グンテルの願いは空しく終わり、幾つもの朝と夜とを数えても、雨はついにやむことはなかった。
王は薄暗い執務室で、ひとり嘆息を重ねた。
隣国から放たれた使者の持参した文書には、読むだけで腹の底が冷えてしまいそうな情け深い見舞いの文句が連ねてあった。また、求めあらば喜んで援助の手を差し出すとも。
その対価となるのは国境の土地か、宝物庫に眠る財宝の数々か、河や街道の利権か。グンテルの治める小国よりもはるかに豊かな領土と強い兵らとを持つにも関わらず、王らはなおも力を求めている。端正に綴られた文字のひとつひとつにすら泥のような私欲が染み込んでいるようで、グンテルは忌々しげに羊皮紙を卓の脇へとおいやった。
王は椅子から腰を上げると、供もつけずに、前庭を通って城門の方向へと歩きはじめた。外套も被らずに外に出たものだから、霧雨に晒された頬が針で突かれたようにぴりぴりと痛んだ。
昼間だというのに人の出入りもなく、城内は水を打ったようにしんと静まりかえっている。例年であれば前庭には各領地から税を運んできた使者たちで溢れ、昼となく夜となくにぎわっているものなのだが。
相も変わらず雨に対する策はなかった。
唯一の希望と縋り、森の賢者に使いを出したのは数週間前のこと。古今のあらゆる理を知る賢者であれば、何かよい知恵を授けてくれるかもしれぬと期待してのことであったが、応じた弟子によれば、賢者は西方の街に書物を求めて旅に出、しばらくは戻らぬという話だった。しばらく、その言葉の示すところは賢者の気まぐれによって、数日にも、数年、数十年にもなろう。
グンテルは再び長く息をつくと、己の拳を強く握りしめた。王冠の重みとは、すなわち孤独の重みである。どれほど悩み、苦しもうとも、何者にも弱さを晒すことはできぬ。頼ることもできぬ。
だが、人ならざるものであれば。
そう思ったとたん、幾度も忘れようと試み、しかし決して忘れることのかなわなかった、竜の眼が脳裏に思い浮かんだ。
「……馬鹿馬鹿しい」
「陛下。外套もなく外に出られては、お風邪を召されます」
低く呻いたとき、背後から声をかける者があった。グンテルは、物憂げな表情を瞬く間に消し去って振り向いた。
そこにいたのは、王よりも少しばかり年かさの青年であった。名はヒンクマル。グンテルの生母の兄の子、つまりは従兄である。国でもっとも有力な領主の子でもあり、彼の父は見聞を深めさせるため、そして自らの一族の地盤をより強固にするため、息子を城に送り込んだのだった。
だがヒンクマルは政よりも女と詩とを好む優男で、父の期待に添えているとはとてもいえないのは明らかだった。
すぐ側に控えていた下女が王の肩に恭しく外套を掛けるのを見届けると、ヒンクマルはグンテルに尋ねた。
「隣国から使者があったとか?」
卓上の書簡に思いを馳せながら、グンテルは頷いた。
「ああ。助力の手を惜しまぬとな」
「ならば、なぜ受けないのです?」
「代償が大きすぎるからだ」
「少しばかりの代償など! それともこの窮地を救う手だてが、他にあると仰るのですか?」
窮地を救う手だて。政に疎いヒンクマルは無邪気に言うが、隣国から多少の食料が届いたところでせいぜい城の人間が数日食える程度、すべての領民に与えることなど絶対にできない。雨が降りやまぬまで困窮し、求め、また困窮し、また求めてを繰り返していれば、返済のあてのない借りは際限なく膨らみ、やがてこの国を押しつぶしてしまうだろう。
「しかし……」
グンテルは眼を細めて、なおも空虚な理想論を並べ続ける従兄を見つめた。
ヒンクマルとその父が王座を狙っていることは薄々感じている。だが、この考えの足らぬ男が王となれば、国はみるみるやせ衰えてしまうに違いなかった。
もっとも、グンテルとて国の困難に手をこまねいている状況だ。今はヒンクマルの浅慮を嘲笑する資格はない。
