8月31日
後編
 八月三十一日は台風の影響で、夕方から激しい雨になった。
 勤務先の小学校は九月の初日から二学期がはじまる。生徒を迎える準備に見切りをつけたときには、すでに時計は夜の十一時を回っていた。
 校門を出たとたん、風雨にしつこく嬲られていた街路樹がひときわ大きくしなった。ビニール傘を弾く雨粒の数は一番ひどいときよりだいぶ少なくなっていたけれど、風は依然として強く、意識して傘の下に身体を収めないと途端にずぶ濡れになってしまう。嫌がらせのように速度が遅い台風だ。
「本当、勘弁してくれよ」
 古賀は軽く嘆息して、小走りで帰りを急いだ。とにかく少しでも寝たくて、コンビニにも寄らなかった。新学期早々、教え子たちに覇気のない顔を見せるのはどうしても嫌だった。
 普段なら家から学校まで自転車で十分程度の距離なのに、徒歩のため三倍以上の時間がかかってしまった。
 ようやく公園の入り口にたどり着いた頃には、服に下着に靴下まで、身につけたありとあらゆる衣類が雨を吸い込んで、帰宅を阻む重しのようになっていた。不快さと疲労は頂点に達していた。早くシャワーを浴びたい、布団に飛び込みたい、頭の中はその二つでいっぱいだった。
 そのとき、ふと急に違和感を覚えて古賀は顎を上げた。
「ん?」
 雨音に混じって、金属が寂しく軋む音が聞こえた気がした。嵐の夜だ。当然ながら公園に人気はない。空耳か、でなければブランコが強風に煽られているのだろう。
 ……まさか、彼がいるわけがない。
 そう思うのに、無視することができなかった。
 予感は的中した。ブランコの上に見知った小さな人影を見とめるなり、古賀は全速力で駆けだしていた。
「本多くん!」
「先生、遅かったね」
 軽やかにブランコから飛び降りた晃は、古賀を見てぱっと表情を明るくした。八月の下旬は帰りがかなり遅くなるのだと、事前に話していなかったことを激しく後悔した。子供に大人の道理は通用しないのに、平日だから家には来ないだろうと思いこんでいたのだ。
「何やってるんだ、こんな遅くに?」
「最初はアパートの前で待ってたんだ。でも、知らないおばさんがしつこく名前とか聞いてくるから、逃げちゃった」
 晃は屈託なく笑った。
 知らないおばさんとは、恐らく大家の女性だろう。古賀が小学校の教師をしていることは知っているはずだが、あとで晃のことを説明しておかなければ変に勘ぐられるかもしれない。
 古賀は晃の手を取った。
「とりあえず、話はあとだ。うちで身体を拭いていきなさい。ずぶ濡れじゃないか」
 部屋に入ってすぐに、古賀は洗濯物の山から引ったくったバスタオルを晃の頭にかぶせ、がしがしと手荒くこすった。
「ひとりで拭けるってば。先生も着替えたら? びしょびしょだよ」
「後でいい」
 晃はタオルの下から、上目遣いでそっと見つめてきた。
「……怒ってる?」
「当たり前だ。君がここに来るってこと、ご家族は知ってるのか」
「知ってるわけないじゃん」
 あっさりと否定すると、晃は古賀が聞きたかったことを自分から答えた。
「先生が得意ないつもの質問でしょ? お母さんは残業、おじさんは会社の飲み会で遅くなるんだってさ。さっき電話があった」
 どこか投げやりな台詞に、既視感を覚えた。夜の公園にブランコ。はじめて晃と出会ったときとよく似た状況だ。
 家にひとり残されて、またあのときと同じように寂しくなってしまったのだろうか?
