拍手をやめないで
アンコール
 ホール全体に響きわたる、鳴り止まぬ拍手の音。
 一分の乱れもない黒いタキシードに身を包んだ長身の青年は、機敏な動きで椅子から立ち上がると、観客席の反応を丹念に見回すこともせず、素っ気なく頭を下げた。慇懃ではあるが不遜とも取られかねない落ち着きはらった態度、嵐のような喝采を受けてもにこりともしない顔。それが彼にできる精一杯のお愛想なのか、それとも曲の仕上がりに不満があるのか、頑なな表情から感情を読みとることは難しかった。聴衆がピアニストについて知るのは、結局、その横顔と指の動きだけなのだから。
 この若き音楽家はそれまで海外を主な活躍の場としていて、今回のリサイタルはいわば凱旋公演だった。その初日は彼の地元で行われた。日本での知名度がそう高くない新進の演奏者のソロリサイタルとしては、客の入りはまずまずだった。
 スポンサーは彼の整った容貌を全面に出して宣伝し、これまでクラシックを聞いたことがない層を客として取り込もうとしていた。その試みは成功を収めたようだった。年期の入ったクラシックファンとそれ以外の女性客とで、客席はきれいに二分されていた。
 彼の演奏は、理知的で雑味がなく明瞭、しかし同時に男性的な力強さと重厚さがあった。徹底的に訓練され、磨き上げられた技巧は、怜悧な刃のように正確な打鍵を可能にした。間違いなく美しい音だった。だがそれは詩的な美しさというよりも、秩序の持つ美しさだった。
 他のピアニストならたっぷり時間をかけ、情感をこめて演奏するような聞きどころを、彼の指は躊躇なく走り抜けた。確かに全体の構成を考えれば、そこだけ急に情緒的な響きが現れるのはおかしい。作曲家の作品を包括的かつ丁寧に辿った解釈には、なるほど他者を納得させるだけの説得力があった。その潔さを評価する声がある一方で、批判的な者は苦い顔でこう言い放った。彼は一流のアスリートであり職人であり研究者であるかもしれないが、少なくとも芸術家ではないと。
 主人の完全な支配下にある指の動きが放つ音は、美しく端正ではあるが、厳格な禁欲さを感じさせた。聴衆に恍惚と感動を与えるよりも、緊迫と緊張を強いた。眠りにつく前や、作業の気晴らしに流すには向かない演奏だった。
 もしこれが技術と理論だけの音楽ならば、たとえどれほど技巧に優れていても、わざわざチケットを買ってまでその演奏を聴きたいと思う人間などいないだろう。
 しかし、彼のピアノにはある種独特の魅力があった。ふとした瞬間、はっと息を飲むような、印象的な旋律が耳の膜に触れる。そして人は、いつの間にかその堅苦しいほど生真面目な音に聞き入っている自分自身に驚かされるのだ。
 小難しい学術書に落ちた、詩文のような美しい文句。読み終えたあと、いつしか本自体の内容を忘れてしまっても、その一語だけが染みとなっていつまでも心に残る。彼の演奏を聴く者は、それと似たような体験を味わうことになった。
 選曲に関しては冒険を避けたのか、模範的な優等生と評されるに相応しいプログラム構成だった。新鮮味こそないものの、演奏自体の完成度はどれも高く、あらを探そうにも隙がなかった。観客のほとんどが、心地よい満足感を抱いて家路につくだろう。つまり日本公演の初日は、おおむね成功したといえた。
 一度舞台を去ったピアニストは盛大な拍手に迎えられて、アンコールの声に応えるために、再び聴衆の前に姿を現した。
 機械的に何度目かの礼をすると、拍手が次第に小さくなり、ホールはやがて静寂に飲まれた。
 椅子に浅く腰掛け、右手で左手首を愛撫するように握ると、彼は鍵盤に長い指を置いた。
 アンコール曲はショパンのエチュード。別れの曲の名で知られる作品だった。
 けれど演奏がはじまった途端、観客にさざ波のような動揺が広がった。ある者は困惑し、別の者は固唾を呑んだ。
 同じ人物に見える。だが、手首から先だけが誰かとすげ替えられたのだろうか。
 まるで別人のピアノだった。
 その音色に、先ほどまで会場を満たしていた重圧感はどこにもない。
 鍵盤を叩くのではなく、押すのではなく、深く入る指先が奏でる、身体の奥を抉られるような、甘く、苦く、どこまでも優しい響き。旋律の奥に秘められた、胸を焦がす激しい情熱。
 心をひどくかき乱されて落ち着きを失った人々の指は、せわしく組み合い、解かれ、また組み合う動きを無意識に繰り返した。あるいはじっとり汗ばんだ掌が、耐え切れぬように衣服の端をぎゅっと握った。
