紫煙
 湿った古い畳のにおいに、肌に馴染んだ布団の感触。
 すぐ横に、人が息をする気配がある。
 ああ、これは夢かと思いながら、重い瞼をゆるゆるとあげると、薄暗がりに白い煙が漂っているのが見えた。
 隣の布団で俯せ寝になって煙草をふかす男に、何とはなしに呟いた。
「雨かな」
「降っとらんですよ」
「音が聞こえる気がする」
「気のせいですよ。月が出てるでしょう」
 言われてみれば、室内はほの明るい。乱雑に重ねられた本が、部屋のあちこちに山をつくっているのが目に映る。濡れたような空気に混じる鬱々としたものは、この夥しい量の書物にこびりついた黴と埃、それから紙に染みついた無数の手の垢から立ち上っているのだろう。
「虫干ししようか、明日にでも」
「梅雨が明けてからになさい。途中で雨に降られたらどうします」
「でも、こういうのは、思いついたときにぱっとやらないと。手伝ってくれるだろう?」
 声音に甘えを練りこむも、色よい返事はもらえない。
 艶めいたような月の光に胸が騒いで、ずる、ずると隣の布団に這い寄る。
「火い、危ないよ。僕の古い知り合いも、それで死んだ」
 そうですか、と気のない声がかえってくる。
 この男はいつもそうだ。
 己を抱くときはあんなに執拗なのに、事を終えると、ふっと火が消えたように冷たくなる。
 まるで娼妓と客ではないかと詰ったことがあったが、やることは同じでしょうと、つれなく言われた。
 素知らぬ顔で忠告を聞き流して、手は相変わらず灰皿と口を行きつ戻りつしている。
「ずいぶん長く床について、苦しみなさったそうだ」
 ぽつりと言うと、彼は小指の先ほど短くなった煙草を、抉るように灰皿に押しつけた。
「だいじょうぶですよ、先輩」
 かさついた大きな手が伸びてきて、子供にするみたいに、頭をぐしゃりと撫でた。
「俺は、とうに死んでおりますから」
「そうだったね」
 穏やかな男の言葉に、表情が和らいだ。
 そうだ、彼はとっくに死んでいる。
 死んでいるのなら、もう苦しむことも、悲しむこともない。
 誰にも、何にも奪われることはない。
「なら、安心だ。ぞんぶんに吸いなさい。……また明日」
 また明日。
 同じように彼の口から放たれた挨拶に安堵して、再び瞼を閉じる。
「おやすみなさい」
 頬に柔らかく触れたのは、指先か唇か。
 紫煙の絡みついた肌からは、しかし何のにおいもしない。
 心配性にもほどがある。
 子供じゃあないんだから、お前がいなくたって眠れるよ。
 閉じた瞼の端から、生温かいものが幾筋も幾筋も流れ落ちた。