 晃はくすくす笑いながら、手渡された古賀のTシャツに腕を通した。
「先生の服、よれよれだね」
 しかし、無邪気に古賀の服で遊ぶ晃に、あの夜のような思い詰めた様子は全く感じられなかった。
 一端安堵はしたものの、ここで許して夜歩きが習慣になってはいけない。古賀は教師の面を強く押し出して、わざと厳しい声音を作った。
「こんな時間に外を出歩いたら危ないだろう? もし何かあれば、僕の携帯に電話してくれれば……」
「先生にどうしても会いたかったんだ。夏休みが終わる前に」
 重大な秘密を打ち明けるように言うので、叱責は喉を通過する前に勢いを失って引っ込んでしまった。
 晃はそれまで大切そうに抱えていた、何重にもビニールを巻いた包みを剥がしていった。
「濡れてないかな?」
 最後の一枚を取り払うと、中からきれいに折り畳まれた模造紙が出てきた。晃は頬を紅潮させて丁寧にそれを開いた。
「それ、もしかして」
「自由研究だよ。他の宿題は夏休みがはじまってからすぐに終わっちゃったけど、これは今日やっとできた。古賀先生に一番に見せたかったんだ。どうしても」
「……僕に?」
「うん!」
 きらきらと輝く目を向けられて、胸にこみあげてくるものを堪えきれなくなった。とっさに熱くなった目頭を押さえる。急に黙り込んでしまった古賀を、晃が気遣わしげに覗いてきた。
「先生、目にゴミ入ったの?」
「あ、ああ。大丈夫、すぐに取れるから……」
 教職は精神的にも肉体的にもきつい仕事で、もう限界だ、もう辞めようと思ったことは何度もある。でも不意打ちのようにこういった嬉しい出来事があるから、辛くても苦しくてもしがみついてしまうのだ。
「取れた取れた。もう平気だよ」
 目のゴミを取るふりをしてから、古賀は晃に笑いかけた。
「見せてもらってもいい?」
「いいけど、俺、後ろ向いてる」
 恥ずかしそうに壁のほうを向いた晃の後ろで、古賀はじっくりと自由研究に目を通した。
 テーマは、人の脳の働きについてだった。よく調べられているし、具体例やイラストをうまく利用してわかりやすくまとまっている。大学生のレポートでも、これほどうまく書けないだろう。誰かに何かを伝えたい、そんな思いが素直に伝わってくる力作だった。
「すごいな、よくできている」
 それまで緊張した面もちで背中を強ばらせていた晃が、くるりと振り返った。
「お世辞じゃなくて?」
「何でお世辞を言う必要があるんだ? すごいよ、本当に」
「本当に本当?」
「本当だって」
「嘘じゃない?」
「何度も言わせるなよ」
「やった!」
「こら、ジャンプしない! 近所迷惑だろ!」
 手放しの賞賛を受けて、晃は珍しくはしゃいでいた。
 学校で出された宿題はやってくるのが当然で、やらなければ叱られる類のものだ。でもきっと、晃は褒めて欲しかったのだ。
 古賀はそう確信し、晃の自由研究を何度もじっくりと読み込んで、ここが素晴らしい、よく工夫されていると、思いつく限りの言葉で晃を褒めた。
「うん、そうなんだ。ここ、言葉で説明するの難しかったから、絵にしてみたんだよ」
 晃は興奮に顔を赤くして、苦労したところや頑張ったところを一生懸命説明してくれた。
 「おじさん」は、ものを与えてくれはしても、彼の能力を認めて、精神的に満たしてくれる存在ではないのだろう。ふと、そんな仄暗い優越感を抱きそうになり、慌てて打ち消した。
 古賀は尋ねた。
「どうしてこんなに難しいテーマを選んだの?」
「お母さん、たまに怪我して帰ってくるんだ。やったの、たぶん施設の爺ちゃん婆ちゃんだと思う」
 考え込むように一呼吸おいてから、晃はゆっくりと言葉を選んだ。
「でも、皆いい人なんだってお母さんは言ってた。ただ、ちょっと病気なんだって。だけど病気になったからって、いい人が殴ったりするのかなって、ずっと不思議だった。そしたら、先生のところで読んだ本に、脳の病気で性格が変わった人の話が載ってて……それでくわしく調べてみようと思ったんだ」
「病気のこと、納得できた?」