王は呟くように口にした。
「領地の実状を見分できればよいのだがな」
「この雨の中をでございますか。おやめください。王が病に倒れでもしたら、それこそこの国は終わりです」
ヒンクマルの唇から、どこか芝居がかった長い嘆息が零れた。
「……この雨ときたら、一体いつやむことやら。知らぬうちに水の神を怒らせでもしたのでしょうか」
「鼠みてえな餓鬼め、どこから入り込んできた!」
と、グンテルの耳に、兵と思しき男のだみ声が飛び込んできた。二人は何事かと顔を見合わせて、ほとんど同時に城門の方角へと視線を転じた。
「さっさと表に出やがれ。槍でぶっ刺されてえのか!」
槍で小突かれながら屈強な兵に追い立てられているのは、ほんの小さな子供だった。げっそりと痩せこけた手足は灌木の枝のよう、服と言えばぼろぼろの布切れがようやく皮膚に張り付いているような有様だ。
みすぼらしいなりの子供に眉を顰めつつ、ヒンクマルが呟いた。
「職を求めてやってきた親なし子かな。騒ぎを起こさぬよう、注意して参ります。失礼を」
グンテルはしかし、今まさに立ち去ろうとするヒンクマルに並んだ。
「私も行く」
ヒンクマルは驚きに眼を丸くした。
「何を仰います! 王たるあなたのお手を煩わせるようなことでは……。それに、あの骨と皮ばかりの四肢ををご覧ください。病を抱えているやも」
「だからこそ、行くのだ。あの子供が領民のひとりであれば、何か訴えがあるのかもしれぬ。それを聞くのが王たる私のつとめだ。もし病にかかるようなことがあれば、それも神々の思し召しだろう」
泰然と言い切る王に、ヒンクマルは侮蔑とも困惑もつかぬ、奇妙な表情を浮かべた。
「さすがは陛下。下民にすら公平でいらっしゃる。……待て、その子供を打つな! 王命であるぞ!」
ヒンクマルが叱責を飛ばしたのは、ちょうど兵が子供の尻を槍の柄で殴ろうとしていたときだった。
主君の姿を見とめると、髭面の男は子供の腕を放して膝を折り、土に額をこすりつけた。子供はよろめいて、その場に力なく座り込んだ。グンテルは怒るでもなく、またなじるのでもなく、静かに問いかけた。
「何をしている」
「は、この子供が荷に紛れて許しなく城に立ち入ったため、罰を与えておりました」
喉を激しく震わせる男とは対照的に、グンテルの声音はごく穏やかであった。
「この城で人に罰を与える権限を持つのは、私だけだ。そうではないか?」
「は、左様でございます!」
グンテルは男の言葉の終わりを待たず、少年に向き直った。何が起こったのか事態を飲み込むことができないようで、干からびた薄い唇をぽかんと開けている。
少しの間無言で目線を交えたあと、王はおもむろに膝を折った。衣の裾が跳ねた泥を浴びて汚れた。
ヒンクマルは仰天して悲痛な叫びを上げた。
「おやめください! 王の権威が穢れます!」
「そなたは黙っていろ。おい、子供。私がこの国の王だ。何か話があるのではないか」
ようやく自分の置かれた境遇を理解したのか、子供は崩れ落ちるようにして拝礼した。頭の下から、嗚咽が漏れ聞こえてきた。途切れ途切れの言葉を必死に口にする様子は、哀れを誘った。
「はい、陛下。俺の、俺の妹が……」
「妹がどうした?」
「母ちゃんの乳がでなくて、死にそうなんです。家畜も全部死んじまって、領主様も村ごと見捨てなさって、大人もどんどん倒れてって。だから、俺、山羊の乳を分けてもらいたくて、ここまで旅してきたんです。王様の城には、食い物がたくさんあるっていうから」
興奮と学のなさゆえ、話の内容は要領を得ないものだった。だが、グンテルはその拙い語の奥にあるものを察し、苦みと共に飲み込んだ。
ここしばらく、王その人が口にする汁にすら肉片が浮かぶか浮かばないかという質素なものであるが、農夫たちの暮らしはまさに泥水をすすり、雑草や屍肉を食らうしかないような有様なのだろう。
「何という村だ?」
