魔女
 少年は夜を裂くように走った。途中、足の裏に小石か棘か、未知の何かが深く突き刺さり、肉を抉った。激痛に眼がちかちかして吐き気がこみあげてきた。足指のあいだに、ぬるりとした血の気配があった。しかし、それを振り切るように舌打ちすると、つま先に意識を集め、力強く土を蹴り上げた。月の輝く晩であったので、腰に下げた覚束ない灯だけでも村道を行くのに不自由はしなかった。急がなければ、夜が明けてしまう。夜が明けてしまっては、彼女を永遠に失ってしまう。その恐怖が、少年の背を押した。だから走った。がむしゃらに腕と脚とを動かした。思考はすでに身体の外に追いやられていた。頭からつま先まで、焦げつくようなあせりと不安、肺からせりあがる苦しみまじりの熱い吐息に支配されている。
 彼女が連れ去られたのは、まだ空の白むまえであったという。物音は聞こえなかった。叫びもなかった。闇に溶けいるように、少女は忽然と姿を消したのだ。
 朝目覚めて、井戸で水を汲むために外に出たとき、隣家の竃から煙が上がっていないのに気がついた。揃って寝坊でもしたのかと笑って戸の奥をちらと覗くが、誰の姿も見えない。名を呼びながらおずおずと足を踏みいれるも、室内はがらんどうで、少年の声だけが空しく響く。竃には火種が燻っていて、桶には水が張ってある。寝床には敷布がかけられ、鍋には残った粥が乾いてへばりついていた。すべてはあるべきところに収まっていた。人の温もり、ただそれだけが足りなかった。
 少年は混乱のあまり無言で立ちすくんでいたが、窓穴から降り注ぐ清潔な朝の光を見とめた瞬間、急に頭から血が失せ、目が覚めたようになった。慌てて家に戻るやいなや、青い顔で両親に事の次第を必死に伝えるが、空々しく目と話とを逸らすばかりで、らちが明かない。
「何か知っているのか?」
 不審に思って強く問いただすと、はじめはなんのことやらと農夫らしい抜け目のなさでのらりくらりとかわされたが、従順と思っていた息子の常にないしつこさに負けて、しまいには重い口を開いた。
 隣家の娘に、魔女の疑いがかけられていると。
 信じがたかった。彼女ほど罪から縁遠い存在を少年は知らなかった。
 確かに美しい娘だったが、自分にはわかっていた、あれは偽りの姿、禍々しい魔女だったのさ、と母親は妹の口に乳を含ませながら厳しく言い捨てた。父は横目で母を見ながら、そっと耳打ちした。
「このあたりで、妙な疫病が流行っているのを知っているだろう。高い熱が幾晩も続いて、さいごには乾物みたいになって死んじまう。領主様の御子もそれにやられたんだ。たいそうかわいがりなすっていたから、魔女の仕業だと気が狂ったように繰り返していなさるそうでな」
 遠くを見るような眼差しになって、低く唸るように続けた。
「この辺りは若い女も食い物が悪いせいか、みんな痩せこけて貧相だが、あの娘だけ飛び抜けて別嬪だったからなあ」
 睨みつける妻の視線を流して、父は息子の肩をとん、と軽く叩いて耳元で囁いた。
「だれでもよかったのさ。かわいそうだが、諦めな」
 爪痕のつくほど拳を強く握りしめるばかりで、少年は父の言葉に否定も肯定もしなかった。が、夜を待って家族が寝静まったのを確かめると、火の子の弾むように寝床を飛びだした。別れの言葉は口にしなかった。だが、予感があった。もうここには戻るまい。
 娘は教会の牢に囚われている。そう母と女たちが話しているのを昼間耳にした。あすには領主様が村に到着される、遠からず火あぶりにされるさ、いい気味だ、といかにも楽しそうに笑っていた。
 そのときの笑い声が耳の奥に蘇り、少年は唇をきつく結んだ。家から教会までは、小川を越えてすぐ。決して距離があるわけではない。しかし、走れども走れども、眼前には闇が迫るばかりで、いっこうにたどりつく気配がなかった。足がもつれた糸のようになってうまく動かない。闇のなかでは、身体すらも自分のものでないような気がした。
 そのとき、地面に全身をしたたか打ちつけられた。なにかにつまずいたのだ。
 衝撃はあったが痛みはなかった。少年は倒れこんだまま、呆然と手元の泥を握りしめた。視線が宙を漂う。景色のすべてが凍りついたような、静かな夜だった。風の音も、鳥や獣の鳴く声も聞こえない。ぞっとした。世に己ひとりきりになったようだった。それでも、よろめきながら立ち上がり、ふたたび歩みはじめた。あたりには、暗い深淵と不実な月光しかない。だが、とにかく前にすすむしかなかった。
