土曜の朝、というにはやや遅い時間に夢の世界でたゆたんでいたとき、玄関のチャイムがけたたましく鳴った。
先週購入した電子レンジか届いたのだろうか、しかし配送指定は土曜の夜だったような気がするが……そんなことを考えながらも心地よいまどろみからは逃れがたく、吉崎は居留守を使うべく頭を毛布で覆い隠した。外にどんなに爽やかな朝の空気に満ち満ちた美しい世界が広がっていようとも、この季節、布団の温もり以上に魅力的なものはないのだ。
だが、いるのはわかっている、早く起きろとばかりにチャイムは金切り声を発して吉崎の怠惰を激しく糾弾し続けた。さすがに近所迷惑である。
「お兄ちゃん、目あけたまま寝てるの?」
仕方なくドアを開けると、妹のようなものが見えた。と思うや、だんだんと焦点が定まっていき、曖昧だった輪郭がまさしく妹の菜摘の姿になった。
「入るよ」
断りになっていない断りを述べてから、菜摘は吉崎の部屋に上がり込んできて、こんな汚い部屋に人間が住んでいるのが信じられないというような感想を口にした。信じるも信じないも、実際暮らしているのだから仕方ない。
思えば、今週はよく怒られた。
月曜から後輩が発注数を景気よく間違えて関係各所に謝罪行脚、昨日も旅費の精算が遅すぎると経理の若い女性社員に叱られた。週末になりようやく平安が訪れたと思いきや、もっとも厳しい監査員のご登場である。
「で、何の用だよ」
まさか抜き打ちで部屋の巡視に来たわけではないだろう。尋ねると、菜摘は黒く塗り込められたまつげをばさばさと上下させながら、大仰にため息をついた。
「この間言ったじゃん、お母さんの誕生日だからプレゼント買いに行くって。土曜の午前はたいてい家にいるって、お兄ちゃんが言ったんだよ」
確かにそんな話をした記憶はある。類は友を呼ぶとはよくいったもので、土日祝が一応の休日とされている仕事についていて、特別な理由もなく土曜の午前中に遊ぼうぜなんていう底抜けに活動的な友人はいないのだ。
「それにしても連絡くらい……」
「したよ。気づかなかったのそっちでしょ?」
吉崎が携帯を確かめると、なるほど昨夜から十件くらい連絡をつけようとした痕跡があった。職場の飲み会で遅くなったとはいえ、これは自分も悪い。
「今年は手袋にしようかと思ってるんだけど」
「どこに買いに行くんだ? 俺も行こうか」
「別にいいよ」
お金だけ貰えれば、と暗に告げてくる。
一緒に買い物にいったところで役に立たないことはわかっているが、一抹の侘びしさを覚えた。
財布から出した紙幣を受け取ると、菜摘はいつになく機嫌が良さそうににっこりと笑った。
「今日時間あるから、昼ご飯ぐらいなら付き合ってもいいよ」
「……そうか」
あまり嬉しがると「きもい」と鉄槌を食らわされるだろうから表情に出ないように徹したが、正直嬉しかった。
夏休みに一瞬だけ帰省したとき以来、菜摘に会うのはこれがはじめてだ。飯をたかりに来たわけではなく、仲直りのきっかけを作ってくれている、のだと思いたかった。もう菜摘の前で淫行などと決して口にすまい。
牛丼でも食うかという吉崎の提案を一蹴して、菜摘は隣駅に新しくできたカフェがいいと言った。事前に調査済みのようだ。やはりはじめから奢らせるつもりだったのか……。
時計の針は十時半に届くか届かないかで、昼にはまだ早い時刻ではあったが、昼時には二時間待ちらしいと聞いて二人は駅に向かった。
駅前広場を横切りながら、吉崎は説明した。
「嘘じゃないって。本当に王子みたいなんだよ」
「友達だからそう言ってるだけでしょ?」
近所に中学の同級生が住んでいて、そいつが驚くほど王子的な男なのだといくら言っても、菜摘は頑なに信じようとしなかった。
「しかも、お兄ちゃんと同い年だよね。おっさんじゃん」
「三十は世間的にはおっさんじゃない」
「世間とかどうでもいいし。私にとってはおっさんだもん」
菜摘の放ったボディブローが、腹に重くめり込んだ。
「それはともかく、お前も一度会って話してみたらどうだ? 化粧品にすごく詳しいし、勉強になるんじゃないか」
「何でお兄ちゃんの友達に……きゃっ!」
そのとき、速度を緩めないまま広場に突っ込んできた自転車が菜摘のすぐ横を通り過ぎていった。
きわどいところで接触はまぬがれたが、菜摘はバランスを崩してよろめいた。
