「全治十日間の捻挫だあ? この大事な時期に、何やってんだよ!」
会った早々雷が轟くように言われて、哉はつい両の手を耳にもっていきかけた。それが実現しなかったのは自制心の問題ではなく、単に松葉杖をついていたからだ。
師である高木が哉の自宅まで見舞いにやってきたのは、事故から三日後のことだった。たいした怪我ではないし、いらぬ心配をかけるのは心苦しいと、レッスンを休む旨の連絡をするときも事故のことは黙っていたのに、礼子がうっかり口を滑らせたのだ。
事故の記憶はまだ鮮明に残っている。
真っ青な顔の運転手と目が合った瞬間、時間の流れが奇妙に遅くなり、視界が眩しいくらいに白くなった。次に意識を取り戻したときには歩道に倒れていて、周囲に数名が集まって声をかけたり応急処置をしてくれていた。
火事場の馬鹿力というやつか、足が勝手に動いてうまい具合に車をよけたらしかった。車の速度があまり出ていなかったのも幸いした。反応するのがあとほんの数秒遅かったら、命に関わる大事故になっていたに違いなかった。
「車くらい避けろよ」
無茶を言うと思いつつも、一応の反論を試みた。
「避けましたよ。だから捻挫で済んだんです」
「捻挫する前にだよ。どうせ、いらんこと考えてぼんやりしてたんだろ? お前、いつも考え過ぎなんだよ」
師の口から発せられる不協和音を毎度のことと聞き流しながら、哉はピアノが置いてある応接間兼練習室に高木を通した。
「すみません。今日、家族が誰もいなくて」
事故の当事者である哉が未成年ということで、両親は後処理のために関係先を回ってくれていた。哉も同行しようとしたが、とにかく大人しく休養していろと叱られた。哉は反論できない悔しさをぐっと飲み込んだ。いくら身体が大きくなって大人になったつもりでいても、自分はまだ守られる側にいるのだと痛感させられた。
恩師にコーヒーでも入れようと、のろのろと退出しかけた哉の背中に、高木は厳しい声を叩きつけた。
「いいから座ってろ。無理して動くと治るもんも治らねえぞ。ほら、土産」
投げるように紙袋を手渡すと、見舞いに来た人間の態度とは思えないほどくつろいだ様子で、高木はどっかとソファに尻を埋めた。
世間でいうピアニストのイメージに近いのが和臣や哉だとすれば、高木はその範疇から大きく外れていた。和臣から紹介されて初めて会ったときは、小型の熊のようだと思った。
指はずんぐりとして太く短いが、驚くほど大きく開く。その気になれば容姿に似つかわしい雷鳴のような強い音を出すこともできるものの、毛むくじゃらの腕が本来の持ち味とするのは、繊細で優しい響きである。定期的に開かれる高木のソロリサイタルは、家族連れでいつも盛況だった。
もし和臣が腕を怪我することがなければ、同じような雰囲気の演奏をしたかもしれない。
高木はごく短い期間ではあるが、和臣の父、白瀬治人から指導を受けていた。治人は貴族的という形容がぴったりの、洗練された優美な音を持つピアニストだった。そして指導者としては、弟子を自分の型にはめこむタイプだったらしい。和臣が残した音源にも、その影響が散見された。
だから哉は高木の演奏を聞くとき、賞賛の思いと共に、微かな胸の痛みを感じるのだった。
「茶よりもピアノだ、ピアノ。ペダルは使えねえだろうが、指は動くんだろう?」
高木はそう言って、ツェルニーの練習曲から何曲か選んで哉に弾かせた。曲の合間に雑談や軽口を交えながらも、視線はずっと哉の手に注がれている。医師が患者を診察するように、手首や指の動きを注意深く調べているのだ。
高木の頭には、和臣のことがあったに違いない。面倒見のいい高木に和臣は子供の頃からよく懐いていたのだと、共通の知人から聞いたことがある。突然見舞いに来たいと言われて驚いたが、その理由を察した哉は、空元気を示す代わりに退屈な練習曲をできるかぎり丁寧に弾いた。
