電車から降りて五分も歩けば、駅の喧噪は遠くなる。ところどころ街灯の切れた住宅街の夜道は暗かったけれど、身体に回った酔いが快かったせいか、心は明るかった。
古賀尚也は途中立ち寄ったコンビニの袋をぶらぶらさせながら、機嫌よく鼻歌を歌った。久しぶりに会った仲間と話すのがあまりに楽しくて、調子に乗って飲み過ぎてしまったかもしれない。でも、たまにはいいよな、三月からずっと休みなく仕事詰めだったんだからと誰にともなく言い訳をする。
五月の下旬、目まぐるしい忙しさだった仕事もようやく落ち着いてきて、大学時代の友人と飲んだ帰り道だった。
大学を卒業して四年。同年代だけで集まって飲む機会は激減してしまったが、たまに会うといい刺激をもらえる。仕事でも私生活でも、業種は違えど皆似たような悩みを抱えていた。上司の愚痴や組織への不満、人間関係の悩み、結婚や将来のこと。次々とグラスを重ねながら話をしているうちに、すり減っていた気力が回復して、やる気がわいてきた。嫌なことも辛いことも多いけれど、自分も頑張ろうと思った。
自宅すぐ近くの公園にさしかかったところで、横からやや強い風が吹き付けた。
「……寒」
楽しい酒席の余韻は、夜風の冷たいひと撫でに邪魔されて消えてしまった。
夏も目前だとはいえ、深夜ともなれば冷え込む。薄手のコートを来てくればよかったと身をすくませていると、不意に公園の方から、きい、きいと金属が軋む音が聞こえてきた。風が吹いてはいるが、ブランコを押すほど強くはない。一瞬にして酔いが醒め、背中に緊張が走った。
この公園には、夜になると素行のよくない高校生がたむろしていることがある。目を合わせないように早足で通り過ぎようとしたとき、小さなすすり泣きが聞こえた気がして、古賀は思わず立ち止まった。
前に、後ろに、ゆっくりと揺れるブランコの上で、小さな影が俯いていた。
暗いから顔はよく見えないが、小学生くらいだろうか。
手元の時計を確認する。十一時五十五分。子供がひとりで出歩いていい時間ではない。
もしこれが普通の会社員であれば、何も見なかったことにして通り過ぎるか、ひとまず一一〇番をして後は警察に任せてしまうだろう。子供に声をかけただけで不審者扱いされるご時世だ。
だが、古賀は小学校の教師だった。この時間に出歩いている小学生、しかも泣いている子を無視することはできなかった。
掌に吹きかけた息が酒臭くないことを確認してから、ゆっくりと歩み寄った。
「こんにちは」
なるべく警戒心を与えないように、斜め前の方向から、膝を折って目線を同じ高さにして話しかけた。
「こんなところで何してるの?」
地面に吸いついていた顔がぱっと上がった。泣き声が聞こえたような気がしたのだが、目は赤くなっていなかったし、頬に涙の跡もなかった。それどころか、思い切り不審そうな顔をして古賀を見返してきた。予想外にきつい眼差しに、内心でたじろいだ。
「……あんた誰? 変態?」
冷めた口調で言われ、つい笑顔が強ばりそうになる。大勢の子供を相手にしている古賀は直感した。頭の回転が早くて口も達者。同級生より早熟で、教師から扱いにくいと思われているタイプの子供だ。
「僕は学校の先生だよ。知ってるかな? 線路の向こうにある第三小学校の」
「四年五組の担任だろ」
自分の担当しているクラスをぴたりと言い当てられて、古賀は驚いた。自宅から勤務先の小学校まで、かなりの距離があるからだ。子供の足ならゆうに四十分以上はかかる。
「もしかして、君、三小に通ってるの?」
「隣のクラスの生徒の名前も覚えてないわけ?」
少年は、馬鹿にしたように眉を上げた。
古賀はおぼろげな記憶を探った。
睨みつけてくる気の強そうな顔には、確かに見覚えがあった。いい印象、ではなかった気がする。