「おい、気をつけろ!」
無法自転車に一喝をくれてから、吉崎は素早く妹に視線を移した。
「怪我はないか?」
「それは平気だけど……」
どうやら転びはしなかったようだが、よろけた弾みで落としてしまった鞄の中身が石畳の上に散らばっていた。
「やだ、最悪」
菜摘は今にも泣き出しそうな表情をしている。あの無礼なる自転車男の足よ猛烈に臭くなれと、吉崎は密かに呪いをかけた。
二人がかりで拾い集めた小物類をひとつひとつ確認していた菜摘は、あれ、とうわずった声を出した。
「マスカラがない」
吉崎は周囲を見回し、シャカシャカ振ることで音を出す楽器を探すが見あたらなかった。
「何でマラカスなんて持ってんだよ?」
「マスカラだってば! あ、あそこ」
排水のためにそこだけゆるい斜面になっていたのか、公園広場の出口に向かって円筒状のプラスチックケースが勢いよく転がっていた。菜摘がそれを追いかける。
「うそ、買ったばっかりなのに!」
やがて黒っぽいマスカラのケースは、男物の革靴の先にこつんと当たってようやく回転を止めた。
「どうぞ」
男は長い指でマスカラを拾い上げ、菜摘に渡した。後から追いついてきた吉崎を見て、男は短く息をのんだ。
「あ……」
「よう」
「……よく会うね」
「先週ぶりだな」
槇野は吉崎と菜摘を交互にゆっくりと見比べた。
「妹さん?」
紹介する前に一発で妹だと看破されたようだ
「前に写真か何か見せたことあったか?」
「よく似てるからすぐわかったよ」
「……似てる?」
「ああ、全体的に」
顔や体型がだろうか。それとも揃いも揃って鞄の中身を往来でぶちまけるようなところだろうか。
「ほら、菜摘。さっき話しただろ、こいつが槇野だよ」
兄と似ているなどと言われようものなら激怒しかねない。吉崎は不安を覚えつつ、気味が悪いくらい静かな妹の様子を伺い見た。
だが、菜摘は自己紹介するのも忘れてぼんやりしている。意識が空を越えて大気圏を突き破り、はるか遠くの名も知らぬ惑星まで飛んでいるように見受けられた。
「初めまして、菜摘さん」
槇野が微笑んだ。
その瞬間、吉崎は菜摘の視界から自分の存在が完全に抹消されたことを悟った。
リビングに君臨する独裁者の姿はそこにはなかった。
淡く頬を染めた、ひとりのか弱い乙女がいるだけだ。
「槇野、さん……」
一粒数百円する高級チョコレートを味わうときみたいに、乙女はうっとりとその名を口にした。
「二人で出かけるところ? 仲がいいんだな」
槇野が言うと、菜摘はぎくしゃくとお辞儀をし、うわずった声を発した。
「申し遅れました、吉崎菜摘でございます! いえ、全然仲良くないです! うちのふしだらな兄がいつもお世話になっております!」
そこは不束だろうと思ったが、意味を考えればどっちもどっちだ。敬語の使い方もあやしいし、現国の成績は大丈夫なのか。
「槇野は?」
「……仕事帰りだよ」
言われてみれば、確かに土曜の午前中だというのに通勤用と思しきスーツ姿だ。
「会社に泊まるほど忙しいのか?」
「年末は仕方ないよ」
「そうか、クリスマスも近いしな」
想像の範疇を出ないが、化粧品というものは恐らくクリスマスにものすごく売れるのだろう。疲れているなら早めに退散したほうがよさそうだ。
わざとらしく時計を見てから、吉崎は菜摘の方に向き直った。
「そろそろ行くか。この寒いのに二時間も外で待つのはちょっとな……」
「そうだ」
槇野が徹夜明けとは思えぬ朗らかな声で言った。
「二人とも、よかったらうちでお茶でも飲んでいかないか?」
すぐにピンときた。以前菜摘に化粧のアドバイスをしてやってくれと頼んだのを、義理堅く覚えていてくれたのだ。
しかし、「じゃあお言葉に甘えてお邪魔します」と脳天気に返せるほど吉崎も脳天気ではなかった。
吉崎は菜摘に聞こえないように耳打ちした。
「でも、お前仕事帰りなんだろ? 疲れてるみたいだし……」
「いや、そんなことないよ」
「日を改めた方がいいんじゃないか?」
「しばらく先の予定が立たなくてね」
「けどなあ……」
そんなやりとりを続けること数分、吉崎は黙り込んだままの妹にちらと視線を送った。
「こういってくれてるけど、どうする?」
予感はしていた。答えなんか聞くまでもなかったのだ。菜摘の目の奥では、舞い踊るハートがイエスの文字を描いていた。
