ある朝、いつものように貴之が選んだネクタイを締めながら、将生がふと思い出したように言った。
「この間、後輩に誉められたよ。急にネクタイの趣味がよくなったって」
貴之は食パンを口に持って行きかけた手を止めて、顔をしかめた。
「……その後輩って女性ですか」
「ああ。よくわかったな」
「それ、女がいないか探られてるんですよ」
継父の鈍感さに呆れて、大きく溜息をつく。
「やっぱり、ネクタイ選ぶのやめます。妻に先立たれてそんなに経たないのに、次の女がいるんじゃないかなんて疑われでもしたら、職場の人の心証が悪くなります。昇進に響くかも」
「考えすぎだろ」
「そんなことありません。将生さんが呑気すぎるんですよ」
「他人が何をどう想像してるかなんて、考え始めたらきりがない」
将生はネクタイを締め終えて食卓につくと、すっかりぬるくなっていると思われるコーヒーを口に含んだ。
「直接言われたら、事実を伝えればいいさ」
「事実?」
「息子に選んでもらってるってな」
「馬鹿言わないでください」
言い返す貴之の語調に、苛立ちが混じった。何て融通が利かない男なのだろう。
「そんなの誰が信じるっていうんですか。余計に言い訳じみて聞こえますよ。高校生の、しかも血の繋がってない息子がそんなことするなんて、普通ありえないでしょう」
しかし、と将生はなおも淡々と続けた。
「事実は事実だ。それに俺は有り難いと思っているし、実際助かっている」
貴之は眉を顰めた。この頃、貴之が反抗したり生意気な口を利くと、将生は逆に嬉しそうにしている気がする。この男、マゾなのか。
嬉しがらせてやるのは不本意だと思いつつも、自然に反論が口をついた。
「でも」
だが。いや。だからといって。
どちらかが折れない限り、言い合いは果てしなく続く。二人にとっては特別珍しいこともない、日常の光景だった。
今回は、渋々ながら貴之の方が引いた。将生とてそれなりの身なりをしていればそれなりの容姿であるのに、みっともない格好をしているのを見るのは耐え難かったのだ。
しかし結局、いつまで経っても服飾に関する将生の感性は向上しなかった。
貴之の選ぶネクタイを見て勉強させて貰う。当初確かにそう言っていたはずなのだが。
いつの間にかネクタイを選ぶのが習慣として日常に埋もれてしまった数年後、貴之ははっと気づいた。
自意識過剰なのかもしれないが、もしかして貴之に選んで貰うために、将生はわざとセンスが悪いふりをしているのではないだろうか。
「将生さん、あんた……」
「どうした?」
継父に疑惑の眼差しを向けるものの、どこか喜んでいるように見える将生を前にすると、まあいいかという気持ちになって、なぜか諦めと同時に強い敗北感を味わったのだった。