三つの願い
 大陸の南に位置する半島に、猫の額ほどの国家が乱立した時代があった。
 ある月の夜、そのうちのひとつである圧制と腐敗で知られる国の王城で、人々の盛大な歓声が上がった。
 少年は王の寝所にそなえつけられた露台から、その様子を静かに眺めていた。衣服は敷布を巻きつけたのみ、その肌は血で濡れていた。そして、同じように黒く変色した小刀が足元に放り出されていた。
「おい、いるか」
 ふいに誰をともなく呼びかける。すると、後ろに伸びた影から、黒衣の若い男がのそりと現れて頭をたれた。
「ここに」
「死んだ」
 少年は寝台の上の肉塊を親指で示した。
「あっけないものだ」
 そう言い放つ声は冷えきっていた。
 今は肉となった男は、敵襲を恐れ、常に隠しに武器を携帯していたが、快楽の絶頂において自らの隙が出来るなどと考えてもいなかったろう。しかも、それが息子の腹上でとは。
 男が口を開いた。
「血の繋がった父親でしょうに」
「妙なことを言う。貴様とて、そう思ってなどいないくせに」
 言いながら、寝台に視線をうつした。死してなお無言の叫びを続けるそれは、よき王ではなく、よき夫ではなく、またよき父でもなかった。少年の知る父は、夜の闇に醜くあえぐ獣でしかなかった。
 息子はかつて父と呼んだものを見下ろした。
「弱者の犠牲の上に強者が栄える。世の摂理だ」
 黒い目に憐れむような光を浮かべ、男は眉をひそめた。
「そして、今宵あなたが強者となったわけですか」
 少年はそれには答えず振り返った。
「姉上はどうした」
 男は声を落として言った。
「自刃されました」
「そうか」
 短く呟き目を伏せた。
 早くに母を亡くした少年にとって、母の記憶とは、すなわち姉のそれだった。優しい姉だった。たったひとりの理解者だった。姉の手は柔らかくて、いつも良い匂いがしたものだ。少年は赤黒く染まった自分の手を見た。
「おれもお前との契約を果たす時がきたようだな、悪魔」
 男は苦く笑った。
「長い付き合いでしたね。あなたは昔から本当に可愛げのないお子さんで。三つは叶えなきゃいけない決まりなのに、ちっとも願い事は言ってくれないし、やっとのことひとつめの願いをしてくれたと思ったら、おれを裏切るな、だけだなんて。随分と長いこと悪魔をやっておりますけれど、こんな主人は初めてですよ」
「別に好き好んで呼んだわけではない。宝物庫に転がっていた妙な壷を開けたらお前が出てきただけだ」
 少年は憮然とした。
「大体、願いとかなんとかで、安易に物事を解決しようとするのはごめんだ」
「では、どうして私を側に置いておこうとお思いになったので?」
「神に祈るより役に立ちそうだったからさ。安易に解決できないことについてな。だが、それももう終わった」
 顔を上げ、後ろに控える男と目線を合わせる。
「だから、さっさと魂でも何でももっていけ」
「はあ、そういわれましても」
 悪魔は頭を掻いた。
「まだ願いをひとつしか叶えておりませんので」
「もう、願いなどない。ほれ」
 少年は足元の小刀を拾い上げ、ためらいなく自らの首元にむけた。男はそれを見て、慌ててその手を振り払った。
「お止めください!」
「なぜ」
 訝しげに問う声に、深いため息で答えた。
「自害した魂は穢れるので、あちらにもっていけません」
「ならば、お前が手を下せば良いだろう」
「契約に違反します」
 頑な態度を見せる悪魔を一瞥し、少年はこのとき初めて、年相応に困惑した表情をみせた。
 眉間にしわを寄せる少年の顔をのぞきこむように、悪魔はささやきかけた。
「あなたの寿命がまっとうされるまで待っていても、私に不都合はありませんよ。こちらはそれこそ、嫌になるくらい長い時間をもてあましているんですから」
 少年は軽く目を伏せ、頭を振った。
「困らない、たしかにお前はな」
「含んだ言いようをなさる」
「産声をあげたばかりのこの国に、おれは要らぬ。あれと同じく亡者だからな」
 あれと呼ばれたものを悪魔は横目でちらと追い、それから窓の外に視線を転じた。
「ここまではうまくおやりになった。しかし、彼らは自由を知りません。過ぎた力に戸惑い、過ちを重ね、これからもっと多くの血が流されることになりますよ。あなたの導きが必要でしょう」
「自らの骨と肉とを削りあげて、新しい国を創るのだ。傷みを伴うのであれば、それも必然なのだろう。おれは神でも英雄でもない。膿んだ傷口を癒すすべなど持たぬ」