基礎は和臣からしっかり教え込まれたが、それを伸ばしてくれたのは高木だった。高木は哉の身体的な特性をよく理解して、成長に応じた指導をしてくれた。その結果、明晰で理知的な音に力強さという長所が加わったのだ。高木がいなければ、成長期の急激な筋力の増加に技術が追いつかず、腱を痛めていたかもしれなかった。
曲が途切れた時、高木はしみじみと言った。
「お前のピアノ、情念が滲み出てくるみたいだな」
「……どういう意味ですか?」
「ずっと音聞いてりゃわかるもんさ。仏頂面の本体と違って、指は正直だ」
哉は鍵盤から指を離し、眉を顰めた。
そんなことは言われたことがない。家族からも、学校の友人からも、淡泊すぎて呆れられることが多いというのに。大体哉の演奏に対して、数学の講義を聞いているようで色気も面白味もないと文句を言うのは高木自身だった。
そもそも演奏者の指使いから、そこまで細かい感情の機微までわかるものなのだろうか。
「白瀬と足して割るくらいで丁度いいんじゃねえか? あいつは執着がなさすぎるから」
確かに、和臣は優しげな見た目よりも、ずっと現実的で冷静な人間だった。人であれ物であれ、何かに入れ込む姿を想像することは難しい。
「白瀬先生が? そんな風には見えませんけど」
自分だけが知っていると思っていた和臣の性質を探り当てられて、哉はつい思っていることと真逆の言葉を口にしていた。
高木は肩をすくめた。
「ま、世間じゃ頭から否定されてるが、負の感情も悪いもんじゃないさ。記号通りに鳴らすだけなら、機械の方がよっぽど達者に演奏できる。人間が弾く意味ってやつを考えるとな。作曲家の頭にあった音を、完全な形で楽譜の上に写し取るのは不可能だ。書かれていない部分を埋めるには、技術に知識、経験に感性……それに感情が必要な時もあると思うぜ。いいのも悪いのもな」
飄々と言ったが、高木は若い頃に妻を亡くしてからずっと独り身だと聞く。この明朗な男も、彼の言うところの負の感情を抱えているのだろうか。とてもそうは思えなかった。午後の日差しに照らされた高木の逞しい横顔に、暗さなど微塵も感じられなかった。
高木は練習曲集をぱらぱらとめくって、次の曲を選びながら言った。
「強くだの、弱くだの、さらっと書いてあるが、その意味を考えるのに何年、何十年、下手すると一生かかることもあるんだから、嫌になるよな」
「俺は別に苦じゃないです」
高木は破顔した。
「はは、今から苦しかったんじゃもたねえよ。まだまだ先は長いんだ。天才のすげえ演奏はもちろん刺激になるが、俺はな、悩みとか、苦しみとか、弾いてる人間がもがいた跡が残る音が好きなんだよ。勢いだけの初心者の脳天気な明るさとか、ガキの自由な理不尽さとかもさ。人間くさくて面白いじゃねえか」
哉は同意しかねた。多情がいきすぎてミスが多かったり、解釈が自分とあまりにも違う演奏には引っかかりを覚えずにはいられない。ましてやそれ以前の未熟な演奏を否定するつもりはなかったが、関心を抱いたこともなかった。
高木は楽譜に視線を落としたまま、他人事のような口振りで続けた。
「しかしまあ、お前と付き合うのは大変だろうな」
ふいに浮かんだ少女の面影をかき消すように、哉はふいと顔を背けた。
「ピアノしか頭にありませんからね」
「そういう意味じゃねえよ。……好きな奴、いるんだろう?」
高木はからかうように、にやりと笑った。だが自信たっぷりな様子の高木には悪いが、全く覚えがなかった。哉は首を横に振った。
「いませんよ」
「いいや、嘘だな」
「ピアノの音だけで、そんなことまでわかるんですか?」
哉は呆れたように言うと唇を結び、高木が示した曲に取りかかった。
「わかるさ。お前がいつ童貞を捨てたかもな」
高木のからかうような口調を無視して、指先に意識を集中させた。自分から弾けと言っておきながら、どうして邪魔ばかりするのだろうか。こちらは高木に感謝して、いい演奏ができるようにつとめているというのに。
「一昨年の冬だろ?」
ほんのわずかだが小指を落としたのを、ピアニストの耳が聞き逃してくれるはずがなかった。高木は勢いよく吹き出した。
