二十回目の誕生日、貴之はリビングでレポートを書き進めながら、陰鬱な気持ちで継父の帰りを待っていた。
十七歳の誕生日は前月に母が急死したのでそれどころではなく、十八のときは友達が祝ってくれるからと嘘をついて逃げ、去年は将生が日本にいなかったからメールのやりとりだけで済んだ。
だが、今回ばかりは逃げられなかった。サークルの仲間と約束があると言ってやりすごそうとしたのに、先手を打たれたのだ。
「誕生日、空けておいてくれ」
何週間も前から言われては策の練りようがない。将生にしては異常なほどの立ち上がりの早さに驚かされた。いつもはぼんやりのくせに。
貴之の住む学生寮の改築に伴って二人が再び共に暮らし始めたのは、今から約一週間前のことだった。だが今までの同居とは、同じようでいて決定的に違う点がある。
将生のマンションに越してきた初日、食事のときも、風呂のときも、寝るときも、緊張のあまり心臓がうるさいほどばくばくと鳴り続けていた。平気な顔を作ってはいたが、内心は、全く、少しも平気ではなかった。由美子の墓参りに行ったあの日から、お互いにそういった意味では指一本触れていなかった。何かあると思わない方がおかしい。
だが将生ときたらいつも通りの調子で、動揺する貴之をよそに、さっさとリビングにひいた布団にひとりで寝付いてしまったのだった。ひょっとすると、貴之の方から誘えということなのだろうか。しかし、そんな真似は絶対にごめんだった。その気がない相手に仕掛けるなんて、こちらが欲求不満みたいじゃないか。
それから数日、さりげなく風呂や就寝の時間を合わせてタイミングを図ってはみたものの、やはり将生とそういった雰囲気になる気配は微塵もなかった。
それとも、と嫌な仮定が頭に浮かぶ。
まだ貴之の父親に未練があるのだろうか。
あるいは、こうなってしまったことを後悔しているのか?
いや、まさか。
頭によぎった想像を打ち消しながら、キーボードを連打した。睨みつけた画面は、無意味なスペースで埋め尽くされている。
乗り気だったのはむしろ将生の方だ。
だから、まさか、そんなはずは……。
そんな調子で根拠のない疑惑に迷い、振り回され、疲れ、疲れ果てて、鬱屈を溜めた一週間が過ぎた。いざ誕生日だと言われても、どうせ期待するようなことは何もないのだろう。
「……期待?」
自分で思い浮かべた言葉に自分で疑問符をつけながら、貴之は課題に意識を集中しようと努めた。正しくは、努めようとした。
そもそも、誕生日だからといって何をするつもりなのか。継父にはレジャーだのイベント事だのを企画したり楽しんだりといった才能が絶望的になかった。もし将生がフレンチやイタリアンのレストランを予約でもしていたら、喜ぶより先に、別人が乗り移っているのかと疑うところだ。
レポートを蹂躙せしめていたスペースを消そうとキーボードに指をのせたとき、玄関から鍵を開ける音がした。
「おかえりなさい」
画面から目も上げず、おざなりに言った。が、がさがさとビニールが擦れあう耳障りな音が耳の近くで聞こえてきたので、好奇心に負けてつい顔をあげてしまった。
次の瞬間、眼前に突きつけられた光景に衝撃を受けて、しばらく口が利けなかった。
「将生さん、それ」
「誕生日おめでとう」
将生はロマンチシズムの欠片もなくそう言って、手に持った大きな赤い薔薇の花束を差し出した。
思考が完全に麻痺してしまった。たっぷり三十秒ほど固まったあと、やっと自分を取り戻した貴之は、夢うつつのままに花束を受け取った。数えてみると、薔薇の数は二十本。年の数だけの薔薇の花束とかいう代物が今ここに実在すると知って、軽い目眩を覚えた。
「ありがとう、ございます……」
「でかくて花瓶に入らないな。……バケツにでも入れておくか」
将生がバケツを取りに風呂場に向かったあと、残された貴之は腕の中の薔薇を持て余しつつも、ダイニングテーブルに置かれたデパートの紙袋をのぞき込んだ。
ケーキとおぼしき紙箱と、チキンなどの総菜がきちんと整頓されて収まっている。
ケーキにチキン。個人の誕生祝いというものを、クリスマスか何かと間違えているのだろうか。
疑問はすぐに罪悪感に変わった。将生は恐らく、身内だけで祝い事をした思い出がないのだ。