「わかったこともあるけど、全部はできてない。これからもいっぱい本を読んで、調べてみる。原因がわかれば、お母さんが怪我することもなくなるかもしれないから」
 口調も眼差しも、真剣そのものだった。怪我をしてくる母親が心配でたまらないのだろう。
 晃は母親から愛されていないと悩んでいた。でも自分で気付かないだけで、思いやりも愛情もちゃんと受け取っているじゃないか。
 それが嬉しくて、同時にやりきれなかった。晃が求めているものはすぐ目の前にあるのに……。
 もどかしさがこみ上げてきて、古賀は思い切って提案した。
「……だったら、僕も手伝うよ」
「先生が?」
 荒木の言うとおり、教師にできることは多くはない。だが、たとえささやかなものであっても、晃の助けになりたいと思った。
「二人で研究すれば、二倍色々なことがわかると思うよ。それぞれ調べたものを、時々報告しあうようにしようか? もちろん、君が嫌でなければだけれど……」
 言い終える前に、晃が首根っこにすがりついてきた。
「先生、ありがとう!」
 ほとんど体当たりといっていい遠慮のなさで、ぎゅうぎゅうと強く抱きしめられる。
 教師をしているとはいえ、こんなにも率直に好意を向けられた経験はほとんどなかった。面映ゆさで心がくすぐったくなり、足下からふわふわと浮ついたような気分になった。
「本多くん、ちょっと苦しいよ」
 笑いながら言うと晃はさらに身を寄せてきて、内緒話でもするように耳打ちしてきた。
「先生、ペロペロしてあげようか」
「ペロペロ?」
「うん、いつもおじさんとしてる遊び」
 あれほど難しい研究をまとめあげることができるのに、いやに子供っぽい遊びをするんだなと苦笑した。
 実際の年齢よりもはるかに幼い部分と大人びた部分が、晃の中にはアンバランスに同居している。子供にはよくあることだが、晃の場合は特にそれが顕著だった。
「どんな遊びなの?」
「好きな人とだけする、秘密の遊びなんだって。先生も他の人に言っちゃだめだよ」
 あとから考えれば、この時点でおかしいと思うべきだった。だがこのときは、心を開いてくれたことへの嬉しさと、どこか秘密めいた空気に完全に酔っていた。
 わずかに開いた窓からぬるい微風が入り込んできて、二人の間に流れた。雨を含んだ夜風は濃厚で、どこか艶めかしい気だるさがあった。夏の雨は、草いきれを掌に集めたようなにおいがする。
 湿っぽい風に意識を奪われていたほんの一瞬の間に、膝立ちした晃の顔がすぐ眼前に迫っていた。
 こちらを真正面から見つめてくる澄んだ瞳、産毛の生えたなめらかな頬。ふっくらと血色のいい唇、武骨なふくらみのない細い喉。すべてが清潔で、何てきれいな顔だろうと思った。吸い寄せられたように、目を離すことができずにいた。
 熱の籠った掌が頬に触れた。子供の手というのは、大人の手をただ小さくしただけではなかった。他人行儀に触れてくる成年のそれよりも肉感的で、恐いくらいに嘘がなかった。
 ぷつりと泡が弾けたような音がして、阿呆みたいに半ば開いた唇はたやすく塞がれてしまった。思考は完全に麻痺していた。服ごしに伝わってくるほどお互い全身汗でぐっしょりなのに、唇だけが乾いていた。それが逆に生々しかった。
 舌先の柔らかな感触がぎこちなく唇をなめる。溶けかけたアイスのついた指を舐め取るように、夢中で舌を動かしてくる。自分が快感を得ようなんて全く考えていない、純粋に与えることだけを目的とした無垢な行為。不意打ちで食らった口づけに打ちのめされて、凶暴な衝撃が下から強烈に突き上げてきた。
 口を合わせたまま、馴れた手つきで下腹部をまさぐれた。すぐ目の前に待ち受ける、途方もない快楽の予感に背筋が震えた。離れた頭が足の間に沈む。下着に指がかかる。もう数秒すれば、小さな唇がそれに届く。
 きっと「おじさん」にそうしたように……。
 その瞬間、我に返った。
「何するんだ!」
 気づいたときには、晃の肩を突き飛ばしていた。テーブルの脚の近くで、か細いうめき声がした。晃はテーブルの角に背中を打ち付けたようだった。
 とんでもないことをしてしまった。どっと汗が噴き出して、膝頭ががくがくと震えた。足がもつれて、すぐに立ち上がることができない。
