予定されていたすべてのプログラムが終わった後、稜介は高木に連れられて、建物の裏口から哉の控え室へと向かった。スタッフには高木の顔なじみも多くいたから、あっさりと中に通してくれた。
哉はソファに座りこみ、黒いタイをゆるめているところだった。
足を踏み入れたとたん、稜介は室内に満ちる厳しい空気に圧倒されしまって、得意の軽口も出てこなかった。
普段から服装にも言動にも隙のない叔父が見せた疲れた表情に、見てはいけないものを見てしまった気がした。
ただ疲れているだけではなくて、哉の周囲には、一仕事終えた人間の凄みのようなものが漂っていた。
哉はゆっくりと立ち上がりながら、二人を交互に見つめた。
「高木先生。……それに稜介、どうしてここにいるんだ?」
「お前に話があるみたいだぜ。じゃあ、俺は煙草吸ってくるよ」
そう言って退席しようとしたとき、高木はこっそりと耳打ちした。
「祖母ちゃんと一緒ってのは嘘なんだろう? 言いたいことがあるなら、ここで叔父さんにちゃんと話しとけ」
高木がいなくなると、急に静かになった。
稜介は敵からの攻撃に備えるように、全身を強ばらせた。
絶対に叱られると思っていたのだが、叔父は開きかけた口を一度閉じてから、平板な声音で尋ねてきた。
「ひとりで来たのか」
「来ちゃ悪い?」
「家には俺から連絡しておくからな」
まるで誰にも言わないで来たことを知っているような口振りだった。
稜介をソファに座らせると、哉は紙コップにペットボトルのお茶を注いで手渡した。
「ジュースでもあればよかったんだが」
はっきりと子供扱いされて、稜介は顔をしかめた。
「叔父さん、俺のこといくつだと思ってんの? ジュースで喜ぶ年じゃねえよ」
「……そうか。そうだったな」
哉はなぜか稜介の発言に驚いたようで、微かに目を見張った。
固いソファに向かい合って座って、しばらくの間、二人とも黙り込んでいた。
稜介は居心地の悪さを紛らわすために、少しずつお茶を啜った。
「叔父さんさ」
沈黙に耐えられなくなって、稜介が先に口を開いた。
「客席に挨拶するとき、もっと笑顔つくりなよ。何であんなに不機嫌そうなの?」
「笑ってるだろ」
「あれで?」
哉は心の底から意外そうに稜介を見返してきた。呆れた。あの仏頂面が、精一杯の笑顔だったというわけだ。
「ピアノもいいけど、もっと鏡見て笑顔の練習したほうがいいよ」
返答はなかったが、哉はちょっと考え込んだようだった。また沈黙が落ちるのが嫌で、稜介は畳みかけるように言った。
「公演、久々じゃん」
「そうだな」
「……疲れてんの?」
「当たり前だ」
溜息を吐いた哉を軽く睨みつけて、稜介は鼻を鳴らした。
「年寄りみたいなこと言うんだな」
「年寄りだよ。見ればわかるだろ」
別に年寄りには見えないけど、と本音を口にする代わりに言った。
「まあそうだけどさ、まだ引退するような歳じゃねえんだから、もうちょっとリサイタルやったら? 録音してCD出してさ」
「これから先、準備する時間が取れればな」
「今でも毎日練習してるのに、もっと時間が必要なわけ? どんだけ練習するの?」
唖然とする稜介に、哉は淡々と告げた。
「ピアノは指だけで弾くわけじゃない」
普段ならば揚げ足を取ってからうところだろうが、疲れたというよりも憔悴した様子の哉に言われると説得力があった。
ピアニストという人種はいったい何が楽しくて、こんなにも色々なものをすり減らして演奏しているのだろうか。
