-数年後-
小話その3
 職場から持ち帰った仕事をするとき以外に、家で私物のパソコンをつける機会はほとんどない。家計簿をつけるときくらいだろうか。機械をいじるのは好きだが、情報機器にはあまり興味がなかったのだ。
 その夜はできるだけ早く印字しておきたい資料があったので、将生は久しぶりにしまい込んでいたノートパソコンを引っ張り出してきた。
 プリンターの排紙が終わってから十五分ほどして、無意識のうちに資料から離れて、警察関係のサイトで身元不明者の情報を見ていた自分に気がついた。指に染み着いた癖のようなものだった。身元の分からない遺体の特徴を確認したところで、物心つく前に別れた人間など見分けがつくはずがないといつも思いながら。
 父親が行方不明になってから約三十年。とっくに失踪宣告の手続きは済ませてある。聞いたところによれば、元々だらしのない性格だったそうだが、妻を失うと同時にアルコールに溺れるようになったらしい。ある朝、まだ一歳にもなっていなかった将生を保育園に残して、そのまま会社にも出社せず姿をくらませてしまった。
 血の繋がった父親である男に対して、許すとか許さないとか、そういった感情は微塵もない。それは自分が寛容な心を持つ人格者というわけではなく、単に現状に満足しているからに過ぎないのであって、もし不満があれば今も恨みを抱いていたかも知れなかった。
 だが万が一、どこかで生きていたとしたら。
 今や肉体を失って、文字の羅列として記されているのみの死者たちの面影を追いながら、将生は眉根を寄せた。
 金の遣い方の下手な男であったようだから、居所を知られれば金の無心をされる可能性は高い。あるいは、借金の保証人を頼まれるか。
 逆に死亡が確定すれば、悲しむより先に安堵するに違いない。たとえ情がないと人に蔑まれようとも。
「……何ですか、これ」
 そのとき、後ろから呆れたような声がした。背中に湿り気のあるほのかな温かさを感じる。半ば振り向くと、風呂から上がったばかりの貴之が、肩越しに画面を注視していた。
 マウスを持つ手の上に、自分のものでない掌の感触が乗った。貴之はとん、と人差し指を叩いて画面を切り替えた。
「こんなのばっかり見てるから性格が暗くなるんですよ」
 責めるような、戸惑うような瞳が上から覗きこむように将生を見つめる。貴之は察しがいいから、誰を捜していたのか、言わなくても気づいているのだろう。
 そのまま、柔らかな唇と影が落ちてきた。相手の、そして自らの不安を埋めるように、互いの下唇を優しく食むように吸い上げる。
 両手で包んだ頬のすぐ上にある二つの眼が、こちらを強く見つめてきた。深い闇を打ち消すような、鮮烈な光に思う。心にも生活にも、もはや顔も知らない男の入り込む余地などなかった。そんなことは、とうに気づいていた。足りないのは、ほんの小さなきっかけと、変化を受け入れる勇気だけだった。
 甘く誘いをかけてくる熱に応じながら、片手でディスプレイを閉じた。かたん、と乾いた音がして、亡霊の影は霧散した。
 きっともう、あのページを開くことはあるまい。
 父親がそうであったように、自分も強い人間ではない。生憎ひとり抱くだけで、この腕はいっぱいなのだから。

 薄く眼を開けると、カーテンの隙間から見える空がほんのりと白んでいる。今いる位置から時計は見えないが、午前四時前後といったところだろう。
 家具や家電すら微睡んでいるように、早朝のリビングはしんと静まりかえっていた。聞こえるのは幹線道路を流れる車の音と、すぐ側にある微弱な寝息だけ。
 貴之は右手を顔の近くに寄せて、朝の光に散りゆく夜闇に目を凝らした。暗くてはっきりとは見えないが、きっと跡が残っているはずだ。身体のそこかしこに、昨晩の情事の気配が未だ色濃く染みついていた。こちらに背を向けて眠る男を軽く睨みつける。
 「仕事」で覚えた技を使うと、心なしか普段とは扱い方が違う、気がする。だから時々ふざけ半分に露骨に煽ると、結局最後には、想像の遙か上をいく行為で意趣返しをされる羽目になった。今このときも、恐らく全身みっともない痣だらけだし、とてつもなく無理を強いられた関節は悲鳴を上げ、いつになく深く、執拗に奥を突かれた後部は、芯に熱い疼きを残している。