この街に引っ越したときから、駅に隣接してずば抜けて高い建造物があるのは知っていた。高さは高く、値段は恐らくもっと高い。自分には縁のない煌びやかな世界の住人が夜な夜な舞踏会でも開いているのだろう、というところで想像は打ち止めとなり、それで終わりのはずだった。だからまさか内部に足を踏み入れる機会があろうとは思いもしなかった。
槇野の住まいは、そのタワーマンション最上階にあった。
「うわあ、素敵!」
菜摘の声は興奮のあまり、ほとんど叫びの様相を呈していた。
南側に大きな窓のあるリビングは広くて開放感があった。台所と呼んだら怒られそうなオープンキッチン、計算し尽くされた配置の照明器具、何だかよくわからないアート感が漂う置物……とにかく洗練されたインテリアの数々が洪水のように視界に押し寄せてくる。
モデルルームやホテルの一室のようだが、慇懃な冷たさはなく、センスのよさとくつろいだ雰囲気が喧嘩もせずに仲良く同居していた。そして今まで座った中でも抜群に座り心地のいいソファ。床暖房がもたらす穏やかな温もり。ここは天国か。
なるほど、この家ならば掃除機は必須だろう。コロコロがいかに有能とはいえ、残念ながら力及ばすだ。
「素敵……」
高級感あふれるエントランスに足を踏み入れた瞬間から、菜摘は「わあ」などの感動詞と「素敵」しか発していない。しかしながら、これ以上に適切な語句があるとも思えなかった。吉崎はより男性的な「おお」「すげえ」を多用したが、自分が女子高生なら恐らく菜摘と同じ反応をしたはずだ。
「家買ったのか?」
感心する吉崎に、槇野はまさか、と否定した。
「伯父夫婦の持ち家なんだけど、仕事で海外に行っていてね。家財の管理をする代わりに安く貸してもらってるんだ。家具や食器もほとんどそのまま残していってくれたから、かなり助かってる。一年くらいでまた地方に異動になるだろうし」
言いながら、槇野は手みやげに渡したケーキとティーセットを手際よくローテーブルに並べた。
吉崎はポットから注がれる琥珀色の液体を見つめながら、妙な感動を覚えていた。もちろん紅茶自体が珍しかったわけではない。一人暮らしをしている男友達の家に遊びに来て、まさか紅茶が出てくるとは思わなかったのだ。しかもティーバッグではない。葉っぱだ。
「紅茶の入れ方なんてよく知ってるな」
「昔カフェでバイトしてたからね」
「カフェ?」
六十回目くらいの素敵と共に、すぐ側でほうと甘い溜息がもれた。もう勘弁してやってくれ、と吉崎は目でそっと槇野に嘆願した。乙女心は爆発寸前だ。
「ケーキ、菜摘さんが選んでくれたのかな?」
槇野が尋ねると、菜摘は壊れたロボットの如く、こくこくというよりガクガクといった調子で頷いた。
「却って気を使ってもらったみたいで悪かったね」
「甘いもの平気だったか」
「ああ、好きだよ」
ケーキは手ぶらで行こうとした吉崎を菜摘が咎めて、急遽駅ビルで購入したものだ。
準備のために一度帰宅するという槇野と別れてケーキ売場に来たとたん、それまで石のように口を閉ざしていた菜摘はショーケースに映り込んだ自分の顔を沈痛な表情で見つめ、牧場で草をはむ牛のようにモーモー言い始めた。
「もう、眉毛曲がってるし、鼻てかってるし……もうやだ」
ケーキが包装される間も「もう、もっと可愛い服来てくればよかった」としきりに呟き、最終的にかくのごとき結論に至った。
「お兄ちゃんのせいだからね!」
「……俺?」
身に覚えのない責任を負わされたものの、兄妹間の軋轢を避けるために甘んじてそれを受け入れざるを得なかった。
吉崎は熱い紅茶をすすりながら、隣で同じような仕草をしている妹を見た。手元の紅茶はゆらゆらと小さなさざ波を立てるだけで、まったく減っていなかった。
紅茶が登場したあたりから、菜摘はついに「もう」とも「素敵」とも口にしなくなってしまった。学校はどうだとか、部活は何をやっているだとか、槇野の問いかけ対して壊れたロボット的な動きで応えるのが精一杯のようだ。
小鳥のようにびくびくと震え、好き、嫌い、好き……と花びらをむしって占いでもはじめそうなこの少女は本当に自分の妹なのか。槇野の王子オーラは菜摘には少々刺激が強すぎたかもしれない。