ふと、哉は何かを思い出したように顔を上げた。
「この後、どうするんだ?」
稜介は苛立ちを隠そうともせず、反射的に答えた。
「ピアノ? うるせえな、俺は……」
「いや、もう遅い時間だから、帰るのか泊まるのか。その話だ」
口から飛び出しそこねた荒い語気を引っ込めて、稜介は愕然とした。
哉の表情は変わらなかったが、そんなもの何の慰めにもならなかった。
ピアノなんて、もうどうでもいいと思っていたはずなのに。
今すぐにでも早とちりして発した言葉を取り下げたい。
哉の記憶から消し去りたい。
だが、そんなことは不可能だった。
恥ずかしさがこみ上げてきて、顔が赤くなっていくのを抑えられなかった。
「稜介」
「帰る」
勢いよく立ち上がって踵を返そうとしたところで、腕を掴まれた。振り解こうとしたものの、強い力に阻まれてうまくいかなかった。
「待て、帰るなら俺も……」
「離せよ!」
「離さない」
ほとんど叫ぶような怒鳴り声を、哉は静かに受け止めた。稜介は喉から出かかった罵声を、ねばつく唾液と共に飲み込んだ。
「お前が何を考えているのか、ちゃんと話してくれ。俺だって出来た人間じゃない。言葉にしてくれないと、わからないことだってある」
耳の奥に広がる声があまりにも温かくて、負けたような気がして、それが悔しくて、稜介は歯を食いしばって俯いた。
「ピアノをやめたいなら、それでも……」
「やめたくねえよ!」
あれほど頑なに否定してきたのに、不思議と一度口にしてしまうと、素直にその気持ちを認めることができた。
自分の声を他人のもののように聞きながら、呆然と繰り返した。
「ピアノ、やめたくない」
「……ああ」
「もっと弾きたい。でも」
「でも?」
「手が痛いんだ」
「いつからだ」
即座に厳しく問いつめられた。
いつになく余裕のない表情の哉に、稜介の方が面食らってしまった。
「一ヶ月くらい前」
「ちょっと見せてみろ。どっちだ?」
哉の勢いに圧倒されながら、おずおずと右手を差し出した。医者の問診のような質問をいくつかされて、冗談も挟まずに正直に答えた。
真剣な眼差しでじっくりと手の様子を観察してから、哉は小さく息をついた。
「痛めたとしても、恐らくかなり初期の段階だな。早めに治療すれば大丈夫だ。安心しろ。音楽家の故障に詳しい先生のいる病院を紹介するから、帰ったらみてもらえ。いいな?」
大丈夫だ。安心しろ。
力強い響きだった。たったその一言に安堵して、全身の力が抜けていった。
何か言いたいのに、言わなくてはならないのに、胸がつまって上手く言葉にならなかった。
哉は幼い稜介に向けたのと同じ困ったような表情をして、声を殺して泣く甥の額を自分の肩に押しつけた。
「泣くぐらいなら、はじめから人の言うことを聞け」
低く囁くと、哉は稜介の頭をぎこちなく撫でた。演奏中に緊張を漲らせていた手と同じとは思えないほど、その感触はただ優しかった。
叔父さん、何やってんだよ。
仕事用の高そうなタキシードが涙と鼻水で汚れるだろ。
そんなことを考えると、鼻の奥が痛くなり、また涙が溢れてくるのだった。
「悪かった。故障の可能性を、きちんと説明するべきだった。指導者として、一番大切なことを怠ったんだ。責任は俺にある」
稜介は無言で激しく首を振った。
悪いのは自分なのに、謝らないで欲しい。
こちらがみじめに思えるだけだ。
哉は長いこと黙って頭を撫でながら、稜介が落ち着くのを待っていてくれた。
