魔法使い
 西のほうの国に、ひとりの魔法使いがいた。その力のすぐれたるは他に比類なしと讃えられ、一たび杖を振るうだけで、風も水も火も地も、あらゆる元素が忠実に従った。また、知識の豊かなことは神のごときと誉れ高く、王の書庫に眠るすべての書物を合わせても及ばぬほどで、天の星々から運命を読みとることに長け、戦となれば千の兵士にも勝る力を持ち、あらゆる病を癒す薬の調合を心得ていて、いかなる民の言語をも思いのままに操った。
 しかし、この偉大なる賢者ですら、冥府の使者を配下におくことはかなわなかった。あるとき、親兄弟か、友人か、恋人か、はたまた師や弟子かは知らないが、とにかく魔法使いが最も愛した誰かが死んだ。その嘆きは深かった。主の悲しみに呼応して、大地が震えた。風が鳴いた。花々が色を失った。
 だが彼は万物の支配者だった。心裂けんばかりの悲しみに己が支配されるなど、許せるはずもない。だから、死者と共に讃えた山を削り、歩んだ森を焼き、仰いだ空をにび色の雷雲で覆いつくし、慈しんだ村々をひとり残らず滅ぼした。愛情の深さと同じだけの憎しみを、杖振る腕にしっかとこめて、目に映るあらゆるものを破壊した。死者を思い起こさせるすべてを消し去れば、魔法使いの心は再び己に返って来ると信じていたのだ。
 彼が望んだとおり、大地は荒廃した。耳を澄ませど命の気配はなく、空の青は魚の目のように濁りきり、眼前にはただ果てのない荒野が広がるばかり、ついに死者の面影は霧散した。けれど、荒野にひとりぽつねんと立つ魔法使いの、心はやはり悲しみで満ちている。
 とうとう魔法使いは怒りのままに、禁忌の術を紐解いた。自分の心にまじないをかけ、死者の記憶をすっかり封じこめたのだ。禁忌のもたらす滅びなど、天地の理すら捻じ曲げる男にとっては恐れるに足りぬもの、朗々と響く古の言葉が虚空に立ち消えると、たちまち魔法使いの胸は平安を取り戻した。隠者の愛する静寂の日々が帰ってきた。
 男の身に異変が起こり始めたのは、それからしばらくしてのことだった。突然、涙が両の頬をはらはらと流れ落ちる。締めつけられるように、胸がきりりと痛む。見知らぬ誰かの影が、目の端によぎっては消えていく。その原因に覚えはない。だが日に日に胸に迫りくる姿なき絶望は、魔法使いの心身を次第に蝕んでいった。男はこの謎めいた病を治すべく、世に名高い知識を尽くして、あらゆる魔術や薬術を試してみた。しかしその努力空しく、どんな呪文も薬草も、少しの効き目もみせなかった。それどころか、心とからだとに強く深く絡みついた名もなき悲しみの衝動は、日ごと日ごとに激しさを増していった。記憶にない、だが確かに自分のなかに息づく未知のものが、喉にことばをつまらせる。何かを叫びたいはずなのに、それが何であるかを彼は知らない。おぼろげな記憶の輪郭をなぞろうとすると、それは嘲るかのようにするりと手を抜け霧散する。そしてせんの悲しみがまた身を苛むのだ。この繰り返しがしまいには、魔法使いに気が狂わんばかりの苦しみをもたらした。からだ深くに埋めこめれたこの異物を何とかほじくりだそうと、男は手当たりしだいに聖なる灰を振りまき、香を焚き、古の呪文を唱えたが、肉を突き抜けるいく筋のもの神秘は、ただ心身をいたずらに傷つけるだけに終わった。耳から吹き込まれた狂気は熱となって身を焼き尽くし、もはや夢と現実との境を知ることもままならない。男はついに耐えられなくなって、冥府の戸を叩かんと、目を閉じ杖を胸に置いた。魂が風に散るその瞬間、瞼の奥に広がる深遠で、誰かがその名を静かに呼んだ。
 こうして魔法使いは、ついに己の望みを果たしたのだった。