、ひとり、静かに息をひきとりました。
 枕元には、色あせた幸福の影だけがじっと佇んでいました。やがて、思い出から伸びてきた指先が、瞼の端に光る涙を優しく拭いとりました。