子どもの聖者
第一夜
 なにもかも溶けこんでしまいそうな大きな空に、なにもかも飲みこんでしまいそうな深い海に、ぽっかりと明るい月がかがやく夜、扉をこんこんとやさしくたたく音が聞こえたら、それは聖人ニルスさまとそのともびとが、子どもたちにすてきなおくりものをもって、あなたのお家を訪ねたのかもしれませんよ。

 ひとつめの家の子どもは、たいへんないたずら小僧でした。あなたが遠い国に住む方でなかったら、その日も、となりの家の庭に植えられた、ふるくて大きな木のみきを、りすのようにするするとのぼって行く、小さな影をご覧になったことでしょう。この大それたたくらみは、もちろん、大人たちにはないしょです。ゆらゆらと重たげにゆれる、たっぷりとうれた赤いりんごのひとつは、きょうだいたちとのいとまごいも許されず、あわれ乱暴にもぎとられ、つぎはぎだらけのズボンのポケットのなかに、あっという間に消えていきました。
「さようなら、わたしのきょうだいたち!」
 りんごは精いっぱいの声を張りあげましたが、それが届くことはありませんでした。男の子は風のように、地べたを駆けていってしまったものですから。

 やがて日は落ち、あたりは深い闇につつまれました。ひっそりと静まりかえった夜でした。
 赤や黄、それにだいだいといった、秋の色にめかしこんだ木々は、祭りの日のむすめたちの、はなやかなよそおいにそっくりでしたが、明るい声のかわりに木の葉のこすれる音でもって、にぎやかにおしゃべりをかわすことはありませんでした。風のひとひらさえも、星のむこうへ消えてしまっていたのです。森のおくから、ぎらぎらした金色の瞳をぬっとのぞかせて、ふくろうが不気味になく声も聞こえません。しばらく雨がないのに喉を渇わかせた小川は、せせらぎを歌うのを止めました。魚たちは沈黙しています。どうもうなけものたちすら、とおぼえを忘れて眠りこけているような、そんな晩でした。
 あのいたずら好きの男の子は、どうなったのでしょう?
 男の子は、庭の持ち主からも、両親からもひどく怒られて、パンのひとかけらももらえず、どんよりとしめった納屋のすみでひざをかかえて、小さい体を、さらに小さく丸めていました。
 その部屋はとてもかびくさかったものですから、ひざ小僧にまるい鼻を、しっかりと押しつけていました。納屋のそとからは、頑丈なかぎがかけられていましたが、朝になれば、家族のだれかが――たぶん、お母さんでしょう――その扉を開けてくれることを、男の子は知っていました。だから、目のはしにほんの少しの涙をうかべることもせずに、遠い夜明けをじっとまっていました。
 しかしニルスさまとそのともびとは、影のようにするりと厚い木の扉をとおりぬけました。そして、きょとんと目をしばたかせる男の子をみると、手にしたカンテラをゆらして、にっこりとほほえみました。
 ニルスさまは慈悲深いかたですが、あまねくすべての子どもにおくりものをくださるわけではありません。あんまりお父さんやお母さんを困らせたり、いたずらがすぎたりすると、夕日にのびる影のように、やせた背の高い男――ニルスさまのともびとです――が、夜の森よりも黒い帳簿に、夜の空よりも黒いインクでその子の名まえを書くのです。
 すると、目覚めたあともしばらく胸がどきどきしているような、楽しい夢がみられなくなってしまいます。これは、とてもつらいことです。
 ともびとは男の子にたずねました。
「おまえの名まえはヨハンだったな」
 男の子はかなしそうにこたえました。もう自分は楽しい夢を見られないのだと、知っていたからです。
「ちがいます。ぼくの名まえはヨゼフです」
 ともびとは、いくらでもインクがにじみでてくるふしぎな羽ペンを、さらさらとすべらせながら、いいました。
「おお、すまないね、ヨシュア」
 男の子は困って、小さな首を何回もふりました。
「ちがいます。ぼくの名まえはヨゼフです」
 ともびとは古くてごわごわした紙の帳簿から目をあげ、思いだしたようにいいました。
「そういえば、おまえは盗んだりんごを自分で食べないで、病気の友だちにあげたんだったな、友だちのとの兵隊ごっこよりも、大好きなりんごを。盗んだりんごはさぞ酸っぱかったろうなあ」
 男の子は小さな肩を落してうつむき、すきとおった涙をはらはらとこぼして、ごめんないさい、ごめんなさいとくりかえしました。ともびとはにやりと笑いました。
「そんな悪い子からは、楽しい夢をとりあげなきゃあいかん。なあヨアヒム?」