無題の幕間劇
 形ばかりの挨拶と握手のあと、どうぞお楽になさって、とアンナ・マリア・ペーカーは若い日本人に向かって微笑みかけた。オフィスの大きな窓からは、春の朗らかな日差しが降り注いでいた。
「お会いできて嬉しいわ、ミヤシロさん」
 アンナはじっくりと吟味するように、深く椅子に腰掛けたその青年を見つめた。
 今日の取材相手、ハジメ・ミヤシロは若手のピアニストだった。独特の魅力を持つ演奏と、恐らくは勤勉で有能なマネージャーの手腕により堅実にキャリアを重ねて、コンサートピアニストとして世界各地を回る多忙な日々を送っていた。
 髪も目も漆黒。日本人にしては背が高い。手元にある経歴によると歳は三十そこそこらしいが、アジア系の特徴に違わず、年齢よりもずっと若く見える。お世辞にもにこやかとはいえない生真面目そうな表情をしていて、一見すると物静かで内気な十代の少年のようだった。
「インタビューはドイツ語で? それとも英語が宜しいかしら」
 必要ならば通訳も用意する旨を伝えたが、彼は流暢なドイツ語で断った。事前にマネージャーに確認していたことではあるが、アンナは心中でほっと安堵の息をつきながら、ボイスレコーダーのスイッチを入れた。たどたどしいドイツ語や英語を拾いながら記事にできるような話題を引き出すのは、最大限の想像力を必要とする、実に骨の折れる仕事だった。
 母語や国語以外の言語を使いこなすことができなくても、決して恥じる必要はないとアンナは思う。むしろ通訳という仕事に敬意を払い、彼らの職能を活かすべきだ。本人ために、何よりインタビューする側のためにも。間違った用法で使われた「それ」が「どれ」を指すものなのか、笑顔で探るにも限度というものがあるのだから。
 アンナが編集者として在籍するM誌は、フランクフルトに本社を置く出版社が発行する中堅の音楽雑誌だった。クラシック音楽を扱ってはいるが、硬派な音楽誌というよりは、軽い読み物という形容が相応しい。すなわち影響力のある雑誌に必要不可欠なもの、歴史と権威と哲学とが欠けていた。
 ミヤシロはロンドン在住であるが、あるオーケストラとの共演のためにドイツに招かれていた。二日前に行われた公演での演奏をアンナが褒めると、彼は謙遜するでもなく、かといって自信に溢れた様子でもなく、ごく自然に感謝の意を述べた。
 彼が独奏者をつとめたチャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番は、つまらないお追従抜きでも素晴らしい出来映えだった。なぜドイツで、ロシア人の曲を、よりによって日本人のピアノで聞かなければならないのかという皮肉の声を、力で捻じ伏せる様はなかなか小気味よかった。これまでもこうやって、無数のピアノの音が響く小さくも大きな世界で、自分の立ち位置を築き上げてきたのだろう。
 拍手を送った時の興奮が耳の奥に熱く蘇るのを感じながら、アンナは卓上で組まれたピアニストの指をじっと注視した。
 繊細で優美、しかし小指までしっかりと筋肉のついた、男性らしさのある骨ばった大きな手は、厳かに沈黙していた。掌から伸びる爪の短い五指が、あの夜、力強くも官能的な動きで鍵盤を躍動していたものと、同じ身体の部位であるとは思えなかった。先ほど握手をした時に知った肌の感触は、ひんやりと冷たくて心地が良かった。
 アンナはそっと目を細めた。
 この手に愛撫されたいと願う者は多いだろう。
 力のある手、美しい手、才能ある手を女は求める。その三つをすべて備えているならば、なおさら。
 ふとアンナの注意は、ピアニストの手そのものから、左手の薬指に向けられた。そこには、飾り気のない指輪が填められていた。
 彼のファンには女性が多かった。行き過ぎた禁欲はセックスアピールにもなり得るのだ。静謐な指運びから時々こぼれ落ちる情熱と、ミステリアスな横顔に夢中になっている女性たちは、欲望をはねつけるような左手の輝きを見て、大いに失望することだろう。この指が触れるのは鍵盤とただひとりの肌だけなのだと、素知らぬ顔で告げているようだった。