それまで憮然と黙りこんでいたヒンクマルが口を挟んだ。
はい、と子供は怯えたように何度も頷き、北にある寒村の名を口にした。グンテルの耳にも聞き覚えのある響きだった。ほんの数刻前、家令の報告にのぼっていた村だ。
「そうか、それは」
急に語調を柔らかくしたヒンクマルの瞳に、憐憫によく似せた嗜虐的な光が浮かんだ。
「食物を持ち帰るには、少々遅すぎたようだな。今朝方着いた早馬の報告によれば、その村の人間は死に絶えたそうだ。流行病が広がり、一夜にしてすべて」
少年は絶句し、煌々と輝く大きな眼で抉るようにグンテルを仰ぎ見た。その強い眼差しに射すくめられたようになって、王は睫の一本すら動かすことができなくなった。
「父ちゃんはいつも言ってました。王様は神様のような御方で、できないことは何もないって。……お願いです、村の皆を助けてください」
そうして地面に突っ伏し、助けてください、助けてくださいと小さく喘ぎながら、声を殺して泣いた。
誰も言葉を発するものはいない。沈黙で息が詰まるようだった。ヒンクマルは困ったように王と子供とを交互に見やった。
「この子供にひとまず何か温かいものを。処遇は追って言い渡す」
そう命じると、何かもの言いたげな従兄を残し、グンテルはひとり城内へ戻った。執務室の重い扉を押し開けた瞬間、地下への入り口を隠した綴れ織りが真っ先に目に入り、それまで人形のように抑揚のなかった面に激しい熱情が迸った。
怒り、悲しみ、憎しみ。
王として抑えていた感情が、一気にあふれ出た。
……この地を守るためならば、神にその身を捧げてもよいと、一度でもお思いになったことはないのですか?
グンテルは松明の煤に汚れた織物を握りしめ、手の甲に額を押し当てると、血が滲むほどきつく唇を噛みしめた。
「お待ちしておりました、陛下」
静かな微笑を浮かべる半竜に、グンテルは唾を吐きかけたい気分だった。両者の間には、沈黙でも抑え切れぬ殺伐とした空気が流れていた。
牢の扉を開けるよう命じると、老婆は首に下げた鍵を手におずおずと錠を外した。先だってやってきたときには夜着のみであったが、今日は腰に剣を佩いている。無防備に丸腰で近づいて、喰い殺されるようなことがあってはならないと思ったのだ。
「内密の話がある。しばらく下がっていろ」
下女はよく慣れた家畜のように大人しく王の命令に従い、足を引きずりながら丸めた背中を闇に溶け込ませた。
グンテルはしかし、牢の中に入っても相手に距離をおいて、腕の長さ以上には近づこうとしなかった。
「往生際の悪い御方だ!」
若者は呆れたように息を吐き、王に一瞥をくれた。
「貴様、その口の利きようは……」
「ご高説は結構。竜の眼をお求めなのだと短慮しておりましたが、私の思い違いでしょうか?」
肯定の返事を投げる代わりに、グンテルは屈辱に耳を染め、竜から眼を逸らした。その通りであるが、口にすることは絶対にできなかった。
頑なな態度をとり続ける王に業を煮やしたか、男は誘いかけるように、あるいは挑みかかるようにグンテルの正面に立った。視線の高さは同じほど、人型の半竜の方がやや細く身のこなしがしなやかである。
竜は冷淡に告げた。
「あなたが拒もうと拒むまいと、私には何ら利も害もないのですよ。用がないのならば、疾くこの場から去っていただきたい。これ以上、あなたの煮え切らぬ態度に付き合って、我が暮らしの平穏を妨げられるような義理はありません」
慇懃でありながら、研ぎ澄まされた刃のように鋭い言葉だった。その冷たい痛みに目が覚めたようになって、グンテルはようやくここに来た目的を思い出した。
グンテルはこの領国でただひとりの王である。父祖から受け継いだ血の盟約に従い、民と領地とを守る責務を全うせねばならない。たとえそのために、己の名誉が穢されようとも。
