今まさにカップに口をつけようとしたとき、二人を取り巻く景色が泣くようにたわんだ。
「何?」
 はっとして、同時に顔を上げた。
 寮で水晶が放ったのと同じ、眩しい光に包まれる。足がふわりと地面を離れた。
 今度はもう驚かなかった。
「この光……もしかしたら、帰れるんでしょうか」
「ええ、かもしれません」
 サイラスの言葉は断定を避けていた。その表情には楽観も悲観もない。頭をフル稼働させて、状況を冷静に分析しているようだ。
「よかったですね。帰れたら、通販もできるし干物も食べられますよ」
「喜ぶところはそこですか」
「はい。何かを楽しいって思えるのは、大切です」
 ふだんより固く結ばれていた唇に、淡い笑みが浮かんだ。
「……そうですね」
 すると、急に頭上めがけて圧がかかり、強い力で光の中心に引き寄せられた。光の渦に飲み込まれていくその感覚が懐かしい。やはりこのまま、飛空都市に戻れるのだろうか。
 しかし、今回はなぜかスムーズに進まなかった。この前は山奥の吊り橋から激流にたたき落とされた心地だったが、今身体にかかっている負荷は流れるプールくらいの勢いで、会話ができる程度には余裕がある。
「ちょっときつい?」
「ふむ、今回は出入り口が狭いようです。二人で通るのは難しいかもしれません」
 いうなり中心部の方へ背中をとんと押された。横にいる人が離れそうになるのを感じて、急いで彼の腕を掴んだ。
「待って待って! 勝手なことしないで! 明らかに私だけ元の世界に返そうとしてますよね? 諦めるのが早すぎます!」
「一般的なスピードかと思いますが。それに、諦めという表現には語弊がありますよ。合理的な判断です」
「全然合理的じゃありません。来るときだって二人だったんだし、どうにかなりますよ。DDDでしょ?」
「女王候補試験管理者として、女王候補の身の安全を優先するのは当然かと」
「そんなの……だって、サイラスにも大切な人がいるんでしょう? もしあなたが帰れなくなったら、その人たちは悲しみますよ」
「こういった事態を見越して身辺整理は行ってますし、辞世の句はタイラーに預けてあります。特に心残りは……」
「あります!」
 言葉を遮られて、サイラスは軽く目を開いた。
「私はあります、たくさんあります。いいですか、ちゃんと聞いてください。私はあなたと一緒に帰りたい。あなたとお茶を飲んで、あなたとおしゃべりをして、あなたの作った朝ごはんを食べて、通販で買った変なもの比べをして、あなたと……」
「さ、もう時間のようですよ」
 さようなら、というようにサイラスの口が動いた。
 朝の挨拶と同じ調子で告げられた永遠のお別れ。あるいは優しい拒絶。
 どうしてそんなにためらいなく自分を手放すことができるの。
 怒りなのか悲しみなのか、あるいは……判断できない感情がこみ上げてきて胸が苦しくなる。
 普段の柔軟な発想からは信じられないくらい、私たちの執事は大事なところで頑固だ。
「サイラ……」
 光が一層輝きを増したとたん、時空が歪曲し、飛空都市の存在がぐっと近くに感じられた。だが同時に、隣にいた人の体温が遠くなっていく。
「だめ――――!」
 解かれようとするその手を……
離さない