 少年は背後に冷たい笑みを向けてから、眼下の光景に視線をうつした。自由をうたう松明は赤々と燃え、男も女も、若者も老人も、兵士も農民も、手にした武器を天高く掲げ、瞳を輝かせている。
「聞こえるか、武器のこすれあうあの音が。あの歓声が。あの音が響くとき、時代は変わるのだ」
「でも」
「それとも、お前は見たいというのか。父の精を飲みこんだ口で高潔なる理想を声高に語る姿を、あるいは、いつ殺されるかと日が落ちるたびに寝台の上でふるえ、懐に刃がなければ人と話すこともできぬ惨めな姿を」
「しかし」
 悪魔の複雑そうな顔を見ると、少年は目を見張った。
「お前、本当に変な悪魔だな。よもや情が移ったわけでもあるまいに」
「よく言われます」
 しばしの重い沈黙の後、少年は満足げに笑った。
「わかった。こうしよう」
 ほんの一瞬であったが、幼さの残る無邪気な笑顔だった。少年は首筋の辺りを、とんとんと指で示した。貪るように吸われた情欲の痕が、いまだ赤く染みついていた。
「二つ目の願いはこれだ。お前がおれを殺してくれ」
「それは……」
 悪魔は声を失った。少年は淡々と続ける。
「お前はおれを殺せないと言った。だが、それが他でもなく主の願いだったら別の話なんだろう。違うか?」
 固く閉ざされた唇は、ことばよりも雄弁だった。ふだんどんなに軽口を叩こうとも、契約に関しては、悪魔は偽りを口にすることができなかった。
「そして三つ目の願いだ。おれのかわりに旅をし、おれの耳となり目となり、あらゆるものを見聞きしてくれ。生まれて以来、この腐った国しか見たことがないんだ。奇妙な力を使うお前なら、容易く成せる願いだろう」
「あなたが生きてなさればよいことではありませんか!」
 悪魔が声を荒げた。
 少年はそれに動じず、軽く手で制した。その手は血と体液に塗れて赤黒く染まっていた。
「おれの世界はこの朽ちかけた城と狭い領土だけだった。世について知っていることは、そう多くはない」
 穏やかに言った。
「だが、お前が決して裏切らないことを、知っている」
「私は……」
 常に少年の影に控えていた。そこで、毎夜繰り返される空気を裂くような叫びをなすすべもなく聞いていた。耳をふさぐことは許されなかった。それは、いつまでも纏わりつくように頭から離れなかった。
「やれ」
 静かな声音だった。しかし、悪魔は抗えなかった。震える指がためらいがちに少年の額に伸びる。悪魔は固く目を瞑り、少年はほほえんだ。
「ありがとう」

 空はどこまでも青く、風が茂る草の葉を揺らしていた。幼い少女は、摘んだ花を両手いっぱいに抱えて、春の原を走り抜けた。やがて、眼前にひとりの男の姿をみとめると、声の限り叫んだ。
「おじさん、お花摘んできたよ!」
 屈んでいた男は立ち上り、駆け寄る少女の柔らかな髪をなでた。
「ありがとう。きっと彼も喜ぶよ」
 そして視線を墓標にうつした。
「本当にちゃんとしたお墓に入れてあげなくてよかったの」
 少女は宿屋の娘で、男は客だった。男の連れが二日前、急な病で息を引き取った。それを知った宿屋の主人は、村の共同墓地に亡骸を葬ることを提案したが、男はそれを丁重に断った。
「ここのほうがいいかなと思ってね」
 男が選んだのは小高い丘だった。そこからは、小さな国が一望できた。飛びぬけて豊かではなかったが、この国で飢えて死ぬ子供は少なかった。
「お兄ちゃんはこの国の人だったの?」
 少女は不思議そうに首をかしげた。今はもう土の中に眠る青年の、明るくよくとおる声を思い出す。
「でも、いろいろな国のお話をいっぱいしてくれたけど、自分がどこで生まれたかはしらないって」
 男は静かにほほえんだ。
「彼は一度死んだんだ。だからそれ以前の記憶がない」
「どういう意味?」
 大きな瞳が、きょとんと男を見上げた。男はそれには応えずに言った。
「ずいぶんたくさん摘んできてくれたんだね」
「うん! お兄ちゃんはあたしに優しくしてくれたから」
 少女はその場に膝をつき、ふっくらとした短い指で摘んだ花を丁寧に大地に並べはじめた。一本一本に祈りをこめる。それは歌のように、あたりをやさしく包み込んだ。
 少女の背後で、かすかに空気が震えた。
「おじさん、どうしたの。泣いてるの。……おじさん?」
 次に振り向くと、そこに男の姿はなかった。ただ温かな風がひと吹き、丘の上を通り過ぎていくばかりであった。