こちらをまるきり信頼していないことが伝わってくる大きな目に見つめられているうちに、過去と現在、二つの面影が突然重なった。四月の中頃、放課後に花壇を踏み荒らしているところに出くわして、きつく叱ったことがあったのだ。
花が可哀想だ、花にだって痛みがあるのだと、どれだけ諭しても絶対に謝らろうとしなかった強情な子供。
名前は確か……。
「本多くんだよね。本多晃くん」
「覚えてたんだ」
本多晃はちょっと驚いたようだった。態度はふてぶてしいのに、その仕草だけが妙に子供っぽい。
名前を呼ばれたことで、晃の表情がわずかに柔らかくなった。
「俺も、本当は先生の名前覚えてる。古賀先生」
晃は自信ありげに続けた。
「二十六歳独身。授業中によく舌をかむ。歌が下手。彼女はいない」
「……何でそんなこと知ってるの?」
「みんな言ってる。ふうん、ほんとに彼女いないんだ」
無邪気な顔をして、裏では何を言われているのかわかったものではない。小学生は怖いなと思いつつ、話をしているうちに二人の間にあったよそよそしさが徐々に解けていくのを感じて、古賀は尋ねた。
「ところで、君ひとりだけ?」
「そうだよ」
「親御さんは?」
「父親はいない。母親は仕事」
晃は事実だけを淡々と告げた。古賀は表情に出さずに、そうか、と相槌を打って、母子家庭という情報を頭に刻んだ。
「お兄さんかお姉さんは?」
「いないよ。弟も妹もいない。二人家族」
「お母さんは、いつも帰りが遅いの?」
「今日だけ。仕事で急に泊まることになったから、適当に食べて寝てろって電話があった。でも、家にいてもつまんないし」
「携帯は持ってる?」
「あるけど、家に忘れた」
「じゃあ、お母さんの職場の連絡先、知ってる?」
「わかんない。……わかんないよ。先生、いっぺんに質問しないでよ」
戸惑ったように懇願されて、古賀はしまったと思った。大人びた態度で強がってはいるが、晃は小学生なのだ。いつまでも帰ってこない母親を、誰もいない家で待つのは不安だったはずだ。だからきっと家を飛び出したのだ。
そう思ったとき、晃がくしゃみをした。半袖のTシャツにハーフパンツ、スニーカーに収まっているのは細い素足。長袖を着ている古賀でさえ時々身震いするくらいだというのに、そんな格好でいたらかなり寒いに違いなかった。
「とりあえず、どこか温かいところに」
立ち上がるよう促そうとして、手を取った。指先に触れた肌はひどく冷たかった。
ずいぶん長い時間、ひとりで夜の公園にいたのだろう。
心細かったろうに……。
そう思うと、胸がきりりと痛んだ。
数秒間考えてから、古賀は提案した。
「……とりあえず、僕の家に来るかい? すぐ近くだから」
晃は信じられないとでもいうように目を見張った。
「いいの?」
「もちろん」
でも、と晃は遠慮がちに目を伏せた。
「夜に人の家に行ったら、お母さんに怒られる。迷惑だって」
「大丈夫、迷惑じゃないよ。お母さんには僕から連絡しよう」
そう言って安心させると、晃は少し考えてから、素直についてきた。
部屋に上がったとたん、晃は借りてきた猫のようにおとなしくなってしまったが、好奇心に負けたのか、すぐに物珍しそうにあたりをきょろきょろ見回しはじめた。
とはいえ、ごく一般的な独身男の、ごく普通の狭い部屋だ。子供が興味を引かれそうなものは何もない。
電子レンジで温めた牛乳を少しずつ舐めるように飲みながら、晃は感慨深そうに言った。
「大人の家ってはじめて入った」
大人の家という言い回しが妙におかしくて、つい笑ってしまった。
「でもさ、先生んち汚いね。ちゃんと掃除しろ、整理整頓しろっていつもうるさいのに」
「普段はもっときれいにしてるんだよ」
つい言い訳がましいことを口にしてから、子供相手に何を言っているんだと後悔した。横目でちらと自室を見れば、確かに客観的に見て汚い。適当に畳んだ洗濯物と書籍類が床を埋め、流しには汚れ物が溜まっている。新学期が始まってからあまりに仕事が忙しすぎて、ろくろく掃除も自炊もしていない。
