ヤノシュは事故のおり、自らも馬の背に伯爵のすぐ横に控えていたが、無慈悲な現実の前には、ただ無力であった。伯爵の奥方は、むしろ夫を救おうと果敢に暴れ馬に向かった従僕に礼を尽くしたが、それすらもヤノシュの心をさいなんだ。
ゆえにヤノシュは、葬儀を終えたあくる日から、屋敷に伯爵の霊が現れるという噂が流れると、自ら望んで真相を究明せんと奥方に申し出たのだった。
伯爵の亡霊は、決まって夜中に現れ、明け方に去っていった。屋敷中のものを壊し、漁る音を、屋敷の者たちは寝台のなかで震えながら聞いていたが、朝になって恐る恐る調べてみても、せんと変った様子は何ひとつない。
ヤノシュは、夜半亡霊の気配のする部屋をこっそりと覗いた。すると、蒼白の表情の伯爵が、何かを探すように部屋の調度品を手当たり次第散らかしている姿が扉の隙間から垣間見えた。ヤノシュは亡き主人の姿を再び目にした喜びと同時に、ことばでは言い尽くせぬ悔恨を感じてもいた。
次の晩、ヤノシュは伯爵の墓碑のすぐ近く、棺をおいてその中に身を潜めた。やがて、夜も更まると、誰かがこんこんと棺を軽く叩く音がした。分厚いふたを開いてみると、それはやはり彼の主たる伯爵だった。しかし、伯爵は新しい隣人を、ヤノシュであるとは気付いていないようだった。伯爵は問いかけた。地の底から響くように低い声だった。
「君も死んだのか?」
「はい。つい昨日のことでした。いまだ死人の自分に慣れませぬ」
「では、私とともに行ってはくれまいか。探しているものがあるのだ」
「仰せのままに」
こうして、ヤノシュと伯爵は屋敷に向かった。
伯爵は屋敷の一室で、毎夜のとおり棚を倒し、壷をほうった。しかし、それらは割れるどころか、傷ひとつつかなかった。ヤノシュはその様子を、半ば呆然とした面持ちで見つめていた。果たして何が主の魂をここまで掻きたてるのか、全く見当がつかなかった。
「ほら、君もやりなさい」
そう言われて、ヤノシュは手元にあった花瓶を、ためらいながらも勢いよく壁に投げつけた。花瓶は高い音をたて、粉々に割れた。伯爵はそれを聞き、怪訝そうな顔をした。
「君、まだ死んでいないのだね?」
ヤノシュはしまったと、身体を固く緊張させた。冷たいものが背筋を走るのを感じた。亡霊は青白い腕を伸ばし、そっとヤノシュの顔に触れた。指は氷のようで、触られた箇所は瞬く間に温度を失ったが、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
「おまえ、ヤノシュか」
伯爵は驚きヤノシュを見つめた。瞳に浮かぶ光は、ごく穏やかであった。
「生きていたのだな」
ヤノシュは耐え切れず目をそらした。
「はい、伯爵様。おめおめと生き恥をさらしております」
「そうか、死んでいなかったか」
伯爵はほほえんだ。
「そうか。そうか」
ひとり心地にそう言いながら、戸惑うヤノシュの身体をきつく抱きしめた。
「死んでいなかったか!」
以来、伯爵の霊が館を徘徊することはなくなった。
しばらくの後、寝室の隠しから、多量の金貨がでてきた。伯爵はこれを探していたのだと、人々は理解した。奥方はヤノシュに、褒美としてこの金貨の半分を与えようとしたが、ついにヤノシュはこれを受け取らなかった。
奥方はため息をついた。
「死人が現世を歩き回るのは、生前どこかに金貨を隠していたから、という話があるけれど、あれは本当だったのね」
ヤノシュは何も応えなかった。しかし、知っていた。死者にとって、また生者にとって金貨よりも大切な心残りが、この世には少なからずあるということを。
(ハンガリー民話より)