糸玉の首飾り
 秋の終わり、冬の始まり。
 夜のない世界に夜がくる。
 それは人ならざる者たちの祭りの日。
 夜のない世界で糸の娘たちは互いを見た。
 同じ顔、同じ唇、同じ瞳。双生児である。
 糸には終わりがあり、始まりがある。だから彼女らは対である。
 柔らかな絹が縒りあわさるかのように、身を寄せ、腕を絡ませる。
 夜とはどんなものだったかしら?
 囁く声は衣擦れに似ている。銀の鈴の音にも似ている。あるいは、そのどれにも似ていない。
 どんなものだったかしら?
 さあ?
 さあ?
 忘れてしまったわ。
 そうね、忘れてしまったわ。
 娘たちはくすくす笑った。透明な笑いだった。
 ともかく夜がくるのだ。夜を祝うためには、何かすてきなものを誂えなければ。
 星を集めた外套がいいかしら?
 それとも風を編んだ飾り紐が?
 いえ、それよりもずっとすてきなものがいい。
 糸の娘といえど、無から有をこしらえることはできない。無で作ったものは、無でしかない。
 ならば拾いあげるしかない。
 太いのもの、細いもの、明るいもの、暗いもの。様々な色をして、様々な感触、様々なにおいがするもの。
 娘たちは真暗な淵をのぞきこみ、それぞれの指を伸ばした。
 糸を。


 囁きかけられて、少年は顔をあげた。
 だが、女の声が聞こえるはずがない。好色な父親が卓の下に愛人を潜ませている様子もなかった。
 冬の夜気をあざけるように、煮込み料理が白々しく湯気を立てている。
 少年の真向かいで、王はがつがつと食い物を口に押しこんでおられる。それからたっぷりの葡萄酒を、喉を慣らしながら臓腑に流しこんだ。王の息子は味のない肉片を歯で二度三度つぶした。
 髭についた肉汁をぬぐい、王は満足そうにげっぷをした。
 王と王の息子は、ここではじめて相手を見た。
 まだ生きていたのか、と真新しい驚きと落胆が父と子とを結びつける。
 二つのよく似た影から管のようなものが伸びて、顔を覆い、胴にまとわり首を締めあげ、王城の壁という壁、床という床を蔦のように隙間なくびっしりと這っていた。
 目だけが違った。簒奪者の目が簒奪者を見ていた。
 糸の娘たちは、生ぬるく脈打つ血の縁を拾いあげた。
 けれど、これではまだ足りない。
 糸を。


 囁きは女たちのおしゃべりに飲まれてしまった。
 床いっぱいに広げられた布きれ、ふくよかな、あるいは干からびた唇からとめどなく溢れる意味のない言葉の群れ。さながら果てしない海原のようであった。彼女たちは海というものを知らなかったけれど。
 布きれの渦の中心にいたのはひとりの娘だった。
 春に控えた婚礼にむけて、女たちは布きれをあるべきかたちに整える。
 娘とその姉妹たち。その母と、その姉妹たち。さらにその母たち、その姉妹たち。
 折って、縫って、伸ばして、縮めて、あちらこちらをひっくり返して。
 雪の夜であるというのに、室内は目眩がするほど熱い。
 火を焚いて、もっと、もっと。
 手がかじかんで、動きやしない。
 でもおばさま、ここは布まみれよ。
 火の粉が飛びでもしたら。
 そのときはそのときさ。
 焼菓子が足りないわ。
 うんと熱い茶もね。
 もっと。
 もっと!
 婚礼の衣装からはじまり、大きな人間と小さな人間のための衣類、寝具を包む麻の夏織物、冬の毛織物。床に敷く布、卓に敷く布、雨よけの布、風よけの布。下女を味方につけたいとき、掌にそっと握らせることができるような、小ぎれいな細工もの。
 河のように流れ、山のように積まれた布きれに埋もれて、娘は知らぬ土地の日々を思い、知らぬ男を思った。胸に広がる不安を散らすように亜麻布を裁ち、わきあがる喜びを集めるように針を進める。
 おしゃべりのなかから、嘆息がひとつ浮いてでた。
 たかが布きれと馬鹿にして。
 男どもときたら何もわかっちゃいない。
 畑から生えるとでも思ってるんでしょうよ。
 心通わぬものの手になる布を、身につけるのは恐ろしくはないのかしら?
 笑い声がどっと起こり、やがて別のおしゃべりにさらわれていく。
 絶え間なく上下に動くどの唇からも、細く長いものが伸びている。兵士や花嫁や罪人や、遠く旅立つもののために女たちは針目に吐息を忍ばせる。人の身をくるむのは、羊毛や虫、草木のなれの果てばかりではないのだ。
 初夜の寝床に敷く薄物は特に念入りに。傷つけられたり辱められたりすることがないよう、祈りをこめて、呪いをこめて。
 男たちは知らぬ、女たちの秘密。
 糸の娘たちは、甘い茶と蜜菓子のにおいがする吐息を拾いあげた。
 けれど、これではまだ足りない。 
 糸を。