「……うん、人に言う前に、先生もちゃんと掃除しないとな」
そう言いつつ、床に放ってあったビールの缶をさりげなくゴミ袋に入れる。
「そうだよ」
窘めるように言ってから、晃はふと何かに気づいたように上を見て、鼻をひくつかせた。
「何か、煙草くさい。古賀先生、煙草吸うの?」
古賀は慌てて立ち上がり、換気扇の下においてあった灰皿を片づけた。
「煙草は身体に悪いって授業で言ってたよね? 掃除もしてないし、先生のくせに嘘ばっかり」
「煙草が身体に悪いって言うのは、嘘ではないよ」
「じゃあ、何で吸ってんの?」
「何でだろうね……」
言葉尻が萎んでいくのがわかって、我ながら情けなかった。
普段は滅多に吸わないが、仕事が忙しかったり、私生活がうまくいってなかったりすると、無性に吸いたくなることがある。
汚れた部屋にたまにしか吸わない煙草。何もかも間が悪い。
がっくりと落ち込んだ気分を隠して、古賀は明るく言った。
「そうだ、身体冷えてるだろ。風呂入るか? ユニットバスだけど」
「ユニットバスって何?」
「お風呂とトイレが合体してるんだよ」
「何それ?」
「入るなら、こっちにおいで。使い方を教えてあげるから」
古賀からシャワーの使い方について説明を受けると、晃はさっさと服を脱ぎ捨て、喜々として風呂場に飛び込んだ。はじめてみるユニットバスに興味津々の様子だったから、しばらくは出てこないだろう。
「タオル、ここに置いておくからね」
声をかけながら、畳んだバスタオルを浴室のドアの前に置いた。ひとりなった古賀は、さて、と深く溜息をついた。
どんな状況であれ、生徒を自宅に上げるのはよくない。そんなことは重々承知している。だが送っていったとしても家には誰もいないようだし、防犯面からいっても感情的にも、十歳の子供を一晩ひとりにすることはできなかった。
何より、あの冷たい手足を一刻も早く温めてやらなければ、そんな衝動に襲われたのだ。
自分がとった選択を、後悔する気持ちはない。
晃が風呂に入っている間に関係先に連絡をしておこうと、古賀は職場の住所録を引っ張り出し、晃の担任である荒木に電話をかけた。時間が時間だったので電話をするのは気が引けたが、数回目のコールに応じた声ははっきりとしていて、幸いにもまだ床にはついていなかったようだった。
「おや、古賀先生じゃないか。こんな時間にどうした?」
古賀は経緯を簡単に説明した。
状況が明らかになっていくにつれて、快活であった荒木の声の調子は段々と沈んでいった。
「今さらこんなことを言うのはあれだが、家に上げたのは、やっぱりまずかったんじゃないか?」
「しかし、たとえ家まで送り届けたとしても、この時間にひとりでいさせるのは問題があると思いまして……」
「まあ、それはそうなんだが」
煮えきれない言葉の端々から、責められるような響きを感じる。
青二才が余計な真似をするな、と無言でなじられている気分だった。
「俺の家が嫌なら、あんたが迎えに来ればいい。自分の教え子だろう!」
そう叫びたいのをぐっと堪えた。
荒木はベテランの男性教師で、喋りも授業も面白いので生徒に人気があり、保護者からの信頼も篤かった。
ただ、同僚としては少々頼りないところがあった。何か問題が起こると、とたんに逃げ腰になるのだ。定年まであと三年、再就職に響くのを懸念しているのだろう。
「先生の家に迎えに行くように、保護者には俺から連絡しておくよ」
そう告げる声は、心底面倒臭そうだ。自分の保身しか考えていない荒木の態度に苛立ちを覚えながら、古賀は続けた。
「今晩はうちに泊めようと思うんです。実は晃君、もう寝てしまっていて。時間も時間ですし、起こしてしまうのも可哀想かと……」
嘘をつくことに、罪悪感はなかった。
「でも、いいのか?」
「僕は構いませんよ。もちろんお母様が了承なさるならの話ですが」
「わかったよ」