「なるほど、冬ねえ。しれっとした顔して、やることはやってたわけか。人肌恋しい時期で、クリスマスにバレンタインもあるもんな。……おいおい、そんなに恐い顔するなよ。当てずっぽうだよ。そこまで筒抜けじゃあ、俺だって人前で弾きたくねえよ!」
哉は無言で高木を睨みつけた。怒りか羞恥かその両方か、判断できかねる思いを何とかこらえて、はじめから弾き直すために、息を整え、改めて鍵盤に指を置く。
そのとき、何か気にかかることでもあるように、高木は哉の手元をまじまじと見た。
「そういえば今まで気づかなかったけどよ、癖まで真似してんのか?」
「何のことですか」
「その、弾き始めるときの仕草だよ。右手で左の手首を触るの、白瀬そっくりじゃねえか」
さりげなく放たれた言葉に息を呑んだその時、玄関のインターホンが鳴った。
「ちょっと外してもいいですか」
そう言って立ち上がりかけた哉を、高木は太い腕で支えた。
「俺も行くよ」
「でも」
「馬鹿、でかい荷物が届いたら困るじゃねえか」
一分間ほどの押し問答の後、哉は高木の申し出を渋々受け入れた。粗野な言動でごまかしているが、高木は親切で思いやりのある男だった。隠しきれないその優しさが、ピアノの音色に滲み出ているのかもしれなかった。
だが二人の予想に反して、玄関にいたのは配達人ではなかった。
「よう、白瀬」
軽い口調で挨拶をする高木の横で、哉は硬直していた。まさか高木がいるとは思わなかったのか、和臣も驚いているようだった。
「君が事故にあったと聞いて」
「誰がそんなことを……」
哉は暗い声で尋ねた。また母親だろうか。絶対に言うなと釘をさしておいたのに。
「俺だよ」
礼子への嫌疑を晴らしたのは、哉のすぐ隣にいる男だった。高木は少しも悪びれることなく言ってのけた。
「ここに来る前に連絡したんだ。お前、自分からは言わねえんじゃないかと思ってな。じゃあ、俺はもう帰るわ」
ひらひらと手を振る高木を見て、和臣は慌てて言った。
「元気そうな姿を見られたので、僕はこれで」
「お前はゆっくり話していけよ。俺の用件はもう済んだから」
土産以外に特に荷物もなかった高木はそのまま帰ろうとしたが、何かを思い出したように振り返り、和臣の顔を注視した。それから、携帯灰皿と煙草の箱を胸ポケットから取り出した。
「帰る前にちょっとつき合えよ、白瀬。宮代、庭で吸っていいか?」
「どうぞ」
リビングに哉を残して、二人は窓から庭に出た。和臣が煙草を吸っているところなど見たことがないから、呼び出すための適当な口実なのだろう。
二人は哉に背を向けて話し込んでいた。高木の手元から白い煙が糸のように漂っている光景を、哉はぼんやりと見つめていた。たとえ哉の年が二十を越えても、あちら側には決して行けないのだという確信があった。ガラス窓で隔てられた二人の教師と自分との距離は、絵に描かれた風景と同じくらい遠かった。
聞き耳をたてるつもりはないが、窓の外から途切れ途切れに話し声が聞こえてきた。和臣、と呼ぶ囁くような声がする。哉の前では和臣を名字で呼ぶが、二人だけのときは下の名前で呼びかけるのだろう。和臣と話す高木の声は、怒鳴るようないつもの調子とは違った。耳の膜を震わせる低い響きに甘く苦いものを感じて、なぜか心がざわめいた。
やがて二人の姿は玄関の方向に消え、和臣だけが戻ってきた。和臣の身体には、高木の煙草のにおいが強く残っている。
「高木先生は帰られたよ」
「そうですか」
和臣は微笑んだ。
「軽傷だったみたいだね。安心した」
哉は口を開きかけたが、和臣にかけるのに相応しい言葉が見つからなかった。
同じような事故、同じような状況。
それなのに和臣はすべてを失い、哉はほとんど何も失わなかった。
哉は和臣に気取られないように、拳を強く握った。たとえ本人が気にしないとしても、事故の件は絶対に知られたくなかった。
「すみません、報告するのが遅れて」
これだけ言うのがやっとだった。