高校生の時はそこまで思い至らず、将生の誕生日には簡単なプレゼントを用意し、食事をいつもより少しだけ豪勢にしただけで、あっさり流してしまった。今更ながら後悔の念が湧き上がってくる。
「遅くなって悪かったな。デパートで適当な総菜を買ってきたんだが……」
青いバケツを手に戻ってきた将生が言った。貴之から受け取った薔薇の花は、水を張ったバケツに入れられた。この華やかで美しい薔薇も、バケツに活けられるために育てられたわけではないだろうに。薔薇のまわりには、涙を誘うような哀愁が漂っていた。
貴之が紙袋になおも視線を注いでいるのに気がついて、将生が言った。
「売場で一番甘くないケーキだそうだ。お前、甘いの苦手だから」
将生の言葉に引っかかるものを感じて、思わず聞き返した。
「売場で一番、ってどうしてわかるんですか? ケーキ屋なんて、いっぱいあるのに」
「インフォメーションの人に聞いた」
貴之は頭を抱えた。いくら客商売とはいえ、一番甘くないケーキを教えてくれなどと言われて、デパートのインフォメーションの人もさぞ困ったことだろう。
これ以上深く追求するのはよそう。そう確信して、紙袋の中身に手をかけた。
「出していいですか」
と言いながら、貴之は許可を得る前に総菜の入ったプラスチックケースやケーキの箱を取り出していた。
一番甘くないというケーキは、大人の手に収まるくらいの小さなホールのベイクドチーズケーキだった。確かに、これならば生クリームも塗られていないし、貴之も食べられそうだ。
ふとケーキの箱にテープで小袋、と呼ぶには少々大きい袋がついているのに気がついた。貴之はまさか、と思いつつ、恐る恐る袋を破いた。覚悟はしていたものの、中に入っていた大量のカラフルなそれに、言葉を失った。
「……わざわざ言ったんですか、蝋燭二十本くださいって」
「だって、お前二十歳になったんだろ?」
あっさりと答える将生を、貴之は鋭く睨みつけた。
「そういうときは二本でいいんですよ! このサイズのケーキに二十本も蝋燭立てたら、どう考えたって見た目が気持ち悪いでしょう!」
小ぶりのケーキに隙間なくびっちり突き刺さった色とりどりの蝋燭。想像するだけでぞっとするものがある。
「じゃあ飾るのは二本にして、余った蝋燭は非常用の持ち出し袋に入れておくか」
脳天気に返されて、思わず大きな溜息が漏れた。
「そういう問題じゃなくてですね……」
そのとき、嫌な疑惑が頭をよぎった。
「駅前の花屋、こんな遅い時間までやってましたっけ」
「ああ、花束はデパートで買ったんだ」
にわかに目眩が激しくなった。デパートは自宅の最寄り駅ではなく、将生の通勤経路の途中の乗り換え駅にある。つまり、この派手な花束を持って電車に乗ったのか。いくら紙袋に入っているとはいえ、中身は丸見えだ。
仕事を終えてからの将生の様子が、ありありと目の前に浮かぶようだった。インフォメーションでケーキについて尋ねるときも、二十本もの蝋燭を頼むときも、電車に揺られながら目の覚めるような赤い薔薇の花束を抱えて帰ってくるときも、店員や通行人の好奇に満ち満ちた視線にも気づかず、きっと大真面目な顔をしていたのだろう。
恥ずかしい。考えるだけで赤面しそうだった。
貴之が手を入れて外見はかなりましになってきたとは思うが、中身に関しては相変わらず、冴えないというか、何をしても格好のつかない男だ。
もう一度深い溜息を繰り返しながら、貴之は冷蔵庫の前で飲み物を選んでいる将生の背中に、頭をもたせかけた。
「貴之?」
「……こっちが恥ずかしいですよ、本当」
この男は格好付けるなんてことは考えもせず、ただ愚直に貴之のためを思って、誕生日を祝おうと努力したのだ。その不器用さが恥ずかしくて、見ていられなくて、同時にひどく心をかき乱されてしまう。
けれど、と貴之は唇をかんだ。
これだけしておいて、どうせいつかは貴之が成長と共に離れていくとでも思っているのだろう。何となく、将生の振る舞いからそんな気持ちが伝わってくる。だから手も出してこない。大人にはありがちだが、青少年に夢を見すぎだ。ここまで深く入り込んでおいて、逆に不誠実だと思わないのだろうか?