 変わらないのは、ピアノの前に佇む青年の、その静かな表情だけだった。
 普段の演奏が硬質な文章で書かれた論文だとすれば、これはまるで私的な手紙だった。
 躊躇う指で何度も書き直し、しかし誰の目に触れることもなく、破り捨てた手紙。再び屑籠から拾い上げたそれの感触を確かめるように、彼はゆっくりと顔をあげた。

 すべての音楽は沈黙に生まれ、沈黙に死ぬ。
 機械に録音して留めておくことはできる。だがそれは死んだものの影に過ぎない。ハンマーが弦を打つ度に生じる空気の震えはその瞬間だけのもので、同じ音を完全に再現することは不可能だ。
 自分は音楽そのものというよりはむしろ、演奏が始まる直前の、この静寂が好きなのかもしれないと彼はふと思った。
 コンクールやリサイタルで演奏するとき、少しも緊張しないのかと聞かれることがある。さして親しくもない人間との会話で、話の種が尽きた時の常套句だった。
 緊張などしたことがないと答えると大抵驚かれて、さすがだ、やはり常人とは違うなどと、決まりきった世辞が続く。
 なぜ緊張する必要があるのだろうか。
 舞台を支配する孤独と沈黙は心地よく、何よりわずらわしい世事をすべて投げ出して演奏に集中できる、唯一の場所であるのに。
 音楽を生業として暮らしていけるのも、今回の公演が実現したのも、家族や恩師をはじめとして、様々な人たちの尽力があってこその話だ。もちろん感謝していた。演奏の前でも、後でも。
 だが舞台にある今この時、感謝の気持ちなどどこにもなかった。
 くだらない愛想笑いも、金策も、煩わしい人間関係も忘れた。称賛も悪意も嫉妬も無関心も、無機質なガラス玉のような、何百、何千の観客の目も消えた。
 ただ自らの肉体と精神、そして冷たい鍵盤だけが世界のすべてだった。
 一方で、人間としての善意も良心も捨てた今ほど、自分が一番人間らしく思える瞬間はなかった。どんなに取り繕ったとしても、演奏家などという人種は、どうしようもない利己主義者ばかりだ。
 鍵盤を走る指を見つめて、ピアニストらしい、きれいで傲慢な指ね、と言った女がいた。
 同じ頃、東欧のある地方紙の取材を受けた。
 音楽とあなたとの関係は?
 そう尋ねられて、生涯の友と答えた。当たり障りのない回答だった。インタビューなどどうでもよかった。
 それを読んだ彼女は、耳元で嘲るように笑った。
 奴隷の間違いじゃないの、と。
 数年ぶりに顔を会わせた高木は、何だ、思ったより変わってねえなと屈託なく笑った。
 ひとりになった後、楽屋の鏡に映る自分の姿を眺めた。七年前と変わっているのかいないのか、自身では判断がつきかねた。だが多くを得、それ以上を失ったのは確かだった。
 この場所に立つためにしてきたことを、正当化するつもりはない。青臭い理想なんてものはとっくに蹴散らされていた。裏切りもし、裏切られもした。奪いもし、奪われもした。諦めを知り、苦渋を嘗め、抗うことのできない力の前に屈服したこともあった。
 彼の目には、今の自分はどう映るのだろう。
 今日来ているかもしれない。いないかもしれない。
 楽屋には姿を見せなかった。仕事の関係で遅れて来る予定だと、高木は言っていた。
 招待券を送ろうとした礼子の申し出を、自分で購入するからと、彼は当初固辞したらしい。それでも最後には母親が押し切って、正面中央の席のチケットを握らせた。
 事の顛末を報告したとき、礼子は電話の向こうで満足そうに言った。
「あんなにお世話になった方ですもの。いい席をご用意しなくちゃ。だって、一番のお客様でしょう?」
 客。
 その表現が最もしっくりくるかもしれない。元教師と元教え子など、限りなく他人に近かった。
 現在も女子高の音楽教師をしていること、独り身であること、ずっと同じ街に住んでいること。
 礼子から聞いて知ってはいたが、数日前に帰国したときにも、挨拶には行かなかった。
 顔を合わせたところで、何を話したらいいかわからない。
 一度限りの情事。若かった。若すぎた。あのときは気持ちばかりが逸って、申し訳ないことをしたと思っている。
 だが七年も前の過失を今更謝ったところで、自己満足以外の何物でもない。徒に相手を困惑させるだけだ。
 そんな葛藤も知らず、彼は会えばきっと変わらぬ笑顔を浮かべながら、冷静な耳で今回の公演の演奏を正しく読み解いて、良かった点、悪かった点を的確に指摘してくれるだろう。批評家のあら探しとは違って、本当に欲しい言葉をくれるはずだ。