二人はしばらくリビングで話をしたが、いくらか会話が続くとすぐに沈黙が落ちた。その繰り返しだった。やっとのことで事故の概要を話し終えると、話題は和臣が貸した本の内容に移った。ある高名な教授によって書かれた、音楽理論に関する研究をまとめた本だった。難解ではあるが、興味深い内容だった。
和臣は言った。
「もう読まないようなら、今日持って帰ろうか」
「荷物になりませんか?」
「構わないよ。この後、特に寄るところもないからね」
哉が自室に取りに行こうとすると、和臣は自分も行くと言った。筆者の高名に相応しく、かなり大型で重厚な装丁の本だったのだ。
自室はリビングと同じ一階の、ピアノが置いてある部屋のすぐ隣にある。元々は両親の寝室だったのだが、毎日何時間も練習するのならピアノに近い方がいいだろうということで、二階にあった自室を移したのだ。
哉は和臣を招き入れた。妙な緊張が全身を満たしていた。高木の存在は家の空気にすぐに馴染んだが、和臣が自宅の、しかも自分の部屋にいるという状況には、どう頑張っても慣れそうになかった。
家にいる時間のほとんどをピアノの練習か勉強に当てているので、本棚にぎっしり詰まった楽譜と音楽関係の本以外には、特別に目を引くものが何もない部屋だった。
机上に置かれた本を取ろうとする哉の動きを遮って、和臣は本を持ち上げた。
「そんなに重いもの持ったら、危ないよ」
「大丈夫ですよ。上半身は何ともないんですから」
哉は素っ気なく言った。両親といい、高木といい、和臣といい、心配してくれるのは有り難いが、自分は老人でも幼児でもない。怪我の状況も、身体の限界も把握している。そんな子供っぽい反発にも気づくことなく、和臣は漫然とページをめくった。
「邦訳が出てくれて助かったよ。原書で読もうにも時間がなくて」
ふと和臣は、付箋がついているページで手を止めた。
「気になるところがあった?」
「そこのページの内容で、伺いたいことがあって」
「じゃあ、ちょっと座って話そうか」
哉の足を気遣って、二人はカーペットの敷かれた床ではなく、ベッドの際に腰掛けた。
和臣は哉の質問に丁寧に答えてくれた。音楽用語を交えて話しているうちに、二人の間にあったぎこちなさが、段々と解けていくのを感じた。自分と和臣を繋ぐのは音楽なのだと実感せずにはいられなかった。それは強く太い糸のようで、実際はどうなのだろう。一端綻びが生じてしまえば、案外脆いかもしれなかった。
そのとき突然、部屋の隅で何かがどさりと落ちる音がして、哉は驚いて本から顔を上げた。棚に立てかけてあった書類が崩れたのだ。しかし、そんな場所にものを置いた覚えがなかった。また母親か、と哉は渋い表情で考えた。
礼子がたまに掃除と称して入り込み、勝手に部屋を荒らしていくのだ。本人は息子の生活を探るつもりも、物を漁るつもりも全くないようだが、自分がいない間に部屋に入られること自体が不快だ。何度か扉に外鍵をつけることを提案し、その度に拒否されてきた。そもそも礼子は掃除が得意でないのだから、その労力を別な方面に使ってほしい。
「楽譜?」
哉は愕然とした表情をして、書類を拾おうと立ち上がりかけた足の動きを止めた。目の前にひらりと舞い落ちた一枚の紙を、和臣は何気ない風に拾い上げた。先ほどの衝撃が連鎖反応を引き起こしたか、同じ棚の別の段から落ちてきたらしい。
「ラヴェルの、左手のためのピアノ協奏曲だね。連弾用に編曲されているみたいだけど……」
哉は足を怪我しているとは思えないほどの機敏さで楽譜をひったくるように取り上げ、机の引き出しにしまい込んだ。
和臣が尋ねた。
「哉君が編曲したの?」
「その、俺、左手が弱いので、試しに作ってみようかと……」
しどろもどろの口調とは対照的に、頭のなかでは、この場をやりすごすための弁明が凄まじい早さで展開していた。
よかったら見せて欲しいという和臣に、哉は激しく頭を振って拒絶した。
「だめです。ひどい出来なので」
頑なに拒否すると、和臣はあっさり引き下がってくれた。
哉は奥歯を強く噛みしめた。
使わなくなった辞書の間に挟み込んでいたのに、どうして簡単に落ちるような場所にあるのか。今度ばかりは、礼子にきつく言っておかねばなるまい。