菜摘の主たる蔵書から推察するに、彼女の頭の中では「偶然の出会いから互いに恋に落ちた素敵な男性は実はある財閥の御曹司で、ライバルに邪魔されたり、身分違いだと反対されたりしつつも、二人は数々の試練を乗り越え愛を深めあっていく」といった具合で、単行本にして十冊程度まで話が展開されているのではないかと思われた。
風向きを変えるきっかけでもないかと部屋を見回していると、洒落た洋書が収まった書棚に一冊だけ毛色の違う本があるのに気がついた。
「三十歳までにやるべき十のこと」
吉崎は何気なく題名を読み上げた。菜摘は忘れているだろうが、隣に座る「辛うじて血が繋がっているおっさん」と目の前の「年上の素敵な男性」は同級生なのだ。
「槇野でもああいう本読むんだな」
「職場の人がくれたんだよ」
「お前まだ二十九だっけ?」
「ああ」
「俺も買ったよ、似たような本。結局開きもしないうちにどっかいったけど。槇野は読んだのか」
「一応ね」
「実践してみたか?」
槇野が口を開きかけたとき、立ち上がって書棚に近づこうとする吉崎の袖を菜摘が慌てた様子でぐいと引っ張った。
「お兄ちゃん、人様のお家でうろうろしないで。行儀悪いよ!」
「行儀って……」
「熊じゃないんだから!」
「熊……」
妹を現実世界に引き戻すことには成功しだようだが、三十にもなってまるで野生動物のように行儀が悪いと叱られることになろうとは思わなかった。正面で槇野が笑いをこらえている気配がする。
だが兄の不行儀により場が和んだせいか、壊れたロボットはやや緊張気味の女子高生に戻り、雑談程度の会話ならばどうにか成立するようになってきた。
吉崎はケーキをひときれ雑に口に放り込んだ。
「しかし広い家だよな。全部の部屋使ってんのか? 寝る部屋、飯食う部屋、昼寝する部屋とか」
「いや、使ってるのはリビングと寝室だけ。半分倉庫みたいになってるけど」
「倉庫って?」
「化粧品の」
「会社のか?」
「自社の製品もあるけど、ほとんどは私的に集めたものだよ。研究用にね」
槇野は言って、菜摘の方を向いた。
「菜摘さん、今冬の新製品もいくつかあるから持ってきましょうか?」
さすがは槇野、話の持って行き方が自然だ。チャンス到来と、吉崎も追い風を送った。
「せっかくだからちょっと見せてもらったらどうだ? 俺はよくわかんないけどさ」
菜摘はスカートを意味なくもみ合わせもじもじしていたが、最後には是非にという槇野の申し出を受け入れた。
一旦リビングから退出した槇野が再び現れたときには、両手に大きな紙袋を二つ下げていた。
紙袋から取り出された箱が視界に入った瞬間、菜摘の表情がぱっと輝いた。
「あ、これ限定品の……」
茶器類を片づけたテーブルに、次々と化粧品が並べられていく。
朝が来るのを忘れて置いてけぼりをくらった星みたいに、金や銀、ピンクに青、それからクリスマスらしい赤に緑と、色とりどりの華やかなケースが競うように輝きを放っている。
光りものといえばまず寿司のネタがくる人間には馴染みのない目映さにあてられて、自分の網膜までキラキラしてきたようだった。
「この色かわいい! ちょっと見てみてもいいですか?」
「もちろん」
槇野と菜摘は複雑怪奇な用語を駆使して化粧談義に花を咲かせているが、まったくついていけない。
おかわりした紅茶で腹がたぷついてきた頃、会話の切れ目を見計らって尋ねてみた。
「これは何するものなんだ?」
「ここにあるのは全部メイクアップ用品だよ。ファンデーションとかチークとかアイシャドウとか……」
一向に緩まらない吉崎の眉間の皺を見て、細かく説明したところで根本的な解決には至らないと悟ったのか、槇野は大ざっぱにまとめた。
「とりあえず、色が付いていて顔に塗ったり描いたりするものだよ」
「へえ」
わかったようなわからないような返事をしながら、吉崎は謎めいた棒状のケースをつまみ上げ、蓋を開けてみた。中からはこれまた謎のブラシが飛び出した。
「こういう化粧品ってデパートとかで売ってるんだろ? 自分で買いに行ってるのか?」
デパートの化粧品売場などたまたま配置の都合上通過した経験があるくらいだが、男にとっては買い物をするどころか立ち止まることすら難しい。そんな場所だった。そこで何か買ってこいとの任務を与えられても遂行には至るまい。気分的には、菜摘の通う女子高にセーラー服を着て単身突入せよと言われているようなものである。