決意とも諦念ともつかぬ、いやその両方の混じり合った表情が、王の面に広がった。
「その、腰に下げた無粋なものを置いていただけますか」
グンテルは頷きもせず、固い表情のまま無言で剣帯を外した。石床と鞘とが打ち合って、ごとりと鈍い音がした。
「それから衣服も」
簡素な仕立ての夜着は、腰紐を解いただけで容易く肌から滑り落ちた。よく鍛えられた裸身が露わになる。半竜はつれない素振りでそれを眺め、おもむろに指を鳴らした。すると、竜の妖しい力のなせる技であるのか、あたりを柔らかに照らしていた光が、吐息を吹きかけた如くふっと消え失せた。
グンテルの姿も、竜の姿も、闇に溶け込んで完全に見えなくなった。ひた、ひた、と自分のものではない足音がした。両者の距離が徐々に縮まっていく。グンテルはきつく唇を噛みしめた。狩猟の獲物さながら、王である自分が追い立てられている。身も心も。
従順に負けを認めるなど矜持が許さなかった。グンテルは傲岸な声音で竜を牽制した。
「もし貴様の話が虚言であれば、この場で叩き斬る」
しかし、竜は王の権威を軽くいなした。押し殺したような笑い声が、耳元をかすめた。
「威勢の宜しいことで。どうぞお心のままに。すべてを終えたあと、なお私が御不興を賜るようでしたら」
気づけば、半竜の吐息はすぐ間近に迫っていた。突如闇から伸びた腕に腰を抱かれ、思わず怯んで全身が石のように強ばった。細い手足と思っていたが、その動きはしなやかな鋼のようで、存外に力強い。
竜の口から忍び笑いが漏れた。
「妻はなくとも、王であるあなたがひとり冷たい寝床で過ごす夜などないでしょうに。それが乙女のように恥じらっておられるとは」
背中を壁に押しつけられる。そのまま顎を強引に上向かせられた。唇を合わせられるようならその柔らかい皮を噛みきってやろうと身構えたが、いつまで待っても口腔は空のままであった。
半竜は、黙ってグンテルを見つめているようだった。その逡巡のような仕草を不可解に思って、挑発めいた声が喉を突いた。
「どうした。往生際が悪いのは、そなたの方ではないのか?」
拙い煽りに応じることもなく、竜はそのまま唇をグンテルの首筋に沿わせた。肌にまとわりつく男の身体はひんやりとしていて、まるで泉の水でこしらえた人形にしがみつかれているようだった。
けれど頸骨を味わう細い舌は焼き鏝のように熱く、皮膚に痛みを感じるほどにざらついていて、唾液にも粘りがある。明らかに人のそれとは全く感触が違った。
当然ながら、その愛撫には女たちの手に満ちる労りも優しさもなかった。食欲を思わせるような、剥き出しの欲望をぶつけられている気分だった。竜に人と同じような衝動があるのかはわからぬが。
ふと股の内側に濡れるものが当たった。それが隆起した性器だと気づいた瞬間、背筋が粟だった。全身を支配したのは、氷のような恐れだった。
嫌だ。嫌だ、嫌だ!
叫ぶより思うより先に、固く握った拳が竜の顎あたりを狙って振り上げられた。
「勇ましい御方だ。戦場ばかりでなく、床の上でも」
半竜はしかし、闇から繰り出された一撃を細腕で易々と受け止めた。どんなに力をこめても、握られた手首はぴくりとも動かなかった。グンテルは愕然と目を見開いた。屈辱感とそれに勝る圧倒的な恐怖を自覚するのに、長い数秒を要した。
きつく結んだ唇に血が滲んだ。黄金の冠を戴く王であり、誉れ高き戦士であり、屈強な男である自分が、力勝負に敗北したのだ。このけだもの如きに。
「何かするたび殴られていては、こちらの身が持ちません」
男は呆れ声で手を解くと、強引にグンテルを後ろ向かせ、肩を壁に押しつけた。
「殴りたければ、お気の済むまで壁にどうぞ」
冷淡な言葉を放ちながら、竜はその場に膝をついて、グンテルの脚の間に顔を埋めた。両の手の親指で後部を押し開かれ、地下のひやりとした冷気が粘膜に触れる。と、乾いたそこにすぐにねっとりと濡れたものがあてがわれた。その意味を察した王は、背筋を駆け上がって迫る生々しい感触に、なすすべもなく息をつめた。
