小さな世界
 そこは明るくもなく暗くもなく、大きくもなくまた小さくもなく、温かくもなければ寒くもかった。人間の世界ではなかったから、人間のことばで言い尽くすことはできなかった。小さな老婆がぽつねんと機に向かい、背を丸めてはたを織っていた。乾いた木と糸との擦れあう音が、規則正しく響いていた。ただそれだけの世界だった。
 そのとき、影がひとつ、音もなく現れた。その気まぐれさは少女のようでもあり、少年のようでもあった。影は言った。人の耳には、ことばでも音でもなかったが、それは確かに言った。
「東を旅してきた」
 老婆はしかし、布織る手を休めない。影は構わず続けた。
「わたしの名を呼ぶ声を聞いた。風を止め、地に降り立つと、大勢の人間がいた。輪になっていた。その中心で、若い巫女が祈りを捧げていた。舞い歌い、獣の腹を裂き、我らに真実を示したまえと血にまみれた腕を高く突き上げる。赤い唇は高慢に結ばれていた。うるんだ瞳は闇の奥に恍惚を燃えたたせ、炎に照らされた額は白く秀でていて、好ましく見えた。わたしはだから、その形のいい、愛らしい耳にささやいてやったのさ。恋人の不義という真実を」
 いかにも嬉しそうに、影がうねった。
「そうしたら、娘は石のようになった。沈黙した。力なく崩れた腕から、輝石をちりばめた腕輪がいく本も滑り落ちて、ちろちろ鳴った。乾いた虚ろな瞳で空を見つめた。周りの男たちがざわめきはじめた。叱責が飛ぶ。名を叫ぶ。剣をちらつかせる。だが、巫女は応えない。返答のかわりに、髪飾りを引き抜いて、己の首元へ突き刺した。唇から流れるのはもはや祈祷ではなく涎、血の気のない頬を濁った涙が伝い、しばらく手足がひくひくと痙攣していたが、やがて絶えた。巫女と獣との血が混じり合った。それがこれだ」
 微笑みながら、指先で赤黒い糸を無邪気に弄んだ。
「織れ。嘆きは上等の面紗となろう」
 しかし、と影は続けた。
「人とはおかしなものだ。真実に耐えられぬ身で真実を求めるとは。それにあの刃。あれは己が身ではなく憎き仇、あるいは男へと向けられるはずのもの。さすれば真なる幸福を手にできようものを」
「かつて」
 ここではじめて、老婆が静かに口を開いた。
「わたくしも娘でございました」
「その美しさゆえ、国ひとつ滅んだ」
「けれどあなたさまとは違います。わたくしは人間でございます。人間なのです。時の力に抗うことはかないませぬ」
 血潮が脈打つように、はたの縁は鈍くきしむのを繰り返した。
「若さの残り香すら遠く消えた今、それでもあなたさまは、この老いに醜さを重ねる婆を地に還さず、魂のくびきでつないでいらっしゃる。それと似たようなものですわ」
 だが影はそれを聞いても、やはり無邪気に首を小さくかしげただけだったし、老婆は変わらずはたを織り続けていた。