「ご、ごめん。怪我はない?」
 四つん這いになって近づくと、晃は怯えたように退いた。
「俺、先生に喜んでもらおうと思って……」
 やっと聞き取れるくらいの声で言って、呆然と古賀を凝視した。大きく見開かれた目にあるのは怒りでも悲しみでもなく、混じりけのない驚愕だけだった。
「だめだ、こんなことしちゃいけない」
 言葉の端々がみじめたらしく震えた。早すぎる鼓動が邪魔をして、うまく喋ることができなかった。
「だめだ、絶対にだめだ……」
 硬直した晃の顔が、みるみる血の気を失っていった。
「おじさんは、だめなことしてるの? 俺にだめなこと教えたの?」
「そうだ。君も嫌だったろう?」
 晃は左右に激しく首を振った。
「嫌じゃない。最初のとき以外は、俺は自分からやろうって言った。楽しかったし、おじさんが喜んでくれるのが嬉しかったから」
 拙い言葉を尽くして、晃は懸命に男を庇い続けた。
 だが、いくら言っても古賀が何の反応も示さないので、焦燥は徐々に怒りへと変わっていった。
「どうしてわかんないんだよ。おじさんはいい人だよ!」
 晃はほとんど叫ぶように言って、飛びかかってきた。「おじさん」がどんなにいい人か、すがりついて必死に訴えてくる。しかし古賀の表情が強ばったままなのに気付いたとたん、見上げる目に涙が溢れていった。
「お母さんと同じくらい好きだって……俺を愛してるって言ってくれた!」
 古賀は黙って晃の顔を自分の胸に押しつけた。白いシャツに涙の生温かい染みが広がっていく。泣きじゃくる姿があまりにも哀れで、耐えきれず目を逸らした。
「嘘なの? 全部、嘘だったの?」
「それは……」
 その男は子供の寂しさをいいように利用して、自分の性欲を満たしていただけだ。そんな醜悪なものを愛などと呼びたくはなかった。
 だが、と古賀は身震いした。
 愛情に飢えている少年に向かって、お前は愛されてなどいない、これは愛なんかじゃないと告げることは、どうしてもできなかった。
 それを口にしたとたん、晃は壊れてしまうかもしれない。
「……おじさんのやり方は間違っている」
 長い沈黙の助けを借りても、底の浅い台詞を言うのがやっとだった。晃は古賀の手を力任せに弾き、全身で拒絶するように壁際まで後ずさりした。
「間違ってる? じゃあ、何が正しいの? どうすればよかったの?」
「おじさんが君にしたことは、暴力のひとつだ」
「俺は殴られてない。どこも怪我なんかしてない」
「殴ったり、身体に怪我をさせたりするだけが暴力じゃない。相手を思い通りにさせたいと思うのも暴力の一種なんだよ」
 耳障りな正論が、口のあたりを甘ったるく漂う。
 古賀は震える拳を握りなおした。
 違う、こんなことを言いたいんじゃない。
 こんな陳腐な台詞でなくて、もっと晃の心に届くような言葉を……。
「ほ、本当の愛情っていうのは、自分の気持ちを押しつけるだけじゃなくて、相手のためを思って……」
「おじさんはいつも俺のことを考えてくれてたよ。ゲームも自転車も買ってくれた。遊園地にも連れて行ってくれた。……先生はいつも口だけで、何もくれなかったじゃないか!」
 横っ面をハンマーで殴られたような衝撃を受けて、頭が真っ白になった。信頼とか、思い出とか、今まで二人で積み上げてきたものが一瞬で消え失せた。
 茫然自失となった古賀の隙をついて、晃はテーブルの上にあった自由研究を鷲掴みにした。そして唖然とする古賀の目の前で、見せしめのように引き裂いた。大判の模造紙は瞬く間にただの紙屑になった。
 晃はもう泣いてはいなかった。床いっぱいに広がったゴミに冷たい一瞥をくれると、ドアに向かって駆けだした。
「待ちなさい!」
 古賀も晃を追いかけて外に出た。階段を降りきったところで、晃はちょうど居合わせた女にぶつかった。アパートの電灯が、ぐったりと疲れ切った顔を照らし出した。
「……晃なの?」
 暗がりに目を凝らして確かめてから、母親は息子の腕を掴んだ。ずっと晃を探し回っていたのだろう。雨に濡れた服がべっとりと身体に張り付き、ひとつに結んでいた髪は乱れて解けかかっていた。