褥で身をくねらせる放埒な女たちですら、このような不敬な行為で王を脅かそうとした者はいなかった。排泄のためにしか存在していなかったものを舌で弄ばれるおぞましさが、数多の古傷が走る背中をびくりと震わせた。
唾液か、それとも別の体液か、ともかく不快な何かが脚の間を滴り落ちて、裸足の踝を濡らした。足の指先に力を入れて嫌悪をやりすごそうとしたとき、竜の舌が後孔から離れた。
ほっと安堵するやいなや、そこに固いものがあてがわれた。指だ、と思う間に、ぷつりと膜を破るような刺激を合図に、ゆっくりとかき回す動きで内部に進入を果たした。直に臓腑を抉られ、まさぐられる不快感は、月並みな言葉ではとても言い尽くせるものではなかった。
「恐ろしいですか」
竜が背後から、火で炙った蜜のように熱い吐息を絡ませてきた。右の手の指を奥へ奥へと進ませながら、竦んだままの性器をもう一方の手でいたぶる。
そのようなことはないと強く言い切ると、喉の奥でくつくつと笑う気配がした。
「失礼致しました。王たる御方に手加減を試みようなど、不敬極まりない行いを」
慇懃な語調に相反するような乱暴さで、指がさらに深くへと埋められた。すると、それまで真っ直ぐ進んでいた不埒な闖入者が、ふと気がかりを思い出したかの如く、折れ曲がり、優しく撫でさするような動きをみせた。
「……あ」
まるで男を銜えこんだ女のような嬌声が、他ならぬ自身の唇から漏れたものとはとても信じがたかった。不意をつかれて与えられた衝撃に、全身が打ち震えた。膝から力が抜けて、図らずも腰を抜かしたような格好で床上に崩れ落ちた。主の意に反して存在を誇示しはじめた中心から、熱い蝋の滴りに似たものが溢れる。止まれと願うのに、止まろうとしない。
うなだれるグンテルの背中を追って、男の固い重みがしかかってきた。次の瞬間、両の脚が押し開かれたと思うや、腰のあたりに太い杭を打たれたような鈍い痛みが走った。グンテルは大地に救いを求めるが如く、露に湿った土に指先を強く食い込ませた。
しかし救いの手を差し伸べるどころか、地の霊は黙して王の痴態を下から眺めるだけだ。
「初めて知る男の味はいかがですか。……思いのほかきついな。それに、燃えるように熱い。まるで処女のようだ。ほら、膝がこんなにも震えておられる」
甘い囁きにはねっとりとした毒が絡みついているようだった。口を開いては無様は喘ぎが漏れてしまう。グンテルは歯を固く合わせ、無言のうちに神々を、竜を呪った。
これまで戦士として無数の刃を矢を浴びてきたものだ。司祭や薬師共の手荒い治療にも耐えてきた。けれど、これほどまでに苦しみを伴う痛みはなかった。肉と共に、魂まで抉りとられていくような、深く苛烈な痛みは。
「汚らわしい竜に犯されて、いいようにされるのは屈辱ですか? 王とは強大な力をもって、土地を犯し、敵や女を犯すものでありましょうに。今のあなたときたら」
わずかに息を弾ませた男は、己の腹と王の背とを隙間なく合わせた。互いの汗が混じり合って、背中が滑る。竜は汗すらも冷たいのか、情交のさなかとは思えぬほど寒い。
男は浅い挿入をやめて上半身を引き、やおらグンテルの腰をつかんだ。一度目よりもはるかに強い違和感を伴って、穢らわしく忌まわしいものがさらに内へと食い込んでくる。そんなものが己の身に収まるとはとても思えなかったが、一度、二度を腰を振られ圧迫されるがごとに、徐々にそれはグンテルの臓腑に沈んでいった。
苦しげな息づかいと粘ついた音だけが、平たく広がる静寂に黒々と染みを落とす。苦痛の合間に媚びるような疼きを与えられる毎に、男としての力を剥ぎ取られていった。絶え間なく脳髄を揺さぶる衝撃に翻弄されて、グンテルは自らの半身をすら手で支えきれない弱々しい存在になってしまった。