「職場の人にお願いしたり、あとはカウンターのデザインや接客を参考にさせてもらいたいから自分でも行くよ。そのときは、彼女に贈るんですって伝えるとスムーズに買える。本当はいないんだけどね」
「彼女、いらっしゃらないんですね……」
槇野が笑うと、菜摘はほんのりと頬を染めた。
そんな二人のやりとりを眺めつつ、吉崎は悩ましげにこめかみに手をやった。
さきほどから化粧品からいいにおいが漂ってきて頭がくらくらしてくる。女物のシャンプーや化粧品には男を惑わす悪魔的な香りの成分が配合されているものなのだろうか。そんな疑問をこの場で口にしようものなら菜摘から弾劾されることは明白だったので、後日こっそり槇野に聞こうと思った。
そのとき、槇野と視線が合った。軽く目配せされたような気がした。
槇野は憧れの化粧品に囲まれて幸せそうにしている菜摘に優しく声をかけた。
「よかったら試してみませんか」
「いいんですか」
「もちろん。化粧品は見るためではなくて、使うために作られたものですから」
「菜摘、お前槇野に化粧してもらえば? 槇野、できるって言ってたよな?」
「……え? ええ? 槇野さんに? 私が?」
兄の言葉は無神経で無責任としか聞こえなかったらしく、菜摘は目をまん丸くして非難した。
「お兄ちゃん何言ってんの! 迷惑に決まってるでしょ? 冗談は顔だけにしてよ!」
「迷惑じゃないですよ」
「でも……」
「あれか、男に触られるのに抵抗あるか?」
菜摘は兄を睨みつけた。
「失礼だよ、抵抗だなんて」
「それなら別にいいだろ」
「え、やだ、どうしよう。すっぴんになるんですよね? だって……もうもうお兄ちゃんの馬鹿!」
散々モーモー言い、散々じたばたした結果、菜摘は化粧をしてもらうことになった。
普段している手入れだとか、好きな色だとか、槇野は道具を用意しながら菜摘に色々と尋ねていた。
「どんな風にしたいって希望はある? 今流行ってるメイクをしてみたいとか、個性を出したいとか……」
「私」
菜摘は俯いて、ほとんど囁くように言った。
「わからないんです。自分がどうしたいのか……」
「それなら、任せてもらってもいいかな?」
「はい」
「そうだ、ひとつだけ」
そう言って槇野が取り出したケースの中には、たくさんの口紅がきれいに揃えられていた。どれが化粧水だかどれがクリームだか当ててみろと言われても無理だが、さすがに口紅くらいは吉崎にも判別できる。
「口紅は、好きな色を選んでください」
菜摘は困ったような顔をしていたが、槇野に促されてまず一本を手に取り、出したりひっこめたり、手の甲に塗ってみたり、また別の色を試したりと、ずいぶん長いこと迷いに迷って、最後に淡いピンクの口紅を選んだ。
「これにします」
菜摘がおっかなびっくり差し出した口紅を見て、槇野の顔が嬉しそうに綻んだ。
「よく似合うと思うよ」
機織りする鶴がそう願ったように、化粧しているところは絶対に見るなと菜摘に厳しく命じられ、妹の羞恥心を察した吉崎は忠実に従った。表面上は。
女性の身なりに手を出すのは難しい。実体験からわきまえているつもりだ。菜摘が幼稚園の時だったか、忙しくしていた母親に「菜摘の髪を二つに結ってあげて」と頼まれたことがあった。いつもやっているのをまねて自分なりに頑張ったつもりだったが、母の評価は「嘘、何これ!」だった。そして未だにどこがいけなかったのかよくわからない。
もちろん槇野を信用していないわけではないが、何がどうなっているのか気になって仕方がなくて、悪いとは思いつつも薄目を開けてしまう。すると、ちょうど窓ガラスに映った二人の姿が見えた。
ガラス越しに見た菜摘は、一目見ただけでそれとわかるほどがちがちに緊張していた。槇野は緊張を解そうとしきりに話しかけながら、鮮やかな手つきで菜摘の顔を整えていった。
もしこれが槇野以外の男だったら、たとえプロでも複雑な心境だったろう。穏便な表現を選び抜いて「人の妹にベタベタ触るんじゃねえこの野郎」というところだ。
だが、菜摘に触れる槇野の手は優しかった。指の動きも眼差しも。表面的なものではない、相手への真心とか深い労りみたいなものを感じる。槇野の肌の感触など知らないはずなのに、見ているだけで掌の温かさまで伝わってくるようだった。