深く呼吸をすることによってどうにか怒りを収めながら、気取られぬようにそっと和臣を見た。
左手のための、ピアノ協奏曲。
そこにこめられた意味を、和臣が察した様子はなかった。
安堵したのも束の間、彼の視線がなおも床に向けられているのにふと気がついた。
目線の先にあったのは、英語で書かれた音楽院の入学案内だった。心臓が大きく跳ねたのは一瞬だけで、すぐに腹をくくった。恐れることはない。逃げ続けていた代償を、ついに支払う時がきただけだ。
哉はつとめて平静を装って、書類の束を乱雑に机上に戻してから、再びベッドに腰掛けた。
「留学が決まったんです」
日本の音大には進学せず、高校卒業後そのままイギリスの音楽院に行くのだと告げても、和臣の表情には驚きも戸惑いもなかった。以前進路について話したときには、一旦は日本の音大に行くような話をした記憶があるのだが。
「ご存じだったんですか?」
ここで嘘をついても仕方がないと思ったのか、和臣は素直に話の出所を話した。
「高木先生から聞いていたからね」
高木に礼子。どれほど厳重に秘した情報でも、この二人がいる限り、流出を止めることは不可能だ。
「すみません。もっと早くに、俺自身からお伝えするべきでした」
「来秋から向こうに?」
「いえ、とりあえず今年の春に行って、秋までは現地の語学学校に通います」
「住むところは決まった?」
「入校したら寮に入ると思いますが、しばらくは高木先生のご友人のところにお世話になる予定です。その方に指導もしていただいて」
昨年の夏、たまたま来日していた高木のかつての恩師を紹介されて、その場で何曲か演奏し、デモテープを送ったのがきっかけだった。そう話すと、和臣は頷いた。
「この世界では、技術以上に人の縁も大切だからね」
それから、表情を固くする哉を見つめて、心からの笑顔を送った。
「おめでとう」
そのせつな、胸を抉られるような強い痛みを覚えた。
なぜ和臣に留学の話を言い出せなかったのか、今ようやく理解できた。
笑顔で別れを祝福される、この瞬間を迎えたくなかったのだ。
哉は俯いたままで礼を言ってから、ぽつりと続けた。
「先生も、おめでとうございます」
和臣は怪訝そうな顔をした。哉の言葉の意味が理解できないようだった。
「ご結婚されると聞きました」
「結婚? 僕が?」
驚いて目を見張る和臣の様子に、誤魔化そうとする様子はどこにも見受けられなかった。
「結婚以前に、付き合っている人もいないよ」
何気ない言葉なのに、哉は落ち着かない気分になった。最後の一言に、ひとりの男としての私生活が垣間見えたような気がしたのだ。
つきあいは長いが、和臣の口からそういった話題が出るのははじめてだった。教師と教え子としての節度を考えてのことだろう。線引きは緩やかだが確実にあった。バレンタインの時は季節行事に過ぎず、雑談の域は出なかったように思う。
和臣は首をひねった。
「もしかして、母が帰国しているから、誰か見かけて勘違いしたんじゃないかな。年齢と見た目が釣り合わない人で、僕と歩いている時もよく夫婦に間違われるんだよ」
和臣の母親と直接の面識はないが、ドイツに住んでいて、声楽をやっていると何度か聞いたことがあったはずだ。
あの歌声は母親のものだったのだろう。親密さを感じさせる演奏も、二人の関係を考えれば自然なものだった。
馬鹿らしい。
ふいに、笑いがこみあげてきた。口元に刻まれた軽い笑みのようなものはたちまち深くなって、こもった笑い声に変わった。口元を手で押さえたが、こらえることができない。
「哉君?」
和臣が心配そうにのぞきこんできた。
自分が馬鹿にしか思えなかった。結婚すると聞いて、動揺して事故にあって、この留学を控えた大切な時期に、両親や高木や多くの人たちに迷惑をかけて。
それなのに、馬鹿みたいに心をかき乱されるのは自分だけだ。
ひとしきり笑ったあと、和臣に視線を戻した。相変わらず心配そうな表情を浮かべていた。和臣のいる側についた腕に体重を乗せると、ベッドが鈍く軋んだ。互いの吐息を感じるほど近くに顔を寄せながら、哉は考えた。