「やっぱり先生のところだったの! 家にもいないし携帯にも出ないし……心配したのよ、馬鹿!」
 叱り飛ばしてから目を潤ませて、晃の身体を力いっぱい抱きしめた。
「本当に、心配したんだから」
 古賀はよろめく身体を階段の手すりに預けながら、晃の母親に声をかけた。
「本多さん……」
「先生!」
 晃しか目に入っていない様子だった母親は、ようやく古賀の存在に気付いたようで、はっとして顔を上げた。
「また息子がご迷惑をおかけしまして……。本当にもう、何とお詫び申し上げたら」
 それまで俯いていた晃は母親を無言で押しのけて、大人たちには目もくれずアパートの敷地外へ飛び出した。
 母親は慌てて後を追った。
「ちょっと、待ちなさい! すみません、ご挨拶は改めて……晃!」
 二人の背中は、あっという間に街灯の光を外れて夜に飲み込まれてしまった。
 後には静寂だけが残された。ほどなくして、やみかけた雨の勢いが再び強くなった。アパートの住人が不審者を見る目つきで前を通り過ぎても、古賀は長い時間、そこから動くことができずにいた。

 翌日、晃は学校に来なかった。職員室で荒木にさりげなく探りを入れると、夏風邪をこじらせてしばらく休むとの連絡が母親からあったそうだ。
 始業式が引けて子供たちが帰った後、古賀は意を決して、人気のない家庭科室に荒木を呼びだした。一か月以上使われていなかった教室は、埃っぽくてどこか樟脳くさかった。
 晃が母親の恋人から虐待を受けている可能性があることを告げると、荒木は大きくため息をついて、渋面をつくった。無造作に投げ出された指が、ステンレスの作業台を神経質そうに叩いた。
「はっきりとした証拠があるのか?」
「本人から聞きました。間違いないと思います」
「しかしな、子供は嘘をつくもんだ。それだけじゃ証拠にはならないよ。事件化すれば、警察も介入してくる。もし冤罪だったらどうする? 単なる勘違いで、ひとつの家庭が崩壊するかもしれないんだぞ。そのときは古賀先生、どう責任をとるつもりだ?」
「それは、警察と連携して慎重に……」
「まあ、まだ新学期がはじまったばかりだ。焦ることはない。少し様子を見ようじゃないか、な?」
 嫌らしい笑いが荒木の口元に漂った。苛立ちよりももっと激しい、どす黒い感情が込みあげてきた。
 こいつは何で笑っていられるんだ? 今このときも、晃があの男に何をされているかわからないのに……。
 もう結構ですと強引に話を切り上げた古賀は、その足で教頭室に向かった。
 教頭は、物腰は穏やかだが辣腕で知られた人物だった。ただならぬ様子を見て何かを察したのか、黙って教頭室に古賀を引き入れ、時間をかけて話を聞いてくれた。彼の前で、古賀はこれまであったことを洗いざらい喋った。ただ、昨日の晩あったことだけは、どうしても口にすることができなかった。
 九月の中頃、男は逮捕された。教頭に直訴したお陰で素早く対応することができたが、担任である荒木の顔をつぶしたことで、多くの職員からは猛烈な反感を食らった。話しかけても無視され、あることないこと陰口を叩かれ、職員室では完全に孤立した。影響力も発言力もない若手に味方しようと思う物好きはほとんどいなかった。
 それでも、自分は間違ったことはしていない。その自負だけを頼りに、これまで以上に仕事に打ち込んだ。晃を傷つけてしまったことに対する償いの気持ちもあった。
 母子は遠い土地に転居したと伝え聞いたが、事後処理の窓口になったのは荒木だったので、連絡をとるどころか、その後の暮らしぶりについてすら情報は全く流れてこなかった。
 晃の母は明るくて芯の強そうな女性だった。あの二人ならば困難に打ち勝って、いつか本当の幸福を手に入れる日が来るだろう。今の古賀には、晃の幸せを祈ることしかできなかった。
 家と職場を往復するだけの毎日。カレンダーの日付は淡々と流れていき、やがてまた夏が来た。職場のテレビで流れた八月三十一日という文字を見て、そうか、あれからもう一年が経ったのかとぼんやりと思った。