いよいよ仕上げの段階になって、槇野は菜摘の選んだ口紅を手に取り、筆に乗せた。
それまで菜摘は頑なに無表情を貫いていたが、淡く色づいた筆の先が落ちたとたん、唇の両端がふっと微笑むように柔らかく上がった。
まるで、魔法でもかけられたかのように。
「吉崎、もういいよ」
槇野に呼ばれて、吉崎は改めて菜摘の顔を見つめた。菜摘に施されていたのは、ごく薄い化粧だった。
肌が特別なめらかになったわけでもないし、目が大きくつぶらになったわけでもない。女優みたいにきれいでも、モデルみたいに個性的でもない。でも、心からいいと思った。
可愛いだとかきれいだとか、妹は喜ばせるような言葉で褒めてやりたいのに、出てきたのはこんな一言だけだった。
「すごくいいと思う。お前らしくて」
手鏡を渡された菜摘は、鏡の中の自分を見て声を震わせた。
「痣、消えてる……」
そこでようやく思い出した。菜摘には生まれつき口元に赤い痣があった。何年もかかって治療をし、かなり薄くはなったものの、まだわずかな赤味が残っていた。残っているとは言っても、ごくごく狭い範囲にうっすらとあるだけで、今の今まですっかり存在を忘れていたほどだ。だから、そんなに気にしていたとは思わなかった。
槇野が言った。
「うん、やっぱりよく似合う」
その瞬間、菜摘は大粒の涙をこぼしてわっと泣き崩れた。
あの日出会った迷子の女の子みたいに、声を上げて泣きじゃくった。
思い切り泣いた後、菜摘は再び手鏡を見て「ひどい顔になっちゃった」と大笑いし、今度は自分で化粧してもいいかと槇野に尋ねた。菜摘は槇野にやり方を教わりながら、これまで見たことがないくらい真剣な表情で鏡に向き合った。
「上手にできたね」
槇野に出来上がりを褒められたが、菜摘は不満そうだった。
「ううん、やっぱり槇野さんがやってくれたのとは全然違う。……もっとちゃんと勉強したいな」
それからケーキをぺろりと平らげて、吹っ切れたようにさっぱりした表情で辞去する旨を告げた。
吉崎は駅まで送ろうとしたが、ひとりで帰りたいのだとすげなく断られた。
ここ数年、兄の前で泣くなんてことは一度もなかったから、気恥ずかしさもあったのかもしれない。吉崎は渋々承知した。
「家についたら連絡しろよ」
「お兄ちゃんって過保護だよね。あ、お母さんのプレゼントは明日友達と買いに行くから。……槇野さん、今日は本当に、本当にありがとうございました」
丁寧に頭をさげ、記念にと貰った口紅を大事そうに抱えて菜摘は帰っていった。
菜摘を見送ってエントランスから戻ると、槇野がリビングでコーヒーを入れて待っていてくれた。
一旦ソファに腰を落ち着けた吉崎は、強い決意と共に立ち上がった。
「槇野、実はな」
「何?」
「菜摘の前じゃ言えなかったけど」
そしておもむろに槇野のすぐ隣に腰を下ろした。
「俺、高いところがあんまり得意じゃないんだ。視界に入らない限りは平気なんだが、あっちの席だと、万が一カーテンがめくれでもしたら情けない事態になりかねない」
槇野がいる側に座れば、ちょうどいい具合に窓に背を向ける格好になる。男二人が並ぶとちょっと狭いが。
「それなら僕が向かいに……」
「槇野」
席を譲ろうとした槇野の腕をつかみ、吉崎は頭を深く下げた。
「今日はありがとう。……俺、菜摘が痣のことで悩んでるなんて、全然気づかなかった。ずっと一緒に暮らしてたのに、何見てたんだか」
槇野は浮かせかけた腰を再びソファに沈め、吉崎に問いかけた。
「君は菜摘ちゃんの痣が気になる?」
「いや、全然」
「僕だって同じだよ。化粧で隠さなくても、たぶんほとんどの人が気づかないだろう。それでも、菜摘ちゃんは悩んでいる。たぶん、君や僕が痣なんて目立たない、気にするなって言っても根本的な解決にはならないよね」
コーヒーカップの持ち手から離れた指を、槇野はじっと見つめた。
「知識と技術さえあれば、人から好感を持たれるような顔や、美しく整った顔を作るのは難しいことじゃない。でも、たとえ周りからいつもきれいだ、美人だと言われているような人でも、自分の顔が嫌いで鏡を見るたびに苦しんでいるかもしれない。大切なのは、本人がどう感じているかだ」
一呼吸おいて、静かに言葉を継いだ。
「……一生つきあっていくものだから、自分の顔を好きになってほしいよ。この仕事を通じて、少しでもその手助けができたらと思う」
