放課後、人気のない校舎のはずれにある、人気のない理科室に、ふたつの影がせかせかと動きまわっていた。そのうちのひとつが、手にしたほうきの柄をふりまわしながら、大きくため息をついた。
「なんで、お前と仲良くおそうじなんかしなきゃいけないんだよ」
もうひとつの影は、いらだつ声でそれにこたえた。
「こっちのせりふだ。それと、危ないから、それふりまわすなよ」
「へいへい。ごめんなさいね、ちっちゃな優等生さん」
「……なんか言ったか?」
にらみつけると、相手は小さく肩をすくめた。
「なんにも」
ふたりはクラスのなかでも、犬猿の仲で有名だった。小さないさかいが起こるたびに、クラスメイトは、またか、と顔を見合わせて苦笑するばかりだった。
その日も、それは変わらなかった。ただ違ったのは、けんががはじまったのが理科の授業中で、学校一厳しい教師がその場にいたことだった。ふたりはともに、放課後の理科室のそうじを命じられた。
背の高い佐藤は、ぶつぶつと文句を言いながら、やる気がなさそうにほうきを床ですべらせた。
背の低い日高は、なにもいわず、ひたすら几帳面に実験用のビーカーを磨きつづけていた。
しばらくして、ふいに日高の指から、ビーカーがころりと転がり落ちた。とっさにつかもうとするが、ビーカーはそれをあざ笑うかのように指をぬけ、床に衝突し、高い音をたてて割れた。まずい、と小さくつぶやき、くだけた破片を拾うも、同時に破片は少年の皮膚を傷つけた。指からゆっくりと流れでる血のすじを、日高はぼうぜんとみつめた。
「おい、どうした?」
音を聞きつけ、佐藤は日高に駆け寄った。
「指切ったのか、血が出てるじゃないか。……おい、日高?」
日高は、だしぬけにぺたりと床に力なく座りこんだ。
ふだんとあまりにもかけ離れた相手のようすに、佐藤は驚きあわてた。
「ど、どうしたんだよ、すごく痛いのか」
「血……」
「血?」
「こわい」
顔を覗きこむと、日高の表情に血の気がないのがすぐにみてとれた。
「とりあえず、あれだ。保健室いこうぜ、な」
われ知らずでた佐藤の気遣うような声にも、日高は首をわずかに横にふった。
「立て……ない……」
愛想のない毒舌がぽんぽんと飛び出すはずの口からは、蚊の鳴くような頼りない声しかしぼりだされなかった。日高のふるえる指が、佐藤の制服をしっかりとつかんで離さない。
佐藤はうろたえる心を制し、落ちつけ、落ちつけと自分に言いきかせた。
そして、落ちついて考えたすえに、日高のうでを強引につかみ、指を口にふくんだ。
これで、日高からは血が見えなくなるはずだった。
しかし、先ほど流れでた血が、なおも指にこびりついていた。
「ひ、人が来たら変に……思うよ……」
佐藤はそのことばに従わず、また日高も強く抵抗しなかったので、舌先で丁寧に血を舐めとり、ふたたび指を口の奥へと押しこんだ。
血と唾液が混じりあって、指に熱くからみついた。
慎重に吸いつくと、鈍い鉄の味が口に広がる。かるく、歯を立てる。
「ん……」
そのとき、日高が体をこわばらせるのを感じとり、不安そうにたずねた。
「ごめん、痛かったか?」
相手が瞳をうるませながらも、こまかく首をふったのを見て、乾きかけた指先を口にもどす。
やわらかな舌の感触が、ゆっくりと傷口をなぞった。
それは、まるで生温かいひとつの生き物であるかのようだった。
次第に、佐藤はこの行為に没頭していった。
理性や分別といったものは、甘くしびれる白い意識のなかに溶けこんできえた。
ただ、人の気配のない理科室に、鼻をつく薬品のにおいと、水気をおびた音だけがひびいていた。
日高が落ちつきをとりもどし、傷口の血がすっかり止まりきったあと、ふたりはもくもくと割れたビーカーを片づけ、雲のうえを歩くような足どりで職員室にむかった。
頭から落ちる教師の怒りも、山向こうで鳴る雷のようで、夢うつつの耳にはまったく入らなかった。
校門で別れるときはじめて、先を歩く佐藤に、日高がうつむいていった。
「このこと、誰にもいわないでくれるか」
「……言わないよ」
佐藤は真面目くさってうなずいた。
「あ……りが、とう」
消え入る声でそう言うと、日高は逃げるように曲がり角に姿をけした。
ひとり残された佐藤は、つぶやいた。
「言わない」
そして、自分の口もとに手をあてた。
同じように、日高もまた、傷ついた指をそっと握りしめて走っていることも知らずに。