もし、このまま唇を重ねたら、和臣はどういう反応をするだろうか。
多少は驚くだろう。不快に思うかもしれない。だが、それだけだ。彼はきっとすぐに平静を取り戻すに違いない。哉を傷つけないように気遣いながら身を離し、適当な時間をおいて、次会う時にはまったく自然な状態に戻っているはずだ。つまり、教師と教え子という関係に。
間近に迫った和臣の表情はなおも穏やかで、激しく打つ哉の鼓動など知りもしないだろう。
沈黙に押しつぶされそうになりながら、哉は腕に力を込めた。
しかし恋人に求められたときには躊躇いなく唇を重ねることができたのに、それ以上近づくことができなかった。
ピアノみたいな人だ。
柔らかい音色で歌うくせに、正体は木と金属で出来た機械だ。
そのとき、煙草の残り香が微かに鼻先を漂った。
ベッドに預けた手の力が緩まると、ひとつになろうとしていた影がふっと離れた。
「睫毛、ついてましたよ」
ありもしない睫毛を摘む仕草を和臣は素直に信じたようで、苦笑と共に礼を言われた。
「先生」
一呼吸置いて、哉は和臣をじっと見つめた。
「……そろそろ病院に行く時間なので」
申し訳なさそうに言うと、和臣は逆に長居したことを謝りながら帰って行った。
物理的な距離をおいた途端、夢から覚めたようになって、冷静な判断力が戻ってきた。
和臣といると、急に自分の言動がおかしくなることがある。それまで正確に動いていた方位磁針が、突然狂ってしまうようだった。感謝も尊敬もしている人物に、いったい何をしようとしていたのか。好意を持たない相手から過剰な身体的接触など受けたら、不愉快に思うに決まっている。
和臣の背中を見送りながら、でも、と哉は考えた。
日常に影を落とす少しばかりの非日常も、和臣にとっては些末なことだ。
もしあの唇が触れたところで、やはり何も変わりはしなかっただろうと。
すべての来客が去った後、ひっそりと静まった家で、哉は書棚の一番奥に隠すようにしまい込んでいた一枚のCDを取り出した。それは中学時代に音楽教師の杉浦からもらい受けた、和臣の演奏を録音したCDだった。
哉はベッドに横たわって、スピーカーから流れてくる月の光に耳を澄ませた。収められていた曲はどれも素晴らしかったが、和臣の繊細な打鍵から生まれる微妙な色彩と陰影が最もよく活きていると感じたのが、ドビュッシーのこの曲だった。
和臣の父親である白瀬治人が卓越した演奏者であることは間違いない。しかし、残された音源を聞く限り、表現力は和臣の方が上だったのではないかと哉は思う。治人のピアノが巨匠の描いた重厚な肖像画なら、和臣のそれは自然を描いた色鮮やかな細密画だった。しかも和臣は、下書きなしで完璧な作品を描くことができたようだった。音ではない音すらも奏でているようなピアノは、聞く度に印象が違って、新たな発見があるのには驚嘆させれた。
彼はきっと、物事を感覚でつかむ能力に優れているに違いなかった。ほとんどの曲は初見で弾くことができた。即興でアレンジするのも得意なようで、教え子が退屈な練習曲に飽きてしまうと、あっという間に魅力的な曲に作り替えてしまう。するとやる気を失っていた子供も、音楽の面白さを思い出すのだ。そういう場面を、ピアノ教室で何度も見てきた。
けれど完全な演奏だからこそ、ほんのわずかな瑕疵が命取りだった。事故後、右手に残る微かな震えによって、緻密に組み立てられた構成が一気に崩壊した。美しい細密画は破り去られて、もう元には戻らない。
音楽関係の集まりに行くと、大抵の場合、和臣に師事していたという話題から始まって、怪我をする前の和臣がいかに飛び抜けて優れた演奏者であったかという昔話を聞かされることになる。もちろん話している側は好意からそうしているのであって、哉が事故の当事者であることなど知る由もない。
和臣は幼い頃から音楽の才能を示していたが、父親の治人は息子を決してメディアなどには露出させず、自分の手の内で大切に育てていたそうだ。