身体の一部を繋ぎ、腰を振るだけの行為。だが、肉体のみならず心までも蹂躙されて、吐く息すら相手のなすがままだ。貴様が知らなかっただけだ、これが支配というものの真の姿なのだと、鈍痛が嘲るように告げる。
もはや役に立たくなった腕を折り曲げ、ぐったりと額を土に押しつける。顔はきっと土まみれだろう。闇に見えないが、恐らく全身も。大の男が無力の体で土にまみれ、塵芥と蜘蛛の巣にまみれ。その姿を想像したとたん、乾いた笑いが唇から溢れそうになった。
飲みこんだ哄笑が目頭を熱くする。頬が濡れているのは汗のせいであって、涙が落ちているのだとは考えたくなかった。
骨ばった肉同士がぶつかりあって、節々が悲鳴を思わせる軋みをあげる。王たる自分が、今や痛みを耐えることと、息を細く長く吐くことだけに集中しているとは、滑稽な話だった。よほど気をつけていなければ、唇から浅ましい音が漏れてしまう。
そのとき、首筋のあたりに唇が吸いつく気配を感じた。グンテルは驚いて、満たされぬ浅い呼吸の合間に強い叱責を叩きつけた。
「跡は残すな! 他の者に気取られる」
けれど、己を唯一の主とする竜にとっては王の命などそよぐ風に等しい。他の者であれば縮み上がってしまうような怒りを向けられても、男はグンテルの肌を離そうとはしない。
「跡に名は残せません。愛妾の唇の跡と思うだけでしょう。それでもご心配なら、毒虫に刺されたとでも言えばいい。……人ならざるものと交わることに、よほど後ろめたい気持ちがおありとみえる。あなたの父、そして私の父たる先王と同じことを繰り返しているだけでしょうに」
「それ以上侮辱を並べるのなら、貴様……」
忘れようにも忘れがたい事実を切っ先のように突きつけられて、グンテルの眦は言葉にはできぬ怒りと困惑とで朱く染まった。
今自分を犯しているこの男は、一族の血を半ば同じくする者でもあるのだ。限りなく近しい血を持つ同士が、股ぐらのあたりで醜く繋がり合っている。冷や水を浴びせられたような寒気が走った。それなのに、下腹部に溜まる熱情は一向に収まらぬ。
「私は、あなたが求めるものを与えたいと愚直に願っているのですよ。侮辱とは心外な」
「侮辱以外の何ものでもあるまい!」
叫びながら考える。これは情によって結ばれた接合とは全く違ったもの、闇に生まれ闇に死ぬばかりの、禍々しい異形の儀式なのだ。そう思えば合点がいく。この腸の奥に脈打つ不快な疼痛も、意に反して上向いたものからこぼれ落ちる生温かいものも、竜の妖しい力によって引き起こされているのだとすれば。
「残念ながら、何を口にしてもあなたは信じては下さらないようだ。嘘はつかぬと申し上げているのに」
そのとき、竜は項に唇を添わせながら何事かを囁いた。微かな囁きは、言葉であって言葉には聞こえぬ、女たちが好む古い呪いのように耳を酔わせる。
と思うや、恥も外聞もない淫らな声が唾液と共に流れ落ちる。緊張が解けた隙をついて、より深く貫かれたのだ。
「この畜生めが……」
呪詛を吐き出そうと口を開いた瞬間、闇に埋め尽くされた視界に淡い光が射した。
だが光が放たれたのはほんの一時。目を凝らす前に、すべては薄く白い靄の下に消え失せた。
「陛下、お見えになりましたか」
竜は耳朶に唇を寄せてきた。
「あなたは今、我らの世界を垣間見られたのです」
それを聞いたグンテルは、懸命に両の目を見開いた。求めるものに手が届きそうな感覚は、しかしいざ触れようとすると指先をするりと抜けていってしまう。果てることを許されなかった半身が激しい失望に襲われて、たまらないほどに切なくなった。
グンテルは首だけで振り向いて、喘ぎ混じりの声で竜に告げた。
「どうした半竜よ、手ぬるいぞ。手心を加えていては、見えるものも見えぬ」
身を苛む卑しい渇望を悟られぬよう、苦しげに顔を歪めた。