 囁きは耳を、いや、かつて耳と呼ばれていた穴を吹き抜けた。
 艶のない闇が棺を取り巻き、内はいっそうどろりと濃い。
 生けるものとそうでないものを分かつ線を断たれ、男は人でもなく王でもなくなっていた。
 蟲たちが悪さをしたのか、頭から金の冠がずり落ちた。色あせた厚ものにあたり、ことりとも音を立てなかった。
 糸の娘たちは冠には目もくれず、男の身体から綻んた線の切れ端を拾いあげた。
 けれど、これではまだ足りない。
 糸を。 


 囁きは雨の音に殺された。
 若き王は寝台に腰掛け、夜着の袖を捲りあげた。
 今宵のように湿り気の多い日は、腕に走る傷が鈍く痛む。
 絹糸で縫われた傷口を見た。引きつれる感覚はあるが節は動く。膿もない。予後は悪くはないはずだ。
 傍らに寄り添った妻が、不安そうに傷を注視した。
 案ずるなと告げたのは嘘ではなかった。痛むのは傷そのものではない。
 妻の目にも、腕にかじりつく髑髏が見えるのだろうか。
 かつての王は、死してなお旺盛な食欲を失っていないようだった。
 抜きましょうか、妻がぽつりと言った。
 頼むと聞いて頷いた。燭台を引き寄せ、腕を預けた。妻は枕の下に埋もれていた短剣を取りだした。女でも扱いやすいような、柄に草花の意匠が彫りこまれた細い品だった。肉に食いこんだ糸を、火であぶった切先で短くする。爪の先に力こめると、血染めの糸がずるりと引きずりだされた。
 北から嫁してきた新妻の肌は淡い。円光に照らされた指を眺めながら、父の肉を断った感触を思った。己の死のそのときまで、恨みがましくぶら下がり続けるのだろう。
 最後まで抜き終えても、言葉は生まれなかった。二人は傷跡を見、それから互いを見つめた。その沈黙が、王を王でなくし、娘を娘でなくした。
 糸の娘たちは、無造作に床に捨てられた絹のくずを拾いあげた。
 けれど、これではまだ足りない。
 糸を。


 囁きは平坦な旋律と薫物の重みに負けて消えうせた。
 とはいえ、たとえ祈りの場でなくとも彼女の耳にまで届くことはなかっただろう。
 ひどく老いた尼僧であったから。
 それでも、暁の闇にただよう祈祷の文句が途切れたそのとき、彼女の顔は確かにやや上に傾いた。
 あるいは半ば微睡んだ眼差しが、古き時代に失われた人々の姿を捉えたのかもしれなかった。
 尼僧は知らなかった。
 彼女の祈りが、別の土地で、別のだれかの歌と重なる瞬間があったことを。
 声の主が奏でていた楽器は森で朽ちている。人の腕に収まっていたころ、その楽器には弦が張られていた。獣の臓腑を寄りあわせた弦に、一本、貴人の髪が紛れていた。
 かつて、ある王が国を追われた。父王から奪ったように奪われた。王は旅人に身をやつし、自身の王国の再興を誓った。だが時が満ちることはなく、憎んだものも愛したものも、皆絶えた。
 王妃は尼僧となった。自らの髪を切り落とす感触を忘れてしまった今も、祈りのさなかにふと、何かを探すように顔をあげることがある。
 糸の娘たちは、失われた弦と失われた髪を拾いあげた。
 けれど、これではまだ足りない。
 糸を。