やっと涙が引いてくると、叔父は新しくお茶を入れ直して、飲むように促した。そして自分も稜介の隣に腰掛けた。
哉は自らの手を稜介の目の前に示した。
「お前の手と俺の手、見た目だけでも、全然違うだろう?」
鼻をすすり上げながら、自分と哉の手を交互に見比べた。
言われてみれば、指の長さも、関節の位置も、爪の形も、もちろん指紋も、似たところを探す方が難しいくらいだった。
哉は続けた。
「例え同じ方法で練習を重ねたとしても、違う手で弾けば、違う音が出る。それがピアノの面白さでもあり、難しさでもある。ピアノを弾き続ける限り、何年も何十年も、いや一生の間、自分が納得できる奏法を探して……」
「一生? 苦しくないの?」
「苦しいさ。でも、自分の音楽はそうやって手に入れるしかない」
「苦しいのに、何で弾き続けるの?」
哉は返事をする代わりに、自分の右手を稜介の左手に重ねた。ひやりとしているはずなのに、叔父の大きな手には演奏の興奮が微かな熱となって残っているようで、触れた瞬間、胸がどきりとした。
答えはもう、お前の胸の中にあるだろうと言われている気がした。
「ショパンやリストと全く同じ手を持つ人間はいない、全く同じ演奏ができる人間もいない。お前の手だってそうだ。今までも、これからも、何億、何兆の人間がいても、布田稜介の右手と左手はこの世にそれぞれたったひとつだけだ。お前の音は、お前にしか弾けない、お前だけのものだ。だから」
その続きが哉の口から語られることはなかったが、何を言おうとしたのか、稜介には痛いほどよくわかっていた。
叔父はいつから気づいていたのだろうか。
彼に憧れて、その背中を追いかけて、指使いを真似していたことを。
それが身体への負担になって、今回の故障に繋がったことを。
重なり合った掌がふっと離れた。
握りしめた紙コップの中に、雫がいくつも滴り落ちた。
ごめん。
ごく小さな弱々しい声は、しかし確かに哉の耳まで届いたようだった。
結局、控え室を閉める時間ぎりぎりまで、叔父に背中をさすられながら気の済むまで大声で泣いた。
音楽祭の開催地に一泊する予定を変更して、哉と稜介は最終の特急列車で帰ることになった。
駅のトイレで何度も顔を洗ったが、泣きはらした目はまだ腫れぼったかった。車窓にみっともない顔が映る度、苦笑いせずにはいられなかった。乗客が少ないのがせめても救いだった。
哉は正面の席に座って新聞を読んでいた。
することがなくて、する気力も起きなくて、でも暇を持て余して、適当に話を放り投げた。
適当な雑談に、適当な返事がかえってきた。
ひとつ目の停車駅に着いたとき、稜介はぽつりと尋ねた。
「叔父さん」
「何だ」
「ピアニストになれてよかったね。なれてなかったら、ピアノが好きすぎるただの変な人だぜ。違う?」
「……否定はしない」
「和臣先生がいてくれてよかったね。ふつうの女の人じゃ、とっくに愛想尽かされてるよ、絶対」
叔父の唇はぴくりとも動かなかったが、否定しないということは、つまり肯定の沈黙なのだろう。
「ピアノやめようと思ったことあるの?」
哉は新聞に目線を落としたまま言った。
「あるよ。白瀬先生にやめるとも言った」
「何かあったの? きっかけみたいなの。先生と喧嘩したとかさ」
「きっかけ?……忘れたよ」
黒く塗り込められた車窓に視線を移すと、哉は呟くように言った。
「引き留めてほしかっただけかもな」
その時ちょうど運悪く車内アナウンスが流れて、鼻についたような車掌の声に最後の言葉はかき消されてしまった。