和臣が中学生の頃から、治人は活動拠点を日本からヨーロッパに移す準備を進めていて、家族共々渡欧し、和臣にはより高度な音楽教育を受けさせるつもりでいた。
だが妻の母親、つまりはピアノ教室を開いていた和臣の祖母は穏やかに、しかし冷静に反対の意を示したそうだ。
「まだその時期ではない」と。
そして彼女の夫の弟子であった治人は、強く出ることができなかった。
もし早くから和臣を国外に連れ出していれば、きっと今頃名のあるピアニストになっていただろうにと、その知り合ったばかりの年輩の女性は溜息をついた。
「おばあさまは、ちょっと想像力がない方だったのね。それにきっと孫と離れたくなかったんだわ」
けれど和臣の祖母が反対したからには、相応の理由があったのだろうと哉は思った。
記憶にある彼女は、おっとりとした品のいい老婦人だった。笑ったときの目の細め方が、和臣によく似ていた。だが優しい容貌に似合わず、時々はっとするような鋭いことを言ってのけることがあった。何かよほどのことがない限りは、軽々しく孫の教育に口を出すような人物には見えなかった。
和臣はかつて、ピアノを弾くのが苦痛だったと哉に話したことがあった。それが本当であれば、彼女ひとりだけが、隠された和臣の苦悩を感じていたのかもしれなかった。
そのような曲折を経て、ようやく留学が決まった途端の事故。そして怪我。
演奏家への道を絶たれたことで、急に熱が冷めたように、父親は息子への関心を失ったようだった。事故から一年後、和臣を日本に残して、白瀬夫妻は予定通り渡欧した。以来、父子は疎遠だという。
もし自分が治人の立場であったなら、と想像してみる。
関心を失ったというよりは、事故を境に、父と子は共通の言葉を失ったのかもしれない。音楽を仕事にしているといっても、ピアニストと高校の音楽教師では、視点が、価値観が、そして自分を取り巻く世界そのものが違う。息子にどう接したらいいのか、どんな会話を交わしたらいいのか、互いの心を繋ぐための方法を見失ってしまったのではないだろうか。
その気持ちは理解できた。
和臣と哉も同じようなものだ。
防音室と鍵盤の前でのみ成立しうる関係は、揺籃のような心地よさをもたらしてくれるが、今以上に深くなることも、広がることもない。
だからこそ、高木との会話で、あるいは結婚の話で、和臣から感じた血の通うひとりの人間としての体温は、哉をひどく困惑させた。和臣は哉を友人と呼んでくれはしたが、実際ピアノから離れてしまえば、もう語るべき言葉も、共有する景色もないのだという現実が、明らかになってしまうのが恐かった。
哉は瞼を落として、ピアノの調べに身を委ねた。
柔軟な手首から伸びた指が鍵を押すと、この世のものとは思えぬ豊かな音色が紡がれる。さながらそれは、光と影に遊ぶ無邪気な音の群れ。
高木に言われたことがあった。
己の内にないものを、弾くことはできないと。
ならば、こんなにも美しい音楽を奏でることのできる人間の目には、世界はどのように見えているのだろうか。
瞼の奥に広がる闇の中、ひとり静かにピアノを弾く少年の横顔が、淡い月明かりに照らされていた。
月の光はあらゆる美しいものも、醜いものも、分け隔てなく照らし出す。
その曖昧な輝きは、限りなく優しく、そして悲しい。
はじめて聞いた時は、同い年の少年が弾いたとはとても信じられない完成度に圧倒されて、昼も夜も、澄んだ音色がしばらく耳から離れなくなった。ただ当時まだ中学生だった哉には、この演奏の何が心を打つのか、具体的に理由付けできる知識も経験もなかった。
しかし今では、技術においても表現においても、和臣が比類なき演奏者であったことがはっきりと理解できる。和臣が失ったもの、自分が奪ったものがいかに大きかったのかという事実も。和臣が求めるのならば、哉は何でも差し出しただろう。だが彼は何も求めなかった。
気づかぬうちに、ピアノの音は絶えていた。あとには、穏やかな静けさだけが漂っていた。
どうしてか、涙が止まらなかった。