荒木は大きく溜息をついて、通話を終えた。
その後すぐに、晃の母親と連絡が取れた、明朝迎えに行くそうだからそれまで預かっていてくれと折り返しの電話があった。
だが結局、母親の連絡先は教えてもらえなかった。保護者に連絡するのは、必ず担任である荒木を通して。個人情報の関係もあるけれど、それが「筋を通すやり方」なのだそうだ。
くだらないと思う。働き始めてから、仕事そのものよりも、教師同士の人間関係にやりにくさを感じていた。自分がもう少し経験を積んだら、そんな馬鹿らしい慣習など変えてやる。
「先生、何怒ってんの?」
頭に血が上っていたのか、いつの間にか晃が風呂から出ていたのにも気づかなかった。濡れた髪を乾かす手を止めて、不安そうな眼差しを向けてくる。
「俺、怒られるようなことした?」
「違う違う。怒ってないよ」
慌てて携帯をポケットにしまいこんだ。
「本多君、今日は泊まっていきなさい」
「でも……」
「お母さんには荒木先生が連絡してくれたから」
「お母さんに?」
「うん、明日の朝に迎えに来てくれるって」
晃はほっとしたような顔をした。
「じゃあ泊まる。お母さん、帰ったときに俺が家にいなかったら、たぶん泣くから。すぐ泣くんだ」
「お母さんと仲がいいんだね」
「別に。普通」
そのとたん、ぐう、と大きな音が鳴った。晃はきょとんとしていたが、鳴ったのが自分の腹だと気づいて、みるみる耳まで赤くなった。
「もしかして、夕飯食べてないの?」
晃は恥ずかしそうに頷いた。
古賀は迷った。
こんな時間に子供にものを食べさせるべきではないのだが、捨てられた子犬のように俯いている晃に、朝まで何も食うなというのは酷だろうと思った。
しかしタイミングが悪いことに、冷蔵庫の中はほとんど空だった。そのときふと、テーブルに置いたまま、すっかり忘れていたコンビニの袋の存在を思い出した。
「……プリン食べる?」
「うん!」
古賀が差し出したプリンを、晃はあっという間に平らげてしまった。
「全部食べちゃったけど、先生の分は?」
最後のひとくちを大切そうに味わってから、あ、と晃は声を上げた。
「僕はいいんだよ。ダイエット中なんだ」
「そういえば、最近ちょっと太ったなあって思ってた」
正直な言葉が胸にぐさりと刺さった。そっと腕の肉をつまむ。ここしばらく体重など計っていないが、不摂生な生活が続いているので、確かに至るところに肉が付いてきた気がする。元々どちらかと言えば痩身だったから、油断していた。
そのとき、プリンの甘いにおいがする口から、頼りない欠伸が漏れた。
「そろそろ寝ようか。待って、布団を敷くから。歯、みがいておいで。洗面所に新しい歯ブラシが置いてあるだろ? そう、それ使って」
「開けていいの」
「うん、お客さん用だから」
「俺、お客さん?」
「大事な大事なお客さんだよ」
とっさに思いついた出任せであったが、お客さん用、という一言に特別なものを感じたのか、晃の目は誇らしげに輝いていた。
普段使っている布団一式は晃に譲った。自分は晃が寝たあとに、適当に場所を作って寝ればいい。
歯磨きを終えて横になった晃は、掛布団を鼻のあたりまで引き上げた。
「電気消そうか?」
「ううん。真っ暗なの恐いからいい。……先生、この布団」
「え、臭う?」
「酒と煙草くさい」
最後に布団を干したのはいつだっただろうか。
決まり悪さを覚えた古賀を後目に、晃はどこか嬉しそうだった。
「大人のにおいだ」
晃は古賀の方にくるりと向き直った。
「先生、いい人だね。プリンくれたし」
古賀は苦笑した。大人が思っている以上に、プリンの効果は計り知れないようだった。
「この間怒られたときは嫌なやつって思ったけど」
「怒られたって、花壇で?」
「そう」
あのときは我が強くて生意気な子供だと思っていたのに、この一時間でずいぶん印象が変わった。