穏やかでありながらも、仕事に対する強い信念を感じさせる声音だった。それなのに、なぜかその奥に苦しみが見え隠れしているような気がして、吉崎は引っかかりを覚えた。まるで槇野も同じような気持ちを味わったことがあるみたいだった。そんな経験があるとはとても思えないのに。
「お」
俺は、お前の顔好きだけど。
無意識のうちに言おうとした台詞を、吉崎は慌てて引っ込めた。男友達に顔が好きだと言われたところで、嬉しいどころか困るだけだ。
「お?」
槇野がこちらを見つめてくる。突然途切れた言葉の続きを待っているようだった。
「俺は、その、思うんだけど、もう出来てるんじゃないか」
「え?」
「菜摘が選んだ口紅、お前が作ったんだろ?」
まさか言い当てられるとは思わなかったのだろう、槇野は目を大きく見張り、はっとして口元を手で覆った。
「にやけてた?」
「いや、いつも通りだったけど」
「……そうだよ」
観念したように苦笑した。
「だから選んで貰えたときは嬉しかった」
「きれいっていうより可愛い感じの色だったな」
「サンドリヨンの物語をイメージしてるんだ。若年層向けのラインなんだけど、コンセプトがおとぎ話で……」
「さんどりよん?」
「英語でいうとシンデレラだね」
「シンデレラって、小人が歌ったり踊ったりするあれか?」
「それは白雪姫だよ……。ガラスの靴とかカボチャの馬車が出てくる話」
「ああ、そっちか」
「色でサンドリヨンの気持ちを表現したかったんだ。魔法にかけられて美しくなった瞬間の驚きと喜び、ガラスの靴で城の階段を上がっていくときの弾むような気持ち、はじめて知る恋の甘さ、それから十二時の鐘を待つ悲しみ……」
確かに、口紅を差した瞬間、菜摘は魔法をかけられたみたいだった。そして身内の贔屓を差し引いても、よく似合っていた。
「きれいだ」
吉崎が何気なく囁くと、槇野はびくりと肩を強ばらせた。
「よ、吉崎?」
「……とか、可愛いとか、もっとちゃんと褒めてやればよかったな」
「む、無理に言っても逆効果じゃないかな」
言うなり勢いよく身を引いたので、槇野の膝がローテーブルに激突してコーヒーがこぼれそうになった。いきなり妙なことを言って狼狽えさせてしまったようだ。
槇野は拳ひとつ分吉崎と距離を置いて座り直し、咳払いをして呼吸を整えた。
「菜摘ちゃんには十分君の気持ちは伝わってたと思うよ」
「でもなあ」
ラテン系並みの豊かな形容詞は期待できなくても、もう少し適当な言い方はなかっただろうか。吉崎は真顔で言った。
「きれいだ、可愛いよ」
「人で練習しないでくれ」
槇野は怒ったように顔を背けた。頬全体が赤くのぼせている気がする。
吉崎の頭にある疑惑がよぎった。
「ちょっと失礼」
ぺちんと乾いた音がした。
「……熱はないみたいだな」
左右の手をそれぞれ槇野と自分の額に当てて、吉崎はうなった。
数秒の硬直の後、思い切り手を払い飛ばされた。
「何するんだよ!」
「顔が赤いから、熱かと思ったんだよ。インフルエンザ流行ってるの知ってるか? うちの営業所もドミノ倒しみたいにバタバタ人がいなくなってさ」
「熱はないし、風邪も引いていない」
槇野は苦い表情でそう言うが、よくよく見ればやはり顔色が冴えない。そういえば、先週も同じように疲れていたことを思い出した。あれも週末だった。
吉崎は尋ねた。
「金曜は毎週忙しいのか」
「……そうだね。こっちに戻って来てからは」
「熱でも風邪でもなさそうだけど、元気でもなさそうだな」
槇野は諦めたようにソファの背もたれに体重をかけ、天井を仰いだ。
「昨日の夜、仕事でミスしてね。お客様からかなり厳しくお叱りを受けた」
「客の言いがかりじゃなくて?」
いや、と首を振った。
「完全にこちらの過失だ」
「らしくないな」
「らしくない……そうかもね。近頃、自分が自分じゃないみたいに思えることがある。今まで簡単に出来ていたことが、急にできなくなった」
「思いあたる節があるのか」
「ない訳じゃないけど」
槇野は口を閉ざした。吉崎もそれ以上追求はしなかった。誰しも、相談できる悩みとできない悩みというのがあるものだ。
ならば何が慰めになるだろう。槇野は愚痴で憂さを晴らす性格ではなさそうだし、酒を飲む雰囲気でもない。ひとりでいたいだろうか。そういう時もある。でも、なぜかはわからないがひとりにしたくない。