考えているうちに、腹立たしさがこみあげてきた。
将生は自らを取り巻く剣呑な空気にも気付かない様子で、グラスと缶ビールをテーブルに置き、貴之の向かい側に腰を下ろした。
「食わないのか?」
「有難く頂きますよ、もちろん。食べ物には罪はないですし」
不貞腐れて言ったとき、卓上に総菜とは別の紙袋があるのに気が付いた。
「何ですか?」
いつまで経っても答えようとしない将生の態度を怪訝に思い開けてみると、中にはゴムと潤滑ゼリーの箱がしたり顔で並んでいた。貴之は無言でそれを取り出した。視線が、両手に収まった二つの箱に張り付いて離れようとしない。
「まさか、駅前のドラッグストアで買ったんですか」
将生は神妙に頷いた。足元で地崩れが起こったような強烈な目眩に襲われる。
自分が、必要以上に体面を気にする性格だという認識はある。
だが、これはありえない。鈍いにもほどがある。
「信じられない」
薔薇の花束抱えてこんなもの買うなよ。これから何するつもりなのか、丸わかりじゃないか。苦笑を堪える店員の表情が目に浮かぶようだ。あの店にはもう二度と行けない。
「信じられない……」
俯いたまま長い溜息を吐き尽くすと、急に笑いが込み上げてきた。声を出して笑うことなんて滅多にない。だが、これ以上ないほど格好悪く、なおかつわかりやすい形で心情を示されたら、もう笑うしかなかった。馬鹿みたいに笑うしかなかった。
ひとしきり笑った後、目の端に浮かんだ涙を拭いながら、将生の脚の上に腰を落とした。ネクタイを緩めてするりと引き抜く。
「今まで指一本触れなかったのに、二十歳になったとたんにやる気満々ですね。中学生男子ですか、あんた。……そんなにしたかった?」
自分だけではなかったのだ。思春期のような欲望と不安を持て余して、悶々としていた間抜けは。
そう思うと、この地味な三十男に妙な可愛ささえ感じてしまう。
胸をときめかせる途方もない多幸感を唇に預けて、甘ったるい吐息と共に頬を軽くなぜた。
「これだけ準備万端ってことは、ようやく諦めつきました? それとも、まだ俺に欲情するのに罪悪感がありますか」
囁くと、間近にある将生の瞳がほんのわずか動揺をみせた。いい気味だ。
貴之は箱から取りだしたゴムの袋を銜えた。そのまま、指でつまんで勢いよく封を開ける。
「早速使わせて貰いますよ。五個くらいはいけるでしょう?」
「……五個は無理だろ」
「根性なし」
根性なしの顎を上向かせる。啄むような軽い口づけの感触は下から侵してくる舌の熱さに支配され、ほどなくどろどろに溶けて消えてしまった。
涼しい顔をしてどれほど溜め込んでいたのか、予定数に近い数のゴムを消費したあと、空腹に耐えきれず惣菜とケーキに手を出した。
容赦なく快楽を与えられ続けた四肢と腰は、すっかり使い物にならなくなっていた。食器を用意するのも面倒で、床に座り込み、指と舌とを箸代わりにして互いの口に様々な味を雑に押しこんだ。
愛撫の合間に咀嚼して、キスし、嚥下し、思い出したように繋がり、たまに面白くもないのに笑った。ケーキに蝋燭を立てるのを忘れていたから、明日にはきっと非常用持ち出し袋にでも入れられていることだろう。
歯の間に割って入ってくる無骨な指に、甘噛みで抵抗しつつ考える。自分ばかりが調子を狂わされるのは、不公平だ。
将生のときには、サプライズで盛大なお誕生日会を開いてやろう。ティッシュペーパーで花をつくり、折り紙の輪を繋げて、当てつけがましく誕生日おめでとうと書いた垂れ幕に飾りつける。手作りの甘ったるいデコレーションケーキにはきっちり年齢分の蝋燭を立てて、バースデーソングにクラッカーで賑やかに乾杯だ。
そのときの将生の表情を、口移しで与えられたケーキを味わう合間に想像した。
困惑と、驚きと、気恥ずかしさと、それから少しの喜び。今日押し付けられたものを、そっくりそのまま突き返してやる。ありがとうなんて、素直に言えそうもないから。
貴之の二十歳の誕生日から数週間後の日曜日。朝、起床したばかりの将生は欠伸をかみ殺しながらリビングにやってきた。覚めやらぬ眠気にぼんやり漂っていた視線がふと、ソファの上に置いてあった医学書に止まった。
貴之はこの日、ボート部の練習に参加するため早朝から出かけていて不在だった。昨晩は貴之の部屋で寝てしまったのだが、目覚めたときにはベッドの隣はもう冷たくなっていたから、かなり早い時間に出発したのだろう。
いつも整理整頓を怠らない貴之が物をしまい忘れるなんて珍しいこともあるものだと思いながら、その分厚い書物を手に取った。
すると、開いたページの間から葉書大の紙が落ちた。昔もこんなことがあったな、そのときは一万円札だったが、などと考えつつ、何気なく拾い上げた。
はじめは絵かと思ったものの、よく見ると、それは押し花だった。
見覚えのある、色あせた赤い薔薇。
男子大学生が持つにしては、ずいぶん可愛らしい品物だ。
将生は何事もなかったような顔をして押し花を挟み込むと、医学書を元あった場所にそっと戻した。
ひとまずコーヒーでも飲もうと思って台所に向かい、カップにポットの湯を注ぎ入れる。スプーンでかき回すこと数十秒、いつまでたっても色が濃くならないと思ったら、インスタントコーヒーのつもりで緑茶の茶葉をそのままマグカップに入れていたようだ。
将生は深呼吸ひとつすると、掌に顔を埋めた。
顔が赤くなるなんて、たぶん中学生のとき以来だ。