 今日のために、これまで彼が受けたインタビューや雑誌記事は一通り目を通したのだが、どの写真を見ても指輪などしていなかったはずだ。結婚したという話も聞いていない。
 二十代の頃には厳しく尖鋭的であった音から角が取れて、優しさ、深み、豊かさが加わったと評されているのは、この指輪の送り主の影響だろうか。もっとも、文化圏の違う国の出身である彼にとっては、特別な意味などない、単なるファッションのひとつなのかもしれないが。
 ピアニストである彼は不躾に指を見られるのに慣れているらしく、アンナの女性的な関心のこもった視線にも全く気づいていないようだった。
 インタビューは順調に進んだ。
 彼は演奏と同じように、声も内容も、実に抑制のきいた話しぶりだった。ユーモアがあるタイプでもなかったが、ユーモアがあると勘違いしているタイプでもなかった。
 前もって同業者たちから得ていた評判通りの印象を、アンナも同じように抱いた。申し分のない回答者であり、品行方正で時間には正確、仕事の後で食事や遊び、ましてや夜の誘いをかけられたという話はついぞ聞いたことがない。
 よく言えば真面目、悪く言えば面白味がなかった。世の中というものは、名のあるピアニストがその才能に比例していかに変人であるかを知りたがり、常人には信じがたい性癖を示した逸話や名言があるほど喜ぶものなのだ。
 しかし、たとえミヤシロが芸術家であるよりは限りなく一般人に近い感覚を持っているとしても、触れてはいけない話題というものはある。
 彼の場合、同じく日本出身であるピアニスト、ハルヒト・シラセがその対象だった。互いに仲が悪いというよりは、シラセが一方的に嫌っているといった方が正しいようだ。ミヤシロが握手のために差し出した手を、シラセがにべもなく振り払った現場を見たことがあると言う証言をいくつか耳にした。年齢も演奏スタイルもレパートリーも大きく違う二人の間にどのような確執があるのか、具体的なところは誰も知らなかった。
 シラセの名前を器用に避けつつ、この寡黙な青年から読者が興味を抱くようなフレーズをどうにかして引きだそうと、アンナはひとり孤独な戦いを続けていた。インタビューの進行自体が順調だからといって、必ずしも望むような成果を得られているとは限らないのだ。
 彼は淡々とした口調で、道徳と規範が混乱する現代社会において、倦み疲れた人々は、古典音楽のもたらす秩序に慰めを見いだしているというような話を、ドイツの哲学者の思想を交えて語った。
 若い男らしからぬ艶のない話題に呆れて、ならば余暇は何をして過ごしているのかと聞けば、大抵はピアノを弾いているという答えが返ってくる。ピアノが唯一の趣味なのだと。
 同意と感嘆を示すにこやかな笑みの下で、アンナは密かに舌打ちした。M誌の読者はそんな話を求めているわけではない。アンナは親しい友人などにはM誌が扱う記事がいかに下らないものか扱き下ろしていたが、他人が同じように貶めることは決して許さなかった。
 彼女は彼女なりに、確固たるジャーナリストとしての意志をもっていた。すなわち歴史と権威と哲学なきM誌は、ただ俗なる愛をもって、影響力を持つ偉大な音楽誌という権力に対抗するのだ。
 アンナは努めて柔らかな声音を作って言った。
「最近は、特に音楽の内容が充実しているとご評判ですね。……幸福感がにじみ出ているような」
 眼鏡の奥に、獲物を捉えた肉食獣のような光が浮かんだ。
 やや退屈な内容ではあるが、雑誌の記事とするために十分な量のインタビューはすでに揃っている。これから先、プライベートに踏み込みすぎた不用意な質問をぶつけてしまい、もし彼が気を悪くして帰ったとしても、後からいくらでも体裁を整えることができるだろう。
 アンナは手強い音楽家連中を相手にしてきた経験豊かなベテランで、これまで出会ってきた偏屈なピアニストたちに比べたら、目の前の青年は産まれたばかりの子猫に等しかった。
「プライベートが演奏に影響することはあるのかしら?」