 晃のことを忘れたわけではなかったが、その面影は絶え間なく押し寄せる日常の波に埋もれて、少しずつ薄れかけていた。
 例年の通り、帰宅は深夜になってしまった。泥のように疲れ切った身体を奮い起こしてアパートの外階段を登り終えたとき、自室の扉の前にうずくまる影が見えた。不審者かと身構えたのは一瞬で、見覚えのある姿形に緊張はすぐにとけた。
「本多くん?」
 晃との最後のやりとりを忘れていたわけではなかったが、悪い記憶は都合よく消え去り、驚きは懐かしさに変わった。
 引っ越し先で困ることがあって、自分を頼ってきてくれたのだろうか。
 そう思い、できるかぎり優しく声をかけた。
「久しぶり……」
 それまで背を丸くして固くなっていた塊が、ゆっくりと解けていった。
 晃はゆらりと立ち上がった。元々小柄ではあったが、驚くほど痩せてしまっている。まるで亡霊のようだった。
 すっかり面変わりしてしまったかつての教え子に、身体中の熱がすっと失せて、心が恐怖に波立った。
「お前が言ったんだろう? 俺は秘密を守ったのに」
 子供のものとは思えない、底冷えのする声だった。
「おじさんは逮捕された。お母さんは病気になって、頭がおかしくなった」
 俯いていた顔が上がった。ぽっかりと暗い穴が開いたような生気のない目が、こちらを見据えている。
「お前のせいだ、お前のせいで、家族はめちゃくちゃだ!」
 晃は指を突きつけて、お前のせいだ、お前のせいだと金切り声でわめいた。
 そこにいたのは、自分に懐いてくれた子供ではなかった。狂ったように叫ぶ、得体の知れない何かだった。
「僕は……」
「お前のせいだ、お前のせいだ!」
「ごめん」
 古賀はその場に崩れ落ちるように膝をつき、暴れる子供を抱いた。
「……ごめん」
 晃は壊れた玩具のように、お前のせいだと何度も何度も繰り返した。古賀の腕から逃れようと手足をばたつかせ、声がかすれていくのにもかまわず延々と叫び続ける。
 肉を抉られるくらい噛みつかれ、爪で皮膚を抉られた。だが、手を離したとたんに晃が死んでしまうんじゃないかと思って、小さな身体に詫びながら必死にしがみついた。
 その先の記憶は曖昧だ。騒ぎを聞きつけた近所の数人が何事かと外に出てきた。大家が警察に通報し、二人はパトカーで警察署に連れて行かれた。児童養護施設から捜索願が出されていたそうで、晃はその夜のうちに施設の職員に引き取られていった。
 古賀は簡単な聴取だけで帰された。翌日、早速話を聞きつけた学校で荒木から大声で嫌味を言われたが、耳の中は晃の叫びでいっぱいで、それ以外の雑音は何も入ってこなかった。
 晃がどうしているか気になって、昼過ぎに入所している施設に電話をした。落ち着いたら一度面会をさせてもらえないかと頼んだものの、色よい返事はもらえなかった。
「大変申し訳ないのですが……」
 あなたと顔を合わせると事件のことを思い出し、また興奮状態になってしまう。もう構わないでほしい。そんな内容を丁重に言われて断られた。
 帰宅した後、着替えもせずフローリングに寝そべり、何時間も天井を眺めた。
 自分は間違ったことはしていない。
 晃のためにも、その母親のためにも、あの男は逮捕されるべきだった。
 だが正しい行いをしても、誰も幸せにはならなかった。
 電灯に白々と照らされて、天井に染みついた汚点が笑っている。一年前、それは「おじさん」の顔をしていた。だが今は、鏡に映る自分のようだった。
 たとえ世間で認められないような行為でも、あのとき彼を受け止めていたら。滑らかな膝頭を押さえつけて、ゆっくりと広げていって……。
「お前のせいだ!」
 腐りかけた果実のような臭気を放つ妄想は、痛々しい叫びに遮られた。喉元にせりあがる吐気に耐えきれなくて、ユニットバスに駆け込んだ。胃液を吐きつくした後も立ち上がることができず、便器にしがみついて号泣した。
 えずく度に、常識や良心や道徳や、それまで我が物顔で被っていたものが皮ごと引き剥がされていった。自分、と呼んでいた見知らぬ男の中身には、醜い欲がびっしりと犇めいていた。
 どうして晃のことを教頭に話したとき、すべてを告白しなかった?
