ファミレスで二時間ほど下らない話をした帰り道、あいつに指輪を渡された。瞬間、思った。どうしよう。感謝とか嬉しいとかもろもろの感情より先に、頭が真っ白になった。正直、自分がこんなに身勝手だとは思わなかった。ありがとうとは口にしたが、帰る足取りは重かった。
付き合い始めたのはいつだっただろうか。正確な日にちなどとっくに忘れてしまったが、たしか、とひとり自室のベッドに仰向けに寝そべりながら、記憶の糸を辿った。
「高一の夏」
静かな室内に響く自分の声に、二年前の遠い思い出が鮮やかによみがえっていく。そもそも、自分も相手も、それまでその気はまったくなかった。男を恋愛対象として見たことはなかったし、互いに友人だと思っていた。それが、いつしか形を変えていった。きっかけは、ほんのささいな出来事だった。ささいではあったが、心に、大きな喜びと、そして同じほどの苦しみとを投げ落とした。これまで培ってきた「常識」が根底から覆された。
それからは、悩んでばかりの毎日だった。胃薬が手放せなかった。自分たちの関係を受け入れられるようになったのは、ごく最近のことだ。指輪は、そのひとつの区切りなのかもしれない。
しかし、それをどうしてもすんなりと薬指にはめることができない。起き上がり、布団の上に指輪を置いて、唸った。なぜか。自問の答えはすぐに出た。これは、しるしなのだ。狭い部屋の中で、自分たちの世界だけで、キスをしたり肌を重ねたりするのとはわけが違う。名も知らぬ人も目にする、しるしなのだ。
訊ねるあてもなく問いかける。
気楽な学生の身分ならまだいい。社会に出たらどうなるのか。自分のパートナーを、胸をはって人に紹介できるだろうか。両親に何と話せばいいのだろうか。
よしんばその場はうまくいったとしても、十年後、二十年後は。
「いやいや、そんな先のことなんて」
言いながらも、その「先」が今歩いている道の延長線上にあることは、わかっているのだ。
「別に男が好きなわけじゃない、好きになったのがたまたま男だったんだ、ただそれだけだ」
そのことばを、何度心の中で繰り返したか知れない。
だがそれは、ほんとうに相手を思うゆえにでたことばだったのか。それを考えると、胸がきりと痛んだ。自分を守るための、免罪符ではなかったか。
「……寝よう」
絡まりきった思考を遮断し、明かりを消すと、布団にもぐりこんだ。二年間、幾度となく眠れぬ夜を過ごした経験上、行き詰まったときには寝るのが一番だと知っていた。
あいつだったら何というだろう。いや、決まっている。
またいつもの悪い癖。考えすぎだよ、真面目だねえ、と笑うだけだ。
気まぐれなところのある人間だ。勝手にこちらが振り回されているだけで、実際には、この贈り物にも大した意味などないのだろう。
目を閉じる前にもう一度、指輪をまじまじと眺めた。掌に収まるほどの、小さな銀の輝き。けれど、枕もとに置いたとき、それは叫ぶように、ことりと大きく鳴った。
次の朝、カーテンのすき間から差し込む、眩むような白い日の光にこじ開けられた寝ぼけ眼は、しかし間をおかず、冷水を浴びせられたように硬く緊張した。跳ねるように起き上がる。枕もとにあるはずの指輪が見当たらない。表情がさっと色を失った。動悸が激しくなる。落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせる。無くしたといっても、この部屋にあるはずなのだ。探せば必ず見つかる。
「ああもう、何でこんな汚いんだよ、この部屋は!」
自分で打った舌打ちに、余計に苛立ちが増す。ベッドの脇に積まれた雑誌の山をかきわけ、乱雑に散らばった服を放り投げる。頭が上へ下へと忙しなく動く。
「見つかる、見つかる、絶対見つかる!」
繰り返されることばは、まるで呪いだった。日本古来の言霊の力を信じているわけではない。だが、口にせずにはいられなかった。
「見つかる!」
脳裏に、たったひとりの顔が浮かぶ。なぜか照れくさくなって、思わず叫んだ。
「こんなときに笑うなばか!……あった」
ベッドの下の暗がりにかがやく、小さな光を見つけたとき、もう迷わなかった。それはすんなりと薬指におさまった。
深く、深く安堵の息をついた。それから、声を上げて笑った。昨日まで悶々と悩んでいた自分が間抜けに思えて仕方がなかった。笑いすぎて、目に涙があふれてきた。こんなことで泣くなんて、我ながら間抜けだった。自嘲しならがら、滲んだまなざしで、もう一度、薬指を見た。
ほら、考えすぎだって。朝日のなかで、あいつが笑っている気がした。
笑っているのに、どうしてか、泣いているような顔。
左手が、ふとひどく重たくなった。
それはきっと、これから待ち受ける、たくさんの苦しみと喜びの重みだった。