晃は同じ年頃の子供よりも遠慮深い。さっきも腹が減っているはずなのに、自分から何か食べたいとは言わなかったし、古賀の分のプリンがないことを気にしてくれた。それに、きちんと躾られているのだろうか。食べるときも、着替えるときも、ひとつひとつの動作に乱暴さがない。
だから余計に、花壇を荒らした子供と、今すぐ横にいる子供の姿が重ならなくて、違和感を覚えた。
思い切って晃に聞いてみた。
「あのとき、どうして花壇になんか入ったの?」
少しの沈黙を置いて、晃は渋々という風に語り始めた。
「ハンカチが落ちてたんだ」
「ハンカチ?」
「うん。うちのクラスに田村って馬鹿がいるんだけどさ、女子のハンカチ取って、窓から落としたんだよね。花壇でそれ見つけたんだ」
「友達のことを馬鹿呼ばわりしちゃだめだよ」
「友達じゃないよ。年が同じだけの他人だよ」
晃は冷たく言った。建前を現実的に否定されて、返答に窮した。
「だから花壇に入ったの? ハンカチを取るために」
「うん。俺は悪いことしてない。だから謝らなかった」
「でも、踏みつぶされたパンジーが可哀想じゃないか。せっかくきれいに咲いていたのに」
「花は泣かないけど、ハンカチ投げられてたやつは泣いてたよ。ハンカチ返してやったら、嬉しそうにしてた。先生は人間より花の方が大事なの?」
「……人間も大切だし、花も大切だと思うよ」
「花は泣かないし、喜ばないし、心もないのに?」
「花にだって心はあるかもしれないよ」
「でも、人間のカンジョウは脳みそで生まれるんだってテレビで言ってたよ。花には脳みそないじゃん」
晃は怪訝そうに言った。真実を突かれて、古賀は内心でうなった。この子供の言葉には、大人を追いつめる鋭さがある。
「とりあえず、そういうときは先生に一度相談しなさい」
「先生なら、花を踏みつぶさないでハンカチとれたの?」
花壇の構造を思い浮かべてみる。
冬ならともなく、今の時期はかなり隙間なく草花が植えられていて、足の踏み場はないかもしれない。
どれだけ頭をひねっても、苦し紛れの台詞しか出てこなかった。
「二人で考えればいいアイディアが浮かぶかもしれないよ」
我ながら説得力のない意見だと思いつつ、はっと大切なことを思い出した。
「そういえば、まだ謝っていなかったね。ごめんな。君の話も聞かずに叱ったりして」
晃は驚いたように大きく目を見張った。それから、盛大に吹き出した。
「……俺、笑われるようなこと言ったかな?」
「先生、変な人だね。俺、大人にごめんなんて言われたことない」
何が面白かったのか、晃はしばらくひとりで楽しそうに笑っていた。久しぶりに米でも炊こうと古賀が流しに向かっている間に、笑い声は穏やかな寝息に変わっていた。
あどけない寝顔を見ていると、自然と笑みがこぼれてしまう。そのうち眠気が移ってしまったのか、目を開けているのが辛くなってきた。風呂には明日入ればいいと、鞄やら雑誌やらを端に寄せて寝るためのスペースを作る。狭くて窮屈だったが、足を抱えるようにしてどうにか身体を収めた。
隣にいる晃が熟睡しているのを確認してから、古賀は天井に視線を移した。不規則に歪んだ木目は、よく目を凝らせば人の顔に見えなくもない。自分が晃くらいの年であれば、お化けみたいだと怯えていたかもしれなかった。
普段は横になるときにはもう電気を消しているから、天井の模様なんて注意して見たことはなかった。このアパートに越してきて二年になるが、はじめて目にしたように新鮮に見える。
ごそごそと小動物のように身体をよじらせて、晃が寝返りを打った。石鹸のにおいがほのかに漂ってくる。どこも触れ合ってはいないのに、すぐ側に感じる人肌の気配が心を温かくしてくれた。誰かの寝息を聞きながら寝るのは久しぶりだった。仕事にかまけて忘れていたが、就職した年、大学時代に付き合っていた彼女と別れてからもう三年が経っていた。
もしかして、自分はずっと寂しかったのだろうか?