そのせつな、全身に電流が走った。
あれだ、あれしかない。今こそあれが必要なのだ。
吉崎はぼそりと呟いた。
「膝枕」
槇野の耳にはその単語が丸ごと素通りしてしまったようだった。反応がないので吉崎は繰り返した。
「膝枕だよ」
「……膝枕?」
悪い夢でも見ているかのように、ゆっくりとその言葉が咀嚼された。
「疲れてる時は膝枕なんだよ」
槇野は真顔で言った。
「たまに君と話してると、自分が別の次元に迷い込んだ気分になる」
消極的な反応にもめげることなく、吉崎はさあ来いとばかりに腕を広げ、自分の膝を示した。
「槇野、俺の膝に寝るんだ。遠慮するな」
「遠慮するとかしないとか以前の問題なんだけど……」
「俺もこの間昏倒しそうなくらい疲れてたことがあったんだが、膝枕してもらってびっくりするぐらい癒されたんだ。膝枕の力は侮れないぞ」
「その人の膝枕はよかったの?」
「最高だった」
槇野の顔がそこで一段と赤くなった。やはり熱があるんじゃないだろうか。
「……吉崎が投げてくるのは、変化球ばっかりだな」
ややあって、槇野は悩ましげに額に手をやった。学生時代、ピッチャーだった記憶はないのだが。
「変化球?」
「そうだよ。変化球で、しかも剛速球。言葉のキャッチボールって表現があるだろう? でも吉崎は、受け取る側のことなんて考えてない」
「そうか」
「でも、不思議と暴投にはならないんだ」
苦笑いを浮かべながら、槇野は半ばやけくそといった風に頭を腿のあたりに乗せてきた。
「そんなに言うんなら、お願いします」
槇野はこちらに背中を向けて、足は床につけたまま上半身だけ横になった。
「苦しくないか?」
「これでいい」
「目を瞑ったら、好きな女優でもグラビアアイドルでも、とにかく好きな人に膝枕してもらっているところを思い浮かべるんだ。たぶん、感触は男も女も変わらないはずだ」
「前に膝枕してもらったとき、吉崎もそんなこと考えてたのか?」
「いや、俺はしてない。別に必要なかったから」
少し考え込んでから、槇野は低く囁くように言った。
「……吉崎の顔しか浮かばないよ」
「それじゃ効果半減だな」
槇野は再び黙り込んだ。
あのとき、理世はどんな風にしてくれただろうか。思い出しながらそっと髪に触れた。
「触ってもいいですか」
理世の言動をなぞりながらだと、つい意味もなく敬語になってしまう。腰のあたりで、軽く頷く気配がした。
出来るだけ優しくしたいと思ったときに思い描いたのは、自分に触れてくる理世の指先と、菜摘に化粧をしていた槇野の指先だった。
「槇野は頑張ってるよ」
指で髪をすいているうちに、自然とそんな言葉が出た。事情を知らない人間が無責任に口にする、気休めと取られても構わなかった。
「だから、たまには肩の力抜けよ」
槇野は眠ってしまったのか、身じろぎひとつしなかった。
そうして、子供にするみたいに頭を撫でた。
「大丈夫、きっとうまくいくから」
ふと視線を落としたとき、きれいに手入れされたうなじのすぐ下あたりに、鬱血の跡があるのに気がついた。隠そうとしている様子はなかったから、本人は自覚していないのだろう。にわかに罪悪感がこみ上げてきた。
今の今まで思いつきもしなかったが、あのタイミングで会ったということは、仕事ではなく朝帰りだったという可能性もある。
清潔感のある身体のなかでただ一点、そこだけが生々しく情事の存在を強くにおわせていた。無意識にそこをなぞろうとしている自分に気がついて、吉崎は急いで指を引っ込めた。
五分くらいして、槇野は笑いながら起きあがった。
「膝枕、確かに悪くないかもな。いつの間にか意識が飛んでたよ」
人の頭を預かるというのは思いの外精神に緊張を強いるものなのか、吉崎にとっては馬鹿みたいに長い五分間だった。
誰かの唇がつけた痕跡は、まるで仕置きか見せしめのようで、おとぎの国から迷い込んだ王子さながらの槇野という男にある、ほとんど唯一の人間くさい部分だった。
いい年した大人が首筋に痣をつけて朝帰りをしたとしても、特別驚くほどの出来事ではない。だというのに帰宅してひとりになってからも、それは真っ白いハンカチに落ちた鮮やかな口紅の染みのように、いつまでもしつこく頭から離れなかった。