 荒木の保身を軽蔑しておきながら、本当のことを言わなかった?
 自問するまでもなかった。
 世界に晃と二人きりしかいなかったら、夏のにおいに満ちたこの部屋で、迷わず欲望を果たしていたに違いなかった。
 愛していると、そう何度も囁いて。
 あくる朝、教室で子供たちの目が一斉に教壇を注目した瞬間、全く言葉が出てこなくなった。話せなくなるのは、教壇に立ったときだけ。次の日も、その次の日も状況は変わらない。数ヶ月の休職の後、同じ年の暮れに退職願を提出した。

 春になって、教育とは縁のない事務用品の卸会社に就職した。それまで住んでいたアパートも引き払い、勤め先の近くに越した。新しい職場は慢性的な人手不足で、休みは少なく残業も多かったが、その方が余計なことを考えずにいられるから有り難かった。
 慣れない仕事に翻弄されるうち、時は瞬く間に過ぎた。その晩、帰宅したのは午後十時頃だった。マンションのエレベーターを降りて鞄から鍵を取り出そうとしたところで、ふと自分の部屋に続く外廊下に目がいった。
 今日は八月三十一日。朝からテレビは見なかった。なるべく人と話さないようにして、職場の卓上にあるカレンダーも伏せておいた。忘れようと努力していたのに……。
 足下で乾いた音がした。激しく震える手から鍵が落ちたのだと、とっさに理解できなかった。
 彼がいた。
 去年と同じように、身を固くして、扉の前にうずくまって。
 以前の職場の関係者とは、すべてつきあいを絶っている。どこで新しい住所を知ったのだろう。……どこまで、追ってくるのだろう。
 あの夏の影を背負った子供が、古賀に薄笑いを向けた。
 戦慄が猛然と背中を走り抜け、視界がたわんだ。
「……悪かった」
 膝に力が入らなくなって、上半身ごと床にへばりついた。自分を責め立てる声を遠くに聞きながら、ひたすらに謝って泣いた。
 それからも、毎年彼は決まって八月三十一日に古賀の元に現れた。
 職を変えても転居しても無駄だった。
 彼に会うのが恐くて、その日だけ休みをとってホテルに泊まろうとした年もあった。けれど、家の前で自分を待っている姿が目の前にちらついて、気づいた時にはホテルを飛び出していた。
「お前のせいだ」
 耳を貫く罵声に安堵する自分がいた。そのときから、逃げるのをやめた。
 責める者と責められる者。
 その一方的な構図が崩れてきたのは、彼が中学を卒業したあたりだった。古賀の前に現れはするが、二度と罵りも叫びもしなくなった。
 とうに背は追い越され、幼かった体つきも顔つきも、おそらく内面も、ひとりの男として完成しつつある。もう子供ではなかった。母の恋人と耽った行為の意味も理解しているはずだ。
 何かを問いかけるように見下ろしてくる瞳。そこに懊悩の跡と、より深くなった憎しみを見たような気がした。
 そのうち視線すら合わないようになり、沈黙のまま数年を重ねた。その間、言葉をかけたのは一度きり。彼が成人した年、もうやめにしないかと言ったことがある。
 自分はいくら罵られても、憎んでくれても構わなかった。望むのであれば、何もかもすべてくれてやるつもりだった。
 だが、彼には未来がある。前途ある若者が過去に縛られているのを見るのは、忍びなかった。
「やめにしないか」
 古賀はもう一度言った。返事はなかった。彼は光のない目を伏せ、無言で踵を返した。そして、次の年もやってきた。それが答えだった。
 学生らしい軽装は、いつしかスーツになっていた。