「え、何? 聞こえなかったんだけど!」
稜介の問いかけを無視し、新聞を膝に置くと、哉は腕を組んで目を閉じた。
「寝る。着いたら起こしてくれ」
「ちょっと叔父さん、寝たふりすんなよ!」
稜介の文句は、もう哉の耳には届いていなかった。あっという間に眠り込んでしまったのだ。
珍しいものでも見るように、稜介は熟睡する叔父をまじまじと注視した。
旅慣れた哉はどこでも好きなときに寝られるというような話を和臣から聞いたことがあったが、本当だったのかと妙に感心した。
穏やかで無防備な寝顔はどこか幼くて、いつもの厳格さはどこにもなかった。
周囲に漂う眠気に誘われて、稜介もゆっくりと瞼を下ろした。
もしこのまま寝過ごして終点まで行ってしまったら、タクシーで帰ればいい。もちろん支払いは叔父持ちで。
腕に頭を預けてうつらうつらしていると、微かな寝息が聞こえてきた。
心地よく揺れる薄明るい闇の中、すぐ側で眠っているのは稜介の叔父でも、大人の男でも、有名なピアニストでもなかった。
くそ真面目で笑顔が下手で、慇懃無礼で、何よりピアノが好きで好きでたまらない、稜介と同じ年頃の少年だった。
数日後、哉に紹介された病院に行った。哉が一緒に行ってくれる予定だったが、どうしても抜けられない仕事ができてしまい、和臣が付き添ってくれることになった。
家を出るとき、親は申し訳なさそうに何度も和臣に礼を言って、逆に和臣の方が恐縮していたくらいだった。大人たちの話し合いの結果、ピアノに関する専門的な怪我だから、事情のわかる人間が付き添った方がいいだろうという結論に達したらしかった。
診断結果は、筋肉痛の一種。
何回か通院する必要はあるが、ほどなく完治するだろうという話だった。
「よかったね、腱を痛めていたわけじゃなくて」
帰り道、和臣は朗らかに言った。
「完治すれば、今まで通りピアノも弾けるようになるよ」
「あの、和臣先生」
「何だい?」
稜介は言葉を途切れさせて、気まずそうに俯いた。
レッスンの時に哉があれほど怒ったのは、たぶん和臣のことを侮辱するようなことを言ったからだ。
「……すみませんでした」
和臣は謝罪の理由を問いただそうとするでもなく、意気消沈した稜介に優しく尋ねた。
「稜介くん、飴食べる?」
そう言うと、ポケットから飴を二つ取り出した。
「黒飴とかりん飴、どっちがいい?」
突然飴を差し出されて、心を覆っていた暗い気分が一気に吹き飛んでしまった。
「それ、どうしたんですか?」
「君が検査をしている時に、病院の待合室で貰ったんだよ」
「知り合いに?」
「いや、面識のないお婆さん」
またか、と思うだけで、別に驚きはしなかった。
和臣と一緒にいると、見ず知らずの女性、特に老女から食べ物を貰ったり、道を聞かれたり、長々と身の上話を聞いたりする羽目になる。哉との外出の時には絶対にありえないことだ。
じゃあこっち、と稜介は黒飴を摘んだ。
一度謝ってしまうと調子が出てきて、からかい半分に聞いてみた。
「和臣先生って、叔父さんのどこが好きなの?」
実は哉にも以前同じ質問をしたことがあったが、上手くはぐらかされたのだった。ひねくれた叔父と違って、和臣ならばひょっとしたら本音を漏らしてくれるかもしれない。そんな打算もあった。
「考えたこともなかったよ」
少し考える素振りをみせてから、和臣はごく自然に、あっさりと言い切った。
「つまり全部かな」
