夕日に染まった放課後の教室内は、ひっそりと静まりかえっていた。開け放された窓から聞こえるのは、夏の終わりを告げるつくつくほうしの鳴く声ばかりで、わずかに灰がかった埃っぽいカーテンだけが、動きのない世界でただひとつ楽しげに風に身を任せてゆれている。
しかし、この沈黙する空間に人の気配がまったくないわけではなかった。
「あの」
糸をぴんと張りつめたような空気の重さに耐え切れなくなったか、生徒用の椅子に腰かけた、スーツ姿の若い男が口を開いた。
「もう少し、こちらに寄ってくれないと話が出来ないんだけどな」
机上に置いた手を、所在なさげに組む。
「どうしてですか」
間をおかず、冷たい返事が投げつけられた。声の主は制服姿の少年だった。夏服のシャツから伸びる腕は骨ばってはいるが、成熟した大人のそれではなかった。
「いや、どうしてって、今日は面談だしね」
少年はこの日面談を予定していた生徒の、最後のひとりだった。
「別に、僕は先生との面談を拒否しているわけではありません」
大人びた口調で、真っ直ぐに顔をあげて少年は言った。
「ただ、ここでないと話せないんです」
そう言い切る少年は、面談のために用意した教師と向かい合わせの席ではなく、机三つ向こうの席に背筋を伸ばし、堂々と腰かけていた。
「ええと」
教師は戸惑いを悟らせないようにつとめたが、無駄な努力だった。額に流れる汗は残暑の厳しい暑さのためか、それとも他の理由のためなのか、とんと見当がつかない。
「あの、もしかしてこの教室が暑すぎるのかな? もしそうなら、職員室で続けてもいいよ」
「いえ、ここで結構です」
「そ、そう」
経験浅い新米教師は、このような状況に対応する術を見いだせず、内心困り果てていた。意味もなくネクタイを胸ポケットに押し込んでみたものの、やはり適当な解決策は何ひとつ浮かばなかった。
「あ、そうだ」
しばらくして、教師は重い腰をあげた。
「じゃあ私が君の横に座るよ。君はそこの席がいいんだろ?」
このことばに少年はぴくりと反応した。そして教師が隣りに座るや否や、すばやく教室の隅の席に移った。
「……私は、君に何か悪いことしたかな」
ここまで避けられると、さすがに胸に痛みを覚えて、教師の目がわずかに翳った。
それを見た瞬間、それまでと態度を一変して、少年は戸惑ったようすで激しく首を振った。大の大人がふいに見せた弱さに驚いたのかもしれなかった。大人びてはいても、まだ幼さ残る子どもだ。
「違うんです、先生が嫌なわけじゃないんです」
「じゃあどうして? 話してくれるかい?」
「それは」
少年は頼りなく下を向いて、小さくなった。
その隙に、教師は生徒との距離をつめた。
「どんなに小さなことでも言って欲しい。私が何か不快に思うことをしてしまったのなら、君にあやまりたい」
離れていたはずの相手の声が、突然自分の頭上から降ってきたのに仰天したのか、少年はぎょっと目を見張った。
「どうした? 顔が赤いよ? ああ、もしかして熱でもあったのかな」
「い、え、大丈、夫です」
教師は髪をのけ、相手の額に手を当てた。少年の顔は硬直し、体の動きは壊れた機械のようにぎくしゃくした。教師は眉をひそめた。
「やっぱり熱があるみたいだ。身体も辛そうだし、面談は明日にしとこうか?」
「は、い」
少年は赤い顔のまま抑揚のない声で応えて、「ありがとうございました」と小さく言うと、すぐに鞄を抱え逃げるように教室をあとにした。家まで送ろうかと提案したが、目線で鋭く拒絶された。
「ひとりで大丈夫かな」
窓際の席にひとりぽつねんと座りながら教師はつぶやいた。
「ふだん大人しい子だから、今日はどうしたのかと思ったけど、そうか、調子が悪かったのか……悪いことをしてしまったな。そうだよな、これからは生徒の体調にも、もっと気を払わないといけない」
そうぼやきながら煙草を取り出そうとし、無意識に空の胸ポケットを探る自分の手の動きに気付くと、しまったと頭をかいた。
そのとき、遠くでからすの鳴く声がした。はじめ、蝉におされて消え入りそうだった声は、だんだんと大きくなる。
「お、からす」
教師は窓枠からひょいと顔をだした。
天を仰ぐと、からすが数羽あほうあほうと鳴きながら、夕暮れの空を横切っていった。