 行き届いた服装や立ち振る舞いから、どんな職についているのか、どんな生活をしているのか、ある程度の想像はつく。うらぶれたアパートにいるのが不似合いな風体だった。同じ時期、安月給を工面して密かに送っていた金は、真新しい札束になって全額突き返された。
 あれから、いくつ夏を数えただろう。男は相変わらず毎年やってくる。何も言わない、目も合わさない。奇妙な邂逅の底にあるのは、贖いの気持ちだけではなかった。
 仕事も私生活も、分相応にうまくいっていた。だが、普段素知らぬ顔で日常を営んでいるのは偽りの姿で、夏の終わりのこの一瞬だけ、誰も知らない本当の自分に戻るような気がしていた。
 そして成功者として輝かしい道を歩んでいるはずの男も、同じ思いを抱いているのではないか。どろどろに化膿した傷を抉り合うような再会を繰り返すなかで、漠然とそう感じた。
 果たして、その年も自宅アパートの前に彼がいた。切れかけた電灯の放つ光が、男の横顔に深い陰影を与えている。そこに在りし日の面影を探している自分に気がついて、未練たらしさに自嘲した。
 彼は、あのとき思い描いた通りに成長した。身勝手な誇らしさで胸がいっぱいになる。それなのに、自分ときたらどうだろう。天井はとうに見えている。残された若さを食いつぶしていくばかりの人生だ。
 十数年の間に、付き合った女性もいたし、結婚の話がでたこともあった。けれど、結局はうまくいかなった。子供は何人ほしい、そんな話を無邪気にふられるたびに、想像のなかで腕に抱いた赤ん坊は、あの子供の目をしていた。
「……入るか」
 古賀は玄関に入りかけた足をとめて、振り返った。このときに限ってどうしてそんな誘いをかけようと思ったのか、自分でもわからなかった。
 それまで深い淵に隔てられていたものが、暗がりに交わった。男は頷きもせず従った。
 雨戸を閉め切った室内の空気はこもっていて、圧倒的な夏の息苦しさが充満している。
「狭くて悪いが……」
 電源を求めて壁を探っていた指の動きが、汗ばんだ掌に制止された。
 古賀は長い溜息をついた。
「暑いな」
 二人分の体重をかけられたドアが鈍く軋んだ。
「……おかしくなりそうだ」
 語尾にかかる吐息を吸い取られ、口の自由を奪われる。熱の余韻を感じる暇すら許されず、何度も唇を塞がれた。絶え間なく繰り返される口づけは、拳を使うよりもよほど暴力じみていて、かつての青臭い甘みはどこにもなかった。
 舌が差し入れられる。身じろぎしようとシャツを握りかけた手は軽く払われ、逆に首根を掴まれた。より執拗に口腔をねぶられる。拒むのは諦めた。逃れられないことは、はじめからわかりきっていた。
 欲しいままに蹂躙される舌に、懐かしい苦みが絡んでくる。昔よく吸っていた銘柄の味がした。それが自分のものではないと、しばらく気づかなかった。煙草をやめたのは、ずいぶん前のことだったのに。
 煙草くさい唾液を飲み込んだ。喉が卑猥な音を鳴らして上下する。身体の芯が熱に疼いた。唇を通じて、失われたあの夏の残照を注ぎ込まれたかのようだった。
 光のない部屋の隅に、色あせかけた思い出が立ち上った。
 喉に染み込む麦茶の涼やかな冷たさ、伸びきったそうめんの生ぬるい舌触り。窓枠に腰掛け、遠くを見つめる小さな影。
 西日に焼かれたアスファルトは苦しげに身をよじらせて、雨雲に犯された青空が哀れっぽく咽び泣く。
 湿気を運ぶだけの風は肌を嫌らしく粘つかせ、夏の暑さに倦み疲れた人々の足が、夥しい数の蝉の死骸を踏み砕いていく。
 闇に埋もれた目が、深部をまさぐるように互いを見つめた。
 今年も夏が終わる。
 残された宿題の答えは、まだ出ていない。
(終)