そうですか、と生返事をしながら、稜介は焼け付くような甘さの飴を無心でかみ砕いた。
どこからともなく、哉の声が聞こえてくるようだった。
ほら言っただろう、大人をからかうからこういうことになるんだ。
叔父さんの言うとおりだよ。俺が悪かったよ。
やるせない気持ちで、胸が苦しいよ。
「どうした?」
穏やかに微笑む和臣の顔を見つめていると、哉が急に可哀想に思えてきた。
どんなに頑張ったところで、叔父はきっと、この人に一生かなわないのだろうと。
その夜は、和臣と哉の家で夕食をご馳走になった。
料理するのが哉だと知って、稜介はこっそり安堵の息をついた。
和臣は茶を入れるのは上手いが、料理は絶望的に下手だった。ありきたりの材料を使っているのに、どうしてあんな不味い料理ができるのか、ちょっとしたミステリーだった。味の焦点を見失った料理は咀嚼するのに苦労するほどで、平然と平らげることができるのは哉くらいのものだろう。
一方の哉は、持ち前の几帳面さと完璧主義を遺憾なく発揮して、驚くほど美味しい料理を作り上げる。だが完成度を追求するあまり、食事の時間が大幅に遅くなることも少なくなかった。
二人とも極端なんだよな。
料理に限らず、日常のそこかしこに芸術家気質の片鱗を感じる度に、稜介は嘆息を漏らすのだった。
「和臣先生、温泉行きましょうよ」
食後のお茶を飲んでいる時、稜介は甘えるように和臣に寄りかかった。哉の眉が心持ち上がったように見えたのは、気のせいではないだろう。
「今度祖母ちゃんが、手の痛みにいいって評判の温泉に連れて行ってくれるんだ。だから一緒に行こうよ、ね?」
「嬉しいお誘いだけど、ご迷惑じゃないかな」
「大丈夫大丈夫。和臣先生もって、言い出したのは祖母ちゃんだから。哉叔父さんと温泉とかよく行くの?」
そういえば、と和臣は顎に手を当てた。
「行った覚えがないな。そもそも旅行自体、ほとんどしたことがないからね」
「一回も?」
「ああ。休みがなかなか合わなくて」
稜介はここではじめて叔父の存在を思い出したかのように、哉をちらと見やった。
「じゃあ、叔父さんは無理だね。忙しいもんね、仕事とピアノの練習で」
哉はいつにも増して憮然とした様子で言った。
「別に、行かないとは言ってない」
「いいよ、来なくても。和臣先生なら祖母ちゃんも喜ぶけど、叔父さんと一緒でも特に嬉しくないだろうし」
叔父と甥の視線が交わり、食卓に火花が散った。
しばしの沈黙の後、哉が重い口を開いた。
「前から言おうと思っていたんだが、その馴れ馴れしい呼び方はやめろ。大人を気安く下の名前で呼ぶんじゃない」
「和臣先生のこと?」
稜介はやや上目遣いで、和臣を見た。
「和臣先生は和臣先生だよ。先生、だめですか?」
「構わないよ」
「ほらね。それに、哉叔父さんのことだって下の名前で呼んでるだろ」
「俺はいいんだよ。親戚なんだから」
「じゃあ問題なしだ。だって、和臣先生は哉叔父さんの家族でしょ? だったら、俺にとっても親戚と同じだよ」
稜介が明るく言うと、哉はぐっと言葉をつまらせた。
息の根を止めるには今しかない。
稜介は攻撃の手をゆるめなかった。
「だいたい叔父さんだって、俺がいないときは和臣さんって呼んでるし」
「適当なことを言うな。お前の想像だろう?」
「想像じゃねえよ。この間、音楽祭やった街で一泊する予定だったのに、急に帰ることになったじゃん? 電話で帰るって連絡したときに、和臣さんって呼んでるの聞いたもんね」