 それから皆をまじえて楽しく昔話をして、やがて名残惜しそうに別れて、何事もなかったかのように、凍てついていた時間は再び穏やかに巡り始める。
 そこまで考えて、思考は中断された。
 会いたい、でも会いたくなかった。
 たとえ会場にいたとしても、顔を合わせずにやりすごしたかった。
 会いたいのはかつての彼、思い出のなかにある影だ。今の彼、血と肉を備えた生身の人間ではなく。
 音符の間に広がる果てのない空白を埋めるために、あらゆるものを糧にしてきた。
 知識を、記憶を。
 美しいものを、醜いものを。
 苦しみを、喜びを。
 それから愛を。
 感情は食物と同じ、消費されていくだけのものだった。
 先生、あなたは知っていたのだろうか。
 刻まれた傷跡が、埋められぬ喪失が、音楽を生み出すための代え難い血肉となることを。
 だから自らを餌としたのだろうか。
 差し出されたものは拒むくせに、自分が与えるときには躊躇いもしない人だから。
 過去が現在に飲み込まれることで、心を蝕み続けていた、あの肌の感触が、熱の記憶が消えてしまうのが恐ろしかった。痺れるような甘い痛みを、狂おしいほどの恋情を失いたくなかった。月の光の乾いた清浄さを持つ、何ものにも汚されることのないあの音色を。
 打ちのめされたときも、深く傷ついたときも、誰にも触れさせず、守り通してきた。それを貪るように食らって音楽にしてきた。
 もうとっくに色あせた思いなのかも知れない。後に残ったのは、輝かしかったものの残滓だけなのかも知れない、それでも。
 ……先生。

 その時、溶けいるように音が消えた。
 指の動きが止まった。深い沈黙が落ちた。
 今ここにひとつの音楽が生まれ、そして死んだ。
 仮初めの生命を与えられ、同じ手で奪われた。
 ピアニストは鍵盤から指を離し、しばらく呆然とピアノに対峙していたが、やがて観客に対する義務を果たそうと、見えない手に促されるように立ち上がった。
 次の瞬間、爆発するような激しい喝采がわき上がった。
 拍手、拍手、拍手。
 会堂を揺さぶらんばかりに鳴り響く轟音は、永久に続くかに思われた。
 拍手の形をとって送られた最高の賞賛とは対照的に、今宵の主役はどこか他人事めいた、演奏の直後とは思えないほど冷静な眼差しで、自らを取り巻く人々の熱狂を眺めていた。ここでやっとはじめて、客席の存在を思い出したかのようだった。
 散漫に漂っていた視線が、ある一点でひたと止まった。
 冷めやらぬ興奮にわく会場で、たったひとり、両の手を微動だにさせていない者がいた。
 背筋を伸ばして、まっすぐ前を見て、恐らく脚の上に組み合わせたきれいな指を置いて。容姿も、雰囲気も、別れた時とほとんど変わらぬ穏やかな彼の姿がそこにはあった。
 それなのに、中央正面の席を注視する哉の目は、愕然としたように大きく見開かれていた。
 舞台から望む客席は暗い。だから、はじめは見間違いだと思った。
 だが持ち主の当惑をよそに、二つの眼は正しく機能していた。
 和臣は泣いていた。
 後から後からあふれる涙が、頬を幾筋も伝っていた。
 信じられなかった。
 その静かな涙はまるで夢のなかの出来事で、現実のものではないようだった。
 どんな苦難も歓喜も、和臣の平穏を脅かすことはないはずだった。教師の立場から褒めてくれたり、評価してくれたりしてはいても、自分のピアノが本当の意味で彼の耳に届くことなど、ましてや心を揺さぶることなどないと、そう思っていた。
 思っていたはずなのに。
 そこにいたのは、尊敬してやまない恩師ではなかった。過ぎ去った日の幻影でもなかった。
 弱く、優しい、愛すべきひとりの人間だった。
 交わった視線は、二人を隔てていた時間と空間を瞬く間につなぎ合わせた。
 僕は、君の……。
 耳元で、懐かしい声が聞こえたような気がした。
 僕は、君のピアノが好きだよ。
 そのせつな、言葉でもなく、吐息でもない何かが、喉の奥を熱く詰まらせた。
 演奏の疲れが残る掌をきつく握りなおして、哉はなおも続く拍手の音に聞き入っていた。

 さあ、終演の時だ。
 多くの人々に感謝をこめて、深く深く頭を下げよう。
 着飾った少女たちから、両手いっぱいの花束を受け取ろう。
 眩しいほどの照明を浴びて、観客にできる限りの笑顔を送ろう。
 でも願わくば、今この時だけは。
 目頭にせり上がる熱をこらえようと、天を仰いで、祈るように瞼を固く閉じた。
 ほんのひとときだけでいい。
 どうか、拍手よやまないでくれと。
(終)