ラプラスの悪魔は笑う
「一たす一はいくつになる?」
 行儀悪く肘を突いて、窓の外の景色を眺めながら、義之は何気なく隣りに座る友人にたずねた。深い意味はなかった。いつもと同じ制服、いつもと同じ面子、いつもと同じ夕暮れ時のバス。もはや話題はつきかけていたのだ。
「二だろ」
 そっけない答えに、義之は目を開いて友人の顔を振り向いた。智宏の涼しい顔には夕日の影が深く落ちていた。
「まさか」
「それなら、たんぼの田」
「違うよ」
「何、なぞなぞ?」
「違うって、一たす一だよ。おまえ、数学得意じゃなかったけ」
「少なくとも、おまえよりはできるよ」
「じゃあ、智宏くん、おばかなぼくにおちえてくだちゃいね。答えはいくつでちゅか」
「……二」
「なわけないじゃん」
 智宏の仏塔面が、さらに曇りはじめた。
「なんだよ、わかんねえよ。おまえさっきから何言ってんだよ」
 相手の苛立ちを敏感に察知し、義之は一歩引いてやれやれと息をついた。
「ばっか、一たす一は十に決まってんだろ? おれとしては、話題の途切れた重苦しい雰囲気に新鮮な風を送りこみたかったわけ……何、その疑わしげな顔」
「……冗談じゃなくて? 本気で言ってるのか?」
 友人の表情から怒りの気配が消え、かわりに同情にも似た光が浮かんだのが、はっきりと目に映った。義之はむっとした。智宏はなるほど成績もよく知恵もあるかもしれないが、それゆえにこうやって人を見下すことがままあるのだ。
「本気に決まってるだろ。あのさ、おれ今まで生きてきて、一たす一が十って答えただけで、そんな顔されたのはじめてなんだけど」
 智宏は、自分に言い聞かせるようにゆっくりと口にした。
「……一たす一は二だ」
「は?」
「一たす一は二」
「あの、智宏くん。どうちたんでちゅか」
「別におれはどうもしてないけど。お前こそよく小学校卒業できたよな。一たす一が十とか言って」
「おまえこそ」
「もうこの話やめようぜ。しつこい」
「智宏くんが納得できるまで先生はやるわよ」
 こう言うと、義之は智宏の目の前で、両手の指を一本ずつぴんと突きたてた。
「これが合体するとですね……」
 にっこり笑顔をつくって、全部の指をぱっと開いた。
「十になる! っていうかさ、おまえほんとユーモアとかに融通利かない性格だよな……あ、もしかして熱でもある?」
 生暖かい指先が額に触れた。瞬間、智宏はそれを手荒く振り払った。
「それはお前だろ! ふざけんのもいい加減にしろよ!」
「ばか、大声出すな」
 言いながら、手のひらを口に押し付ける。乗客の視線が一気にふたりに集まった。義之は気まずそうに頭をかいた。
「おれもふざけすぎたよ。悪かった。あやまる。でもなあ、一たす一の答えでキレられても、こっちだってどうしていいか困るんだって。一たす一は十。これ世界共通」
「ふざけんな!」
 口を塞いだ手を乱暴に解くと、智宏は声を荒げた。
「離せよ、降りる。おまえの声聞いてると、吐き気する」
「降りるって、バスをか? 何に怒ってんの? おいおい、ちょっと待てよ!」
 智宏はもう何も答えなかった。足元に置いた学生鞄を乱暴にひったくり、バスの揺れによろめきながら、木の床をきしませて歩きだした。義之に一瞥もくれなかった。
「……わかったよ」
 ややって、義之は智宏の背に声をかけた。かたく、低い声だった。からかう響きは少しもなかった。
「じゃあ、この人に聞くからな。それで納得するだろ。あの、一たす一はいくつですか」
 上品そうな、枯れた女の声が車内に響いた。
「十ですよ」
「だってさ」
 智宏は勢いよく振り返った。唇に微笑みを保ちながら、老婦人はもう一度繰り返した。
「十ですよ、坊や」
 義之は生まれてはじめて、絶望に侵食されていく人間を見た。それはあまりに滑稽だった。ふしぎと、笑いたいきもちになった。
「うそだ」
「んじゃ、念のためこの人にも聞いとくぜ。一たす一っていくつになりますか」
「十だが」
スーツ姿の男が、眉をひそめて答えた。
「うそだ、うそだ、うそだ」
 叫ぶ唇は真っ青だった。これは本当に吐くかもしれないなと、義之は思った。
 乗客は顔を見合わせ、口々に言いあった。
「十よね」
「十だな」
「十でしょう」
「じゅう」
「ほら、十なんだよ、智宏」
 震える肩を支えながら、義之はできうるかぎりのやさしい声をかけた。指を絡める。背筋を恍惚が上りつめる。全身を熱い血潮が流れていく。
 夕日にかげる顔がゆがんだ。少年はそのとき、支配者となった。