春と桜と
 道ゆく数人の女子学生のセーラーの胸には、そろいの花がゆれていた。談笑することばは軽く、表情は明るい。ほおをなぞる風は女の手のように柔らかく、生暖かい。日の光はすべてを受けいれる母の傲慢さをもって、閑静な住宅街を優しくみたしていく。
 一真は眉をひそめて、鼻先をかすめる桜の花びらをふりはらった。小さな桜並木はむせかえるようなうす紅色にあふれていた。忌々しげに、黒い学生服の胸ポケットに突き刺さった造花を見つめる。鞄のなかにぞんざいに詰めこんだ卒業証書と、その安っぽい花のほかには、すでに卒業を迎えた感慨の残り香はない。すべては過去の話、終わったことなのだ。そう思いながら、わずか離れた間隔を保ちつつ、道端を歩く友人に視線をむけた。
 出会って数年、高い背をのばし、晴れ晴れとした顔つきでまっすぐ前を見て歩く様子は昔と少しも変わらない。それを後ろから見つめる瞳に浮かぶのは、時に深い憧憬であり、時に焦げつくような嫉妬であった。勉強、部活、運動、人望、統率力。自然と人を引き寄せる彼の周りの空気は常ににぎやかで、明るい光にあふれているような錯覚をうけた。中学時代の三年間、一真がこの友人より秀でていると自信がもてるものはなにひとつなかった。一真がほしいと願った、全てを苦もなく手にしていた。
 しかし、こうして並んで歩くのも、今日が最後だ。

 曲がり角にきて、友人は一真を見やった。すでに前を行く女子学生たちの姿は消えていた。
「今年早いよなあ、桜咲くの」
「そう?」
「ふつう、卒業式の時期には咲かないだろ。異常気象の影響って、ニュースでやってたぜ」
「桜がいつ咲くかなんて、考えたことないよ」
「嫌いなのか、桜」
「別に」
 そっけない返答に苦笑する。
「いいんじゃないの、嫌いでも。日本人全部が桜好きじゃなきゃいけないってわけでもないだろ。あ、でもお前の家、でっかい桜があったよな」
「何、大樹。うちで花見でもする気?」
「え、花見してもいいの」
 耳の中いっぱいに、朗らかな声がひびいた。
「駄目じゃないけど」
 一真はしぶしぶとうなずいた。
「お前んとこの庭いいよな。日本庭園っていうのか、あれ。なんか好きなんだ」
「日本庭園ってわけじゃないよ。木が適当に植わってるだけで」
「俺んちマンションだから、ああいうのうらやましい」
 屈託なく笑みをこぼし、目を輝かせて話す大樹の横顔をながめて、一真はぽつりと呟いた。
「うらやましい」

 広いといって差し支えない一真の家の敷地内に、人の気配はふたりのもののほかなかった。
「おばさんたちは?」
 大樹は縁側に腰かけ、あしをぶらぶらゆらしながらたずねた。畳には、無造作に放り投げられた卒業証書が転がっている。
「田舎で法事。明日には帰ってくる」
「ふうん」
 気のない返事とともに、桜の大木を見あげた。
「すげえなあ」
 そういうと、しなやかな動作で地に足をつき、桜吹雪をかきわけるように大木に歩み寄った。
 一真もそれに続く。横に並ぶと、ちょうど大樹の唇が一真の目線と重なる。
「四月から違う学校通うんだよな。変な感じ」
「そうだな」
 そう言いながらも、一真は胸をじっとりと這うような歓喜を覚えていた。せいせいすると、はっきり口に出して言えたなら、どんなに胸がすくだろうか。
 だしぬけに大樹が振り返った。
「お前、さびしいか?」
「なんで」
「だって、小学校の時から一緒だったからさ。学校行くのも、帰るのも」
「ばか言うなよ。女子じゃあるまいし」
「きっとこれから、違う電車使って、違う教科書で勉強して、違う友達と遊ぶんだろうなあ」
「別にいいじゃないか。ちょっと遠いけど進学校受かったんだし、部活も続けられるんだろ?」
 進学校ということばに不自然に力がこもったのは、第一希望校の合格発表日、掲示板に自分の受験番号を見つけられなかったときの絶望感を、ふいに思い出したからかも知れない。子どもじみた皮肉を向けられた大樹は、それに気づいた風でもなく、ただひとこと言った。
「そうだな、遠いな」
 一真はいぶかしげに友人の顔を見上げた。幻に目を凝らすように桜の木を仰ぐ仕草が目に入ったが、その瞳がどのような感情を浮かべているのか、知る術はなかった。大樹はそのままの姿勢で、こともなげに言った。
「なあ、一真。お前、俺のこと嫌いなんだろ」
 突然、頭上から降りかかったことばに顔が凍りつく。
「知ってたよ。だってお前すぐ顔に出るからさ」
 大樹はざらつく幹に片腕をつきながら、横に呆然と立つ一真へと針のように鋭い視線を向けた。一真は開きかけた口を閉じた。
「さっきお前に桜が嫌いかって聞いたけど」
 大樹は目を細め、唇のはしを軽くあげた。微笑とも嘲笑ともつかない表情だった。あるいは、そのどちらともとれた。
「俺が嫌いなんだ。見てると気が狂いそうになる」
 大樹の手が一真の耳に触れた。その手つきはごく優しくありながら、本能的な恐怖を抱かせるものであった。一真は固く目をとじた。そのまま唇が重なる感触を感じた。桜の幹の固い感触が、背にあたった。一度はなれ、しかし再び口をふさがれた。反射的に相手の唇に歯を立てる。肉をかむ鈍い音は、花の散る音にかき消された。額を、首筋を、冷たい汗がつたう。
 沈黙と闇にざわめく春の絡みつくような風を、そこに漂う桜の花びらを、そして口にじわりと広がる苦い血の味を享受するばかりの自分の姿はあまりにも滑稽で、現実離れしていた。

 息も聞こえるほどそばにいても距離は一向に近くはならならず、伸びるふたつの道は重ならない。どんなに激しく叫んでも声は届かず、強く押しつけられたふたつの唇は口づけとは呼べない。一真は制服の胸ポケットに咲き誇る、うす紅の花をじっとりと濡れた手で固くにぎった。
 そこに無機質な活字で記された祝辞はもう見えなかった。