そんな感傷が、なぜか胸に急にこみ上げてきた。
ひとりでいるときならともかく、隣に人がいるときにそんな気持ちを抱くなんて変な話だが。
とりとめもなく考えているうちに、天井の模様が次第にぼやけてきた。そうして、いつの間にか古賀も眠りについていた。
「先生、ご迷惑をおかけして本当に本当に申し訳ございませんでした。……ほら、あんたも!」
翌朝迎えに来た母親は、息子の頭を強引に押さえつけた。ぎゅうぎゅうと押してくる母親の掌の下で、晃は不機嫌そうに唇を尖らせていた。
ドアを開けて応対したその瞬間から、こちらが申し訳ないと思うぐらいに、何度も何度も頭を下げられた。古賀が止めなければ土下座しそうな勢いだった。
晃の母親は、三十代後半くらいだろうか。化粧っ気がなくて、人の良さそうな女性だった。
高齢者の介護施設で働いているそうなのだが、ちょうど夜勤の職員と交代する時間帯に起こった入居者同士のトラブルが警察沙汰にまで発展してしまい、帰れなくなったのだと説明した。
古賀は事前に集めておいた資料を手渡した。
「もうご存じかもしれませんが、夜間に託児を行っている行政の施設もありますので」
母親はご丁寧にありがとうございますと恐縮しながら、資料を受け取った。
「今後は、決してこのようなことがないようにしますので……」
昨夜電話連絡をしたときに、母子家庭ではあるが、特別問題のある親ではないと荒木から聞いていた。だが事なかれ主義の荒木のことだから、たとえ問題があったとしてもないものとして報告を上げているのではないかと、半分疑ってかかっていた。
けれど実際に対面してみて、荒木の言葉に嘘がないことはよくわかった。話しぶりは誠実そのものだし、対応もしっかりしている。もちろん、初対面の印象だけで決めてしまうことはできないのだが。
帰宅する前、母親に頼んで二人だけにしてもらい、晃にこっそりと耳打ちをした。
「僕のところに泊まったことは、誰にも言っちゃだめだよ」
「どうして?」
晃は不思議そうな顔をしていた。
「ほら、僕の家は狭いだろう? だから遊びに来てもらっても、ひとりしか入れない。それに、大勢にプリンをご馳走してあげられるほど、お金持ちじゃないからね」
「そうだね。先生お金なさそうだし」
大人の勝手な嘘を、晃は信じたようだった。胸が痛んだが、晃を家に泊めたという話が人に知られるのはどうしても避けたかった。生徒からその親へ、悪意ある尾ひれの付いた噂が広まれば、晃や母親に迷惑がかかるかもしれなかった。
「僕たちだけの秘密だ。約束してくれる?」
晃は少しだけ顔を赤くして、こくりと頷いた。昨晩の警戒心が嘘みたいな素直さだった。
「うん、わかった。誰にも言わない。先生と俺だけの秘密」
指切りげんまんをして、別れ際、古賀は笑いかけた。
「またおいで」
母親に手を引かれた晃は、曲がり角で姿が見えなくなるまで、名残惜しそうにこちらを見つめていた。
二人がいなくなってからしばらくしても、不躾なほど一途に視線を注いでくる、あの眼差しが忘れられなかった。
だからその後、もしかしてまた母親の帰りが遅くなって、また自分を頼って来ることがあるかもしれないと、布団を干したり、部屋をきれいに掃除したりと、何となく迎える準備をしていたのだが、晃がアパートにやってくることはなかった。
家庭訪問に行った荒木によれば、あれから母親の帰りが深夜に及ぶようなこともなく、晃の心身も落ち着いていて、特別問題はなさそうだということだった。
クラスが別なので、晃と直接話す機会はなかった。それどころか、校内で顔を合わせることがあってもわざとらしく無視された。懐いてくれている気がしたので、晃のこの掌を返したような態度は少々こたえた。
だが、子供というのはそんなものだ。興味があるものに対して注ぐエネルギーはもの凄いが、感情の持続力がないため飽きるのも早い。
そのうち梅雨が明けた。夏休みがすぐ目の前に迫る頃にはまた仕事で忙殺されるようになり、晃の件は少しずつ心の隅に押しやられていった。掃除も段々と怠けがちになって、終業式の前後には元の汚い部屋に戻っていた。
駅前で買い物をした帰り、家の前に小さな姿がぽつんと立っているのを見つけたのは、夏休みに入って最初の土曜日の午後だった。ガスレンジに置きっぱなしにしている灰皿からは、吸い殻があふれそうになっていた。