哉は一瞬絶句した後、決まり悪そうにお茶を全部飲み干した。
君の負けだね、と和臣は哉に微笑んで言った。
「やべえ、鍵忘れた」
二人に別れの挨拶をしてから、いざ帰ろうと自転車の前かごに荷物をおいたとたん、居間に自転車の鍵を忘れたことを思い出した。
「入りますよ。入っちゃうよ」
玄関から声をかけても返答がなかったので、稜介はそろそろと忍び足で二階にある居間に向かった。
棚の上にあった鍵をむしり取って素早く階段を駆け下りているとき、一階の奥の部屋からピアノの音が流れてきたのに気がついて、稜介は顔を上げた。
その瞬間、雷に打たれたように動けなくなった。
あのトロイメライだ。
聞き間違えるはずがない。和臣が弾いているのだ。
溜息を重ねていくような滑らかで繊細な動きで、和臣の指が夢の世界を紡いでいく。
しかしこの前と同じように、次第に右手の打鍵が重くなっていった。
重く、重く、重く……。
美しい夢が壊れていく様をもう一度聴く気にはなれなくて、稜介は踵を返そうとした。
すると、急に調子変わった。
力を失って鍵盤から滑り落ちかけた音を、誰かの指先が拾いあげた。
確かめなくてもわかる。
和臣を支えるように、哉が右手を補って弾いているのだ。
夢は続く。夢は巡る。
夢は終わらなかった。
夜空に描かれた子供たちの夢の国は、新しい命を得て、再び鮮やかな色を取り戻した。
次に少しの間をおいて聞こえてきたのは、哉が弾くショパンの英雄ポロネーズ。
和臣はきっと、哉の横で聴いているのだろう。
だが曲が進むにつれて、稜介の胸に疑問が兆した。
叔父のピアノであることに疑いはない。
それなのに、いつもの音とは全く違う。要所要所で力が入りすぎているような気がした。何よりミスが多い。哉の打鍵の確実さは有名で、機械のようだとさえ比喩されているというのに。
まるで稜介と同い年の男子が、好きな人の前で格好付けて弾いているような演奏だった。
明るく自然な指使いで描き出された若い英雄は、力強く大胆で、恐いもの知らずだ。その一方で、勢いが先走って、技巧に荒さが目立ち、音を外してばかりいる。
コンクールだったら、真っ先に落とされるようなピアノだった。
でも、と稜介は思わずにはいられなかった。
いつもの小難しい演奏より、このきらきらした眩しいポロネーズの方がずっと好きだ。
それから最後に二人が弾き始めたのは、耳にしたことのない連弾曲だった。
「うわ!」
優しく甘いその旋律を聴いて、稜介は思わず声を上げて吹き出してしまった。
好きな人と連弾できることが、嬉しくて嬉しくて仕方がない。
そんな気持ちが率直に伝わってきて、聴いているこちらの方が恥ずかしくなってくる。
「勘弁してよ……」
屈託なく、弾けるように、子供みたいにはしゃいで。
音楽は音を楽しむものじゃないとか偉そうに言っておいて、自分が一番楽しんでるんじゃないか。
ほとんど仏頂面しか見せたことのない哉が、どんな顔をしてこの曲を和臣と弾いているのか考えると、笑うしかなかった。
笑いすぎて胸が痛くなって、目の端から涙が出てきた。
「あれ?」
もう笑い飽きたし、いい加減に止まれよと思うのに、涙はちっとも止まらなかった。
「何これ、意味わかんねえし」
どんなに掌で拭っても拭っても、次々と目から流れる熱い液体と鼻水に汚されて、気持ちも顔もめちゃくちゃになった。
「意味わかんねえ……」
これも高木が言っていた、呪いの一種なんだろうか?