 上下に喘ぐ息にあわせて、視界に少女の姿がちらちらと浮かんでは沈む。春の日差しを思わせる穏やかな微笑み、朝露のようなしっとりと心地のよい、耳に滲む優しい声音。光降り注ぐ礼拝堂、面紗の影に見え隠れする真摯な横顔、柔らかい唇から流れる、静謐な祈りの歌。村でいちばんの働き者で、汚泥にまみれてもなお輝くばかりに美しく、しかし慎みを知り、だれよりも敬虔だった。一度交えれば忘れえぬその眼差しに、男たちは夢中になった。道端に貴石が無造作に転がっていれば、それを争って奪いあうのは当然のことだ。けれど、どんなに強引な誘いを受けても、恥じらって目を伏せ、掴まれた腕を振りほどき、頬を赤く染めて逃げだしてしまう。それがかえって心を煽るのだが、彼女はそれを知る由もなく、柔和な容姿に不釣り合いなほどの、石のように固い態度を決して崩さず、だれの誘いも頑として受けなかった。
 同じ年、同じ日に隣家に産まれ、きょうだいのように育った。だれよりも娘のことをよく知っている、だれよりもよく見てきた。褒めればはにかんだように笑い、からかえばすぐに泣きそうになる。男たちに怯え、少年の背に隠れることも何度かあった。なんでもそつなくこなすように見えて、少々、そそっかしいところがある。炊事はうまいが、針仕事は苦手で、ふだんは意味のないおしゃべりばかり投げかけるくせに、針を動かすあいだはひどく無口になる。いまだに仕上げは母親に手伝ってもらっているのを恥ずかしく思っていて、村のだれにも秘密にしている。
 少年は顔を歪ませた。すこしばかり見てくれがいいだけの、どこにでもいるような娘なのだ。彼女が魔女であるはずがない。魔女であるはずがないなら、守らなければならない。背丈も、腕の力も、今では少年のほうがずっとあるのだから。
 よほど必死に走っていたのか、いつの間にか、教会の敷地に入っていたのにも気づかなかった。立ち止まり、腰を折り息を整えつつ、暗がりに目を凝らすと、睨みつけるようにあたりの様子を伺った。牢は裏庭のさらに奥だ。誰もいない。いや、牢番の村人がいるが、大いびきをかいて、眠りこけているようだった。近づかなくとも、酒のにおいがあたりに満ちているのがわかる。もし目覚めたら、と考えて、腰にさした小刀の重さを確かめた。ごくりと唾を飲みこむ音が、不自然なほどに大きく沈黙に響く。
 鉄製の重い閂を慎重に引き抜き、扉を開けた。冷涼とした石室の奥、窓穴の下に立つ人影があった。鼻から入りこんでくる罪びとのにおいに、少年は打ちのめされたようになった。汚れた生成りの背中には長い髪が垂れ、月明かりに照らされて浮き上がっている。影はゆっくりと振り向いた。表情はわからなかった。粗末な服のところどころに染みついているのは血だろうか。少年はたまらなくなって駆け寄り、その手をとった。強く握りしめた手は温かった。言葉を発しようとしたが、喉がつまったようになった。どうしてこのぬくもりの持ち主が、人ならぬものでありえようか。
 あなたなの、と消え入るような声がした。
 少年はそうだ、とやっとのことで口を開いた。
 そこではっとしたように、少女は身じろいだ。
「いけない、早くもどって! 見つかったら、あなたまで」
「嫌だ。何のためにここまで来たと思ってるんだ。安心しろ、見張りは高いびきだし、ほかに人の気配もない」
「でも」
 解こうともがく娘の手を、しっかりと握りなおす。すると、顔を伏せる気配がした。
「……お願い、見ないで」
「逃げるなよ」
 怯えさせることのないよう、できるかぎりの柔らかい言葉を選んだつもりだったのに、口からでたのはいつもと変わらぬぶっきらぼうな声だった。
「逃げることなんてない、だって、お前は罪を犯していないんだろう」
「ええ、ええ。誓って」
 ややあって、少女は悲しげに首を振った。
「信じてくれるの」
「当たり前だ」
「なぜ?」
「理由なんかいるのか」
「……ありがとう。そう言ってくれるのは、もうきっとあなただけよ」
 つとめて気丈な口ぶりを保っていたものの、闇夜でもはっきりとわかるほど、細い肩が震えていた。少年は思わずその肩をきつく抱いて、熱っぽい口調で言った。
「行こう」
「行くって、どこに?」
「遠くに」
「まさか、何を言うの。無理よ、そんな」
「できるさ」
 消極的な態度を示され、声音に苛立ちが混じる。
「まだ夜なんだ。闇に紛れていけば、二人ぐらい姿を隠すのは簡単だ」
「すぐに捕まるわ」