「獣の交わりというものを、王に知らしめるのではなかったか? ならばもっと深く、奥まで来い」
その挑発的な発言が呼び水になったのか、臓腑を突き上げ、穿つ動きに激しさが加わり、グンテルはついに短い息をすらできなくなった。
背後で皮膚が裂ける音がした。竜が粘液に濡れた翼を吐き出す様が、闇にあってもはっきりと見えるようだった。人の皮を脱ぎ捨てた竜は、本能のままに王を征服せしめた。もはや言葉をすら忘れたのか、唇から漏れるのは咆哮のみ。それとも、唇などとうに消え失せているのだろうか、グンテルの首筋に食らいつくのは大きく割れた生臭い獣の口であった。
ずん、と衝撃があって、背にかかる重みが増した。幾度となく肌を削るように擦りあげるのは、決して人のものではありえぬ固い鱗。戒めのようにきつく握られた上腕には鋭い鉤爪が突き刺さり、流れ出た血が細く赤い筋を描く。苦痛に顔を歪めると、竜の長い舌が艶めかしくそれを吸い上げた。傷口を舐める動きは穏やかで、さながら人が人にする労りを真似ているかのようだった。
突然、部屋中に強い風が巻き起こった。竜が翼をはためかせたのだ。大きく広がった黒き翼が王を包みこんだ。まるで娘が愛人を抱擁するような、優しさともいえる奇妙な仕草で。だが、竜に人の優しさなどあるはずがない。この半ば人、半ば獣の卑しくも聖なる存在の心など、グンテルは少しも理解などできないし、したくもなかった。
しかしどうしてか、肉の深いところで結びついているこのとき、この竜が自分を激しく欲しているような感覚に陥った。
くだらぬ仮定とその考えを打ち消しながらも、これほどまでに他者と深く交わったことがあっただろうかと、手荒く腰を打ち付けられる合間に思う。確かに女たちはグンテルを愛してやまないが如く、その形よい脚を、白くしなやかな腕を絡めてきた。けれど真実彼女たちが欲したのは、グンテルという男ではなかった。王と床を共にした栄誉という自らの身を飾る証、そして王の子を孕むという可能性だけだ。
だが竜の前では、王ではなく、グンテルでもなく、ひとりの名もない男になったかのようだった。いや男どころか、人ですらない。今や闇に蠢いているのは、言葉をもたぬ二匹の獣だけだ。
王の皮を脱ぎ捨てた獣が、艶めかしく啼いた。
頑なに守り続けてきたものが壊れていく暗い歓びに、魂が打ち震える。闇に響く獣の低い叫びに呼応して、血流が唸りを上げて身体中を駆けめぐった。竜と人の呼吸と鼓動とが、ひとつに交わった。
そのせつな、急に視界が明るく拓けた。白い霧に覆われていた景色に、鮮やかな輪郭が与えられる。
グンテルは、竜の眼が己のそれにぴったりと重なるのを実感した。それは奇妙な感覚であった。自分自身の肉体と心をとを、すっかり預けてしまっているような覚束なさに危うい気分にはなるけれど、苦しみや不快感を伴うものではなかった。
竜の眼は語る。
深い森を抜けたところに、粗末な策で囲われた小さな集落がある。ぽつぽつと建てられた家々は漆喰と木とで何とか形を保っているような荒ら屋で、息を潜めるようにして生きる人々の貧しい暮らしを物語っていた。男が豚を追い立てていた。森で木の実を食わせて太らせて、秋になったら塩漬けにして市で売るのだ。
この情景には見覚えがある。あれは確か、南の森近くにある村だ。少年の頃、狩りの途中で父と共に訪れたことがある。水を得るためには森深くにある沢まで降りていかねばならないと、村人は歓待の席で口々に嘆いていた。沢に下るまでの道は険しく、水を運ぶ途中で足を滑らせて命を落とす者も少なくないと。
そこで父王は博識なる司祭を村に派遣した。彼は王の命じるままに優れた能力を発揮し、すぐさま村の外れに井戸となりそうな水脈を発見した。司祭の指示に従って、男たちの逞しい腕が土を削る。
「やめろ!」
グンテルは思わず叫びをあげた。
全身が大地に共鳴する。穿たれる自分と、抉られる大地と。