 直接的すぎるほどの質問だった。すでにアンナは開き直っていた。この程度で腹を立てるようなら、それだけの器の男だったということだ。M誌が軽薄な本であることは周知の事実であるのだから、仕事を受けた以上、インタビューを受ける前にそれなりの覚悟をしておかなけらばならない。そもそも話題にされたくないのならば、はじめからこれ見よがしに指輪などしてくるべきではないのだ。
 ミヤシロはここでやっと、アンナの視線の先にあるのが、自分の手全体ではなくて左手の薬指なのだという事実に気づいたようだった。
 そのときはじめて、彼は口ごもった。
「ええ、まあ、そういうこともあるかも知れませんね」
 しかし微かに兆した困惑は、次の瞬間には瞬く間に消え去ってしまった。彼は卓に置いた指を組み直すと、私生活が古き音楽家たちの作品にいかに影響を及ぼしたか、具体的なエピソードを並べ始めた。
 逃げられた。
 アンナは、子猫の爪で浅い傷跡をつけられたような衝撃を受けた。その後も音楽における愛や恋についての話を振ったが、自身の経験談に誘導しようとする度に、のらりくらりと巧みに避けられてしまった。
 こちらにも非があることは否定しないが、少しはインタビューを受ける者としての自覚を持ち、課された責務を果たそうという努力を示して貰いたい。アンナは憤慨した。ショパンとジョルジュ・サンドに関する手垢のついた話など心底どうでもいいと思っている癖に、だらだらと言葉を継いで、限りある時間を無為に使わないで欲しいものだった。
 互いの喉元に剣を突き合うような緊張感を感じながらも、粛々とインタビューは続いていった。
 しばらくして、アンナはちらと壁時計に視線を送った。残された時間はあと五分。今回の戦いでは、アンナが敗者となる気配が濃厚だった。
「故郷についてお聞かせ願えますか? 十代の頃にイギリスに渡ってから、ほとんど帰国しておられないというお話ですが」
 それでも最後まで決して諦めるまいと早口で尋ねるアンナに、ミヤシロは抑揚の少ない声で答えた。
「そうですね、日本に滞在するのは年に十日ほどでしょうか。公演のあるときぐらいで」
 日本には休暇という概念はないのだろうか。そう考えながら、アンナは言葉を継いだ。
「長くお一人で世界を飛び回る生活をされて、恋しいと思われたことは?」
 まるで母親を恋しがる幼児に対する質問だ。アンナは口にしてからはしまったと思ったが、彼は気にしていないようだった。
「仕事もありますし、マネージャーもいますし、ずっと一人というわけでは……。それに距離が近すぎると、却ってうまくいかなかったような気がします。私も子供でしたから」
 そうして、彼はぽつりと独り言のように言った。
「大切にするつもりで、壊してしまったかも」
 アンナは首を捻った。
 壊してしまいそうだったものとは、故郷のことだろうか。
 だが、それでは文章として意味が通らない気がする。
 では、別の何かか。
 理論的で簡素な表現を好む彼にしては、どこか曖昧な口振りだった。
 アンナは必死に考えを巡らして、空白を埋めるのに相応しい単語を絞り出した。
「壊すとは、思い出を?」
 怪訝な口調で聞き返されて、ミヤシロは急に目が覚めたようになった。
「ええ、思い出を」
 ここで、ちょうど約束の時間となった。
 アンナには厳格な倫理観があった。職務上求められて人の心を暴く行為に後ろめたい思いなど抱かないが、人の時間を奪うことは許されざる罪悪のひとつと考えていた。
 内心の失望を隠しながら、アンナは最後の質問をミヤシロに差し向けた。
「あなたにとってのピアノ、ピアノにとってのあなたをひとことで言い表すと?」
 彼はちょっと考え込むように視線を漂わせた。それからややあって、ゆっくりと口を開いた。
「支配すると同時に支配されている。服従させると同時に服従している。つまりは」
 その瞬間、アンナは思わず瞠目し、ひっきりなしに走り続けていたペンの動きをぴたりと止めた。
 指に顎を預ける仕草が愛撫に、あるいは優しく指輪に口づけているように見えたのだ。
「……奴隷ですよ」
 ピアニストは、静かな微笑を浮かべて言った。