 熱を冷ます水のように、澄んだ声音が暗がりに響いた。
「父さんと母さんは遠くに連れていかれた。ここよりもずっと遠くよ。いずれ、私も」
「お前は魔女じゃない。だからだいじょうぶだ。何があろうと、神様が守ってくださる」
 諭すように言うが、返答はなかった。長い沈黙ののち、娘はたまらないように、首根っこに縋りついてきた。幼子のように、泣いているようだった。薄い布越しに小さな乳房の柔らかさを感じて、腹の底が熱くなった。
 甘やかな息と涙が、首の根本を熱く刺激する。少年は緊張に身を固くしたが、彼女は小さく笑っているようだった。
「泥だらけね」
「……ああ」
「転んだの」
「そうだ、悪いかよ! お前な、こんなときに……」
「うん、ごめんね」
 少年は顔を歪めると、ぎこちない仕草で、自分のものよりもずっと優しい、丸みを帯びた背中に腕を回した。
「俺、職人になるよ。大きな街だったらいくらでも働き口はあるだろうし、まじめに働けば、二人で食っていくくらい、何とかなるさ。俺には鳥のような翼はない。でも、二本の足がある。きっと逃げきれる。だれも知らない土地まで……」
「あるわ。あなたには翼がある」
 怪訝な表情をする少年に、娘は続けた。
「忘れてしまったの」
 頭がぼんやりと霞がかったようになった。ああ、と大きく息を吐いた。確かに、幼いころにそんな空想を語りあったことがあったかもしれない。娘を背にのせ、大きな翼を広げて、いくつもの山を越え、河をたどり、村々を見下ろして、いつ果てるともわからない、遠い旅路へ。どうしてすこしの疑いもなく、そんなことを口にできたのだろう。
 少年は夢物語を思いかえし、苦く笑った。
「そうだな、俺は」
「ええ、あなたは」
 彼女は、微笑んだようだった。首に回された腕に、力がこめられた。
 耳元でささやく声がした。
「わが血にして、わが肉。わが僕よ」
 熱い吐息が、髪のひとすじのように流れた。
 そのとたん、臓腑に焼きごてをあてられたような激痛が走った。天と地がひっくり返って、逆転した。空から落ちて頭を地面に叩きつけられた衝撃に、視界が真っ白になる。景色が目まぐるしく廻る。血の巡っていたはずの管には、溶かした鉄の灼熱が濁流のようにうねり、全身をあっという間に蝕んでいった。骨と肉とが力まかせに剥がされていくようだった。少年は苦痛のあまり、肌をかきむしり、叫びをあげた。しかし、口から溢れるのは、もはや言葉ではなかった。糸を引いて粘りつく唾液が水たまりのように足元を濡らし、熱い息は腐った肉のにおいを放つ。
 みし、みしと大木の幹が割れるような鈍い音がした。
 柔らかな腕がゆっくりと、背の骨をつたい下りてくる。衣服は千々に引き裂かれていた。愛撫のような動きで指先が辿るのは、しなやかで若々しい肌ではなく、幾重にもかさなる固い鱗であった。
 まろやかな舌先が、罪、という語を味わうように刻んだ。
「神なきこの身に、罪などあろうはずもないのに」
 助けを乞うように伸ばされた腕は、すでに腕と呼べるものではない。背に鋭い鉤爪を立てられて、娘の纏った生成りの白が赤く染まった。露わになった脚の間に、血の筋が何本も流れ落ちた。
 娘は優しくたずねた。
「どうしたの、なにを泣くの」
 空気を震わせたのは、人の嗚咽に似た、長い長い慟哭だった。そのまま、少女の柔らかい肉を喰らい尽くすように、鱗に覆われた身を奥深くまで沈みこませた。深く裂けた口が大きく開かれ、黄ばんだ牙がだらしなくむき出しになる。その奥の黒ずんだ赤が月光に濡れて鈍い光を放った。先の割れた舌が足の付け根から徐々にねっとりと這い上がってきて、未熟な胸を荒々しくまさぐると、夜をも蕩かすような甘い嬌声が、絶望とも聞こえる低いうなりに重なる。
 すべてが闇に溶け、すべてが闇に交わった。
 竜は咆哮した。
 そうね、と濁った獣の眼を見つめ、少女はささやいた。
「悲しい夢を見たのね」
 魔女の笑う声が、静寂に飲みこまれた。
 
 竜は雄叫びをあげていちど旋回し、己のあるべきところへと首をもたげると、夜風に翼を預けた。
 月のこうこうと照る夜であったから、村人の何人かは、その光景を眺める者があったかもしれない。しかし、多くの物語がそうであるように、血と記憶によって織られ、後の世に伝えられることはなかった。ほどなく疫病が蔓延し、あたり一帯のすべての者が死に絶えたので、時の流れの慈悲によって亡者たちの影が風に溶けいるまで、その地には長くだれも住まわなかったのだ。