奥へ、奥へ、もっと奥へと、土を掘り進むたびに声なき大地の叫びが木霊する。ついには井戸は神々の領域に達し、眠れる水の神の背骨を貫いた。地下を流れる水は穢され、激痛に地脈が軋む。聖域を侵された怒りは呪詛となって天を突いて響きわたり、果てのない雨雲の群れを呼び起こした。
竜の眼が真実を捉えたそのとき、固い鱗に覆われた身体が戦慄き、喘ぎに似た低い咆哮が空気を震わせた。腹の中を迸る衝動に意識を浚われそうになりながら、幾度となくその語を転がした。
井戸、井戸。神々の血の流れる井戸。
埋めるのだ、深く埋めるのだ。欠けたるものを再び満たすために。
満たす、そう呟いたとたん、昂っていた半身が震えて弾け、土と視界とを白く染め上げた。精を吐きだすと同時に吐き出され、下腹が猥らに膨れた。
孕まされたような感覚にぞっとして、全身を麻痺させた恍惚は瞬く間に消え去ってしまった。竜が己を引きずり出した後部からも、どろりとしたものが脚を伝って滴り落ちた。と、ず、ず、とわざとらしく大きな音を立ててそれを啜り上げる音がして、屈辱と羞恥とに顔が赤くなった。
人の形を取り戻した竜は、荒い息を整えながら身を離した。いつの間にか闇は払われ、牢内は元の通り淡い光で照らされている。光を浴びて、グンテルはにわかに夢から覚めたように自分を取り戻した。
「私を叩き斬る元気は、まだおありでしょうか。おや、もうお帰りに?」
立ち上がった拍子によろめいた王を支えんと伸ばされた若者の腕は、手ひどく振り払われた。
事は成ったのだ。グンテルはもはや戯れごとに応じるつもりはなかった。床に落ちた夜着をひったくるように拾い上げて身につけ、同時に剣を腰に帯びる。グンテルは男に一瞥もくれず、躊躇なく踵を返した。
「睦言など期待はしておりませんが、夜はまだ長い。少し休まれていけば……」
膝に残る震えを見透かされているようで、グンテルはその慰めにむしろ強い反発を覚えた。
「休む暇などない」
冷たく言い残して牢を出ると、岩影に隠れていた老婆に叫んだ。
「用件は済んだ。鍵をかけておけ!」
半竜は裸身に上着を掛けただけの姿で、壁に身を持たせかけた。
「まったく忙しない方だ。陛下。今宵は存分に楽しませて頂きました。……また、いずれ」
グンテルは脚の間をひりつかせる痛みに悪態をつきながら、からかうような柔らかい声音を無視した。なぜ竜が己を求めているなどと思ったのか、今ではもう信じられなかった。
見えざる手に追い立てられるように、王は現世へと続く階段を駆け上がった。
執務室から飛び出したグンテルは、そのまま家令の居室へと向かった。夢で神託を得たのだと告げ、驚愕のあまり寝台から転げ落ちそうになった家令を引きずって執務室に連れていき、さらには内密に司祭も呼び寄せて、これからの対応を協議した。
はじめはついに王が乱心したかと訝しい表情を浮かべていた男たちも、グンテルの計画に理性と具体性があり、また井戸ひとつ埋めたところで損額も少なく、また長雨への対抗策が他にないことから、黙って手をこまねいているよりはと神々の気まぐれを受け入れた。話がまとまった頃には、夜の気配はとうに消え去っていた。
眠気に欠伸をかみ殺す臣下らを下がらせた後、ひとりグンテルは窓際に佇み、朝焼けを忘れて久しい鉄灰色の空を睨みつけた。
……忌まわしい雨よ、神々の怒りよ。俺がこの手ですべてを終わらせてやる。
朝の風に晒されてようやく気づいたが、夜着は泥まみれだった。家令も司祭も不審に思っただろうが、グンテルの勢いに圧倒されて何も言えなかったに違いない。唇に苦い笑みが浮かんだ。
ふと肩のあたりに違和感を覚え、そっと手でさする。達する瞬間、牙に甘噛みされたところが未だ熱を放っているのだ。血を舐めあうような荒々しい接合の傷跡よりも、その甘いむずがゆさの方がよほど胸を落ち着かなくさせた。