駅近くにある八階建てのオフィスビルの喫煙所は、各階の廊下のもっとも奥まったところに設置されていた。元々常連はあまりいないが、日当たりのいい屋外にあるので、今日のような真夏日の午後は特に人が少ない。
尾崎はアイスコーヒーの入った紙コップをぶらぶらさせながら、空いた方の手で重いガラスの扉を押した。
「……お?」
と、急に手元が軽くなる。何のことはない、後輩の本多が外から扉を開けてくれたのだった。コーヒーに気を取られて、いるのに全く気づかなかった。
軽く礼を言うと、本多はにこやかに会釈した。彼の周りには炎天下とは思えないくらい、爽やかな空気が流れている。
二人はこのフロアにある事務所に所属する弁護士だった。
尾崎が尻ポケットから煙草の箱を取り出すと、横からすっとライターが差し出された。
「悪い」
本多はそのあと、自らも二本目を取り出し火をつけた。嫌らしさを感じさせない、控えめな気遣い。本多は、さりげなくそういうことができる男だった。
「明日から九月だってのに、くそ暑いな。煙草吸うのも命がけだ。今日の午後は外に出る予定がなくて助かったよ」
道化めかして言ったとき、当てつけのように熱風が吹いた。尾崎は鬱陶しげに長袖の腕をまくった。この季節ばかりは、軽装が許されている仕事がうらやましい。
本多が尋ねてくる。
「夏はお嫌いですか」
「当たり前だろ。ガキの頃ならともかく、暑いだけで楽しいことなんかひとつもありゃしない。仕事上がりのビールくらいだな」
ビールという単語で、ふと思い出した。
「そういえば、今夜、大野先生たちと飲みに行くんだよ。お前もどう? もう夏も終わりだし、暑気払いって時期でもないけどな」
灰を落としながら、隣を横目でちらと見る。
できすぎる後輩は目障りな存在だが、使いようによっては役に立つ。本多は人当たりがよくて察しもいい。気の進まない上司との飲み会に連れて行ったら、こちらの仕事が減って楽になる。
だが、尾崎の期待はあっさり裏切られた。本多は申し訳なさそうに目を伏せた。
「すみませんが、先約があって」
「そうか、じゃあ仕方ないな」
先約と聞いて、思い当たる節があった。尾崎はわざとらしくにやけ笑いを作った。
「女か? この間、駅ですごい美人と一緒だったろ」
「美人?」
少し考えてから、ああ、と本多は他人事のように呟いた。
「別れました」
「え、もう?」
思いがけない返答に、つい声が上擦ってしまった。
「見かけたのって、つい最近の話だぞ」
「一昨日振られました。誰とつき合っても、続かなくて」
本多は苦笑した。
「俺の方に問題があるんでしょうね」
「お前に? そうは見えないけどなあ。顔もいいし、性格もいいし」
尾崎はおおげさに後輩を持ち上げたが、何となく解せなかった。心身に多少の瑕疵があったとしても、襟元にバッジを光らせた色男を、女がそう簡単に手放すとは思えない。
あえて自分に非があるような口振りをするのは、振られた男がプライドを守るための常套手段だが、そういう雰囲気も感じられなかった。
それとも、品行方正な優等生がそのまま大人になったような顔をして、異常な性癖でもあるのだろうか。
尾崎は薄い唇を歪めた。
今度飲んだときにでも、探りを入れてみよう。実害さえなければ、この手の醜聞ほど面白いものはない。
とんでもないサドか、重度のマザコンか……。
そこまで想像して、急に思い出した。
本多は施設育ちなのだと噂で聞いたことがある。
その影響なのか、事務所に入った初日の自己紹介で、少年事件を扱いたいと言っていた。
高い志を持つのは結構だと思うが、尾崎にはその気持ちが全く理解できなかった。
少年事件はとかく関係者が多い。当事者以外にも、保護者に学校に警察に行政にと、それぞれが勝手な主張をわめいておいて、最後には決まって責任の押しつけ合いとくる。
将来という麗しい名前で装飾された事後処理も面倒だ。これまで仕事で関わった「少年」はどいつも手に負えないクソガキばかりで、輝かしい未来なんてありそうにもなかったが。
そんな茨の道をあえて歩きたいと言うあたり、さすが苦労人は懐の大きさが違う。
皮肉を先輩面の下に押し隠して、尾崎はすっかり短くなった吸い殻を灰皿に押しつけた。
「そういえば、話は変わるんだけどさ。お前、煙草吸うんだな。今日はじめて知ったよ」
思い返してみると、これまで喫煙所で本多に会ったことはなかった。
「普段は吸わないんですが、毎年この時期、どうも口寂しくなって」
「夏に? 珍しいな」
「ええ、自分でも不思議です」
くたびれた煙草の吸い口を、本多は唇の間からゆっくりと離した。灰皿の上で煙草を弄ぶ指の動きは、どう見てもこなれた大人のそれだ。なのに、なぜかその仕草に子供っぽさを感じる。幼稚な乳臭さとはまた違う感じの……。
本多は手元から視線を外し、そのまま上方へと傾けた。夏らしい青空が高層ビルの群れから覗き見えたのは束の間のことで、突如迫り出した黒い雨雲が頭上に広がり、瞬く間に日光を遮ってしまった。雲の落とした影は生ぬるい湿り気を帯びていて、去りゆく夏のにおいがするようだった。
「夏も終わりだと思うと、欲しくなるんですよ」
吐き出した紫煙に漂う、ぞっとするような無関心。
いつも穏やかな後輩のもとは思われない、冷たい声だった。
尾崎はぎょっとして、頭を上げた。
「たまらなくね」
煙草が灰になっていくのを眺めて、男は静かに笑った。