 少女は囁きを聞いた。
 どうぞ、と腰に巻いていた紐を差しだすことさえした。
 すぐ隣で、寝床に横になっていた若い女があきれたように言った。
「何してるの。あんた、まだ目がしっかり開いてるじゃない。夢を見るには早いわよ」
 夢ではないと口を動かしかけたが、すぐにあきらめた。
 きっと、自分にだけ聞こえる声だったのだ。そういうことはよくある。
 腰紐を結びなおしている少女を、女は寝床に引きずりこんだ。
「あったかい」
 最後に月が満ちた頃から夜がぐんと冷えこんできて、二人は床を共にするようになった。少女は物心ついてからずっとひとりで眠っていたから、胸の音を分けあうほど近くに人がいるのは、すこし不自由で、すこしくすぐったかった。
 旅回りの一座に拾われて二つめの秋が終わろうとしていた。育ての親に底値で売られたのであったが、少女の足さばきに舞踏の才を見いだした座長は、思わぬ掘り出しものを安く手に入れたと得意だった。
 夜露に震えながら野に眠ることも多いけれど、この夜は大きな村で祭りがあったので、空いていた納屋に寝泊まりすることを許された。男たちはまだ戸外で杯を重ねているに違いなかった。
 少女のふくらはぎに絡みついてきた女の足は踊子のそれで、華奢な見た目とは裏腹に固く冷たかった。女は熱心に稽古をつけてくれるが、いつかはこの足もそうなるのだろうか。女は美しい。だが美しい自分を想像するのは難しかった。
 耳元にかかる息が熱い。甘ったるく陽気な笑い声をたてるのに、酒のにおいに苦しみがまとわりついている。触れているところがより強くしまり、ぬくもりが奪われる。闇を含んで、脚が重たくなる。
 こういう夜、女は好んで昔話をした。
 自分が王の娘であったこと、どれほど素晴らしい暮らしをしていたか、どれほど愛されていたか。しかし憎い敵に謀られて国を追われたのだ、本当ならば、こんな卑しい生活をしているような人間ではないのだと。
 武勇すぐれた逞しい男たち、優美でしとやかな女たち、腹を満たしてもまだ余るほどの豪華な食事や、樽から湧きでる美酒、とろけそうな肌触りの衣と目の眩むような貴石、かしずく多くの下男下女、夜通し燃える篝火の明るさ、力あるものだけが持つことを許されるあらゆる輝かしいもの。
 踊りのわざと同じくらい、女は魅力的な語り手だった。何度聞いても飽きることがない。金糸と銀糸とで縫いとられた絢爛たる壁掛けのよう、つまり見たこともない憧れそのものの物語に、少女は夢中で聞き入った。
 やがてどちらともなく寝息をたてはじめ、踊子たちは深い眠りに沈みこんだ。
 夢を見た。
 温かかった。心地よかった。柔らかな衣でくるまれていた。それなのに泣いた。足が痛かったのだ。地に足が縫いとめられているようだった。すぐに人が近づいてきて、腕に抱いてあやしてくれた。でも求めているのはその人ではなかったので、また泣いた。別の女がやってきた。腕から腕へと移った。視界が霞んで、覗きこんできた顔がよく見えない。よく見えないが、甘い、優しい眼差しをしていることを知っていた。
 彼女はすぐに痛みのもとに気がついた。そっと産着の裾をたくしあげると、小さな足の裏から伸びる結び目をすくいあげた。ふっくらとした足をなでる指先から、静かな悲しみが流れてきた。血色をした結び目が解けようとしたそのとき、目が覚めた。
 寒々しい納屋だった。柔らかさも温かさも一瞬で消え去り、すすり泣く声だけが残った。夜の底で、足が痛いのと幼子のように泣いている。
 手探りで身を起こし、微睡みのなかにある頬に顔を寄せた。眦が熱く濡れていた。足を切られた夢を見たのだと言う。
 あんたは何をなくしたの。
 しゃくりあげながらそう問われて、おぼろげな夢の跡をたどった。
 細くて長いもの、わたしを結びつけていたもの。
 気づけばだれへともなく呟いていた。
「糸を」
 糸の娘たちは、互いにすがるように寄り添った、夢と物語とを拾いあげた。
 さあ、これで支度ができた。


 糸、糸、糸。群れなす糸。
 夥しい数の糸は、絡まりもせず糸の娘たちに忠実に従った。
 ところがどうしたことか、いざ織ろう、編もうとしたところで嫌だと駄々をこねるのだ。
 鮮やかな黒、醜い赤、猥雑な白に混沌の青。人の言葉では言い表せぬ色々が、夜のない世界を食いつくさんばかり。
 ならばと双眸を交える。
 たおやかなる十の指先が作りあげたのは無数の糸玉、それらを連ねた首飾り。
 歪で美しくないそれは、娘たちの美しい頸によく似合った。