すすり泣きと優しいピアノの音しか聞こえない、静かな秋の夜。
こうして、憧れとも恋ともつかないささやかな思いは、甘くて苦い涙と一緒に、人知れず泡のように弾けて消えたのだった。
実はピアノをやっている。
手の調子がよくなった頃、緊張を隠してふざけ半分に友達に告げたら、あっそう、やっぱりね、というあっさりした反応が返ってきただけだった。自分が思うほど皆他人に感心がないのだと知って、安心したような、寂しいような気持ちになった。
叔父は仕事で人前に出るようなことがあると、ほんの少しだけ笑顔を見せるようになった、気がした。年のせいで性格が丸くなったのか、鏡の前で練習したかのどちらかだろう。聞いたところで教えてくれるはずもなく、真実は闇の中だ。
合唱コンクールの伴奏をつとめたときには、好き勝手なアレンジをして先生にこっぴどく叱られた。でも、生徒たちからは体育館が割れるほどの拍手をもらえた。最高の気分だった。
陸上部の活動は、ピアノの練習と調整しながら何とかこなしていた。もしまた地方大会に出場することになったら、ピアノと両立できるのか不安だった。それでも、手を抜くつもりはなかった。だが、三年の春に行われた地区大会、最後の最後で失速した稜介のすぐ横を、驚くほどの粘り強さをみせて走り抜け、ゴールテープを切ったのは国井だった。稜介のタイムは地方大会の出場ラインに届かなかった。自分が代表に選ばれたと知って、国井は静かに嗚咽していた。
その後もピアノは続けていたし、コンクールにも何度か入賞したが、ピアノそのものというよりは、人間関係や慣習といったクラシックを取り巻く世界に上手く溶け込むことができずに、いつしか身も心も疲れ果ててしまった。そんな高校時代、ジャズと出会った。
後年、ピアノで何とか食いつないでいけるようになったのは、あの二人のおかげだと思っている。
クラシックからジャズに転向するとき、周囲からはかなり厳しく反対された。一時の気まぐれで人生を左右するような決断をするんじゃない、指導者の顔に泥を塗ることにもなると。しかし、哉と和臣だけは黙って背中を押してくれた。相談した覚えはなかったけれど、たぶんずっと悩んでいたことを知っていたのだと思う。
高校卒業と同時にアメリカに留学したものの、留学から数ヶ月後に父が急死した。学費や生活費の問題以前に、母親ひとりを働かせて、自分だけ呑気に音楽の勉強するなんてできないと思った。帰国して就職しようと決心したのを説き伏せて、さらに勉強が続けられるように金銭的な援助までしてくれたのも、叔父たちだった。
そこではじめて母から教えられた。月謝として哉に支払っていた金は全くの手つかずで、一度親の元に返されて、普段使っているものとは別の口座にこっそり積み立ててくれていたそうだ。学費などの足しにしてくれてもいいし、もし使わないようだったら、学校を卒業して独り立ちするときにでも通帳ごと渡してくれと。父親の葬式でも泣かなかったのに、その話を聞いて、堰を切ったように母の前で号泣してしまった。
相変わらず哉にはよく叱られ、抵抗し、大喧嘩した。大人になってからも、意見の違いから衝突することはしょっちゅうだった。
けれど十代で父親を亡くした自分が、誰かと静かに晩酌をしたい、答えの出ない相談事がしたい、漫然と音楽や仕事の話をしたいと思ったとき、とっておきの美味い酒を片手に訪れるのは、いつもあの家だった。
ずっと後にわかったことだが、叔父はその演奏家人生で、ひとつだけ作品を残していた。
哉と和臣が弾いていた、あのピアノの連弾曲だった。
四つの手が互いに支え合い、労り合うように流れる甘く優しいテンポ。ごく緩やかな右手の動き。弾く人間の体温が感じられそうな、柔らかく滑らかな旋律。
叔父らしく細部まで丁寧に書かれてはいるが、残念ながら音楽史に名を刻むような傑作ではなかった。
人々の心に感動を惹き起こすことも、嵐のような喝采を受けることも、大勢の演奏家に弾いてもらうことも、世の中に広く認められたいとも望んでいない、掌に収まるくらいの小さな小さな音楽。
それは、たったひとりの手のために作られた曲だった。
音楽を仕事にしてきて、天才と呼べる人間には何人も出会った。
心震えるような、素晴らしい曲もたくさん知っている。
それなのに、たとえば酔いを醒ますために夜道を歩いているとき。
パーティの喧噪から離れたとき。
ライブを終えて、ひとりになって、興奮を持て余しながら帰途につくとき。
ふと見上げた月が綺麗に見えたりすると、思い出すのは決まって、あの夜聴いたピアノの音色だった。
大切にしまっておいた思い出を味わいながら、そっと口ずさむ。
甘く、甘く、どこまでも甘いあの調べを。
(終)