 ほんの数時間前、無遠慮に内部を蹂躙せしめた熱の存在が半身を切なくする。貴之は居心地悪そうに脚を抱え、頬を赤くした。
 こうなることがわかっているなら、はじめから人を試すようなことをしなければいいだけの話なのだが、心情として、素直に身を委ねるばかりというのも気にくわない。
 それに、と一度考えを中断し、貴之は半ば持ち上げた頭を手で支えて、ふてくされたような表情で将生の脚を軽く蹴った。
 恐らく子供の頃からひとりで生きていくことに慣れているためだろう、将生は何事も自分だけで完結してしまう癖がついているようだった。
 誰かに何かしても、見返りを求めない。それどころか、そんなものが存在することすら意識にないのではないかと思われる節がある。
 人の心とは面倒なもので、行動なり物なり、他人から与えられたものに後から代償を求められても、逆に一切何も求められなくても、嫌な気分になったり不安を覚えたりするものだ。貴之が将生に対して感じているのは後者だった。だから、つい刺激してしまうのだ。
 取り留めもなく思考を弄んでいるうちに、すっかり目が覚めてしまった。貴之は欠伸をかみ殺しながら身をよじり、起きあがった。
 性格的に、このまま夜が明けきるまでだらだらと寝転がっているのは苦痛でしかなかったから、自室に戻って提出期限の迫っている課題に取りかかるつもりだった。勉強に集中できるようにと将生は貴之に個室を与え、自分はずっと野生動物のようにリビングで寝起きしているのだった。
 もっとも、家で勉強に励んでいるのは貴之だけでなく、将生も同じだった。海外赴任を終えて帰国した後、それまで籍を置いていた企画開発から、全く畑の違う管理部門に配置換えになったらしく、業務関係の法令集を開いたまま燃え尽きたように寝ていることもあった。
 はっきりとは口にしないものの、将生は元の仕事に戻りたいような印象だった。
 率直に理由を尋ねると、小考の末、こんな答えが返ってきた。
「半田と油のにおいが好きだから」
 断片的過ぎて要領を得ないが、つまり昇進して管理する側になるよりも現場で実務に関わっていたいという意味と貴之は受け取った。
 車も知り合いの整備工場に持って行って自分で手入れしているようだし、機械いじりは好きなようだ。それをはじめて知ったとき、将生にも好きなものや趣味のようなものがあるのだと驚いた。一体、自分は養父を何だと思っていたのだろう。今でも、よくわからない点の方が多いが。謎めいているというようりも、突拍子もない言動で驚かされることは少なくない。
 寝息がとぎれていないことを確かめ、できるだけ気配を殺してそっと立ち上がろうとしたとき、だしぬけに後ろから強く腕を掴まれた。拒絶しようにも間に合わなかった。そのまま強引に、布団の上に押し返される。
 突拍子もない行動が、またきた。
「何するんですか」
 貴之は渋面をつくって、鋭く将生をなじった。背後からほとんど羽交い締めされて、身動きがとれない。少し掠れてしまっている声に対する気恥ずかしさもあって、容赦なく相手の脛を蹴り飛ばすが、効果は今一つのようだった。
「部屋、帰りたいんですけど」
 文句は将生の耳に確かに届いているはずなのに、無視された。貴之は苛立ってさらに声を低くした。
「聞き分けのない子供みたいなことしないでくださいよ、お父さん」
 貴之が将生を、お父さん、と呼ぶのは、故意にからかうか相当腹を立てているときだけだ。そんなことは当然承知しているはずだが、それでも将生は腕の力を弱めなかった。それどころか、愛撫の動きで首筋に唇を当ててきた。伸びかけた髭が肌に触れて、痛がゆい。貴之は確信した。この男、まだ半分寝ているのだ。
「ちょっと、痛いですって。あんた、今日も仕事ですよね?」
 ああ、と明らかに気のない空返事をしながら、耳朶に軽く歯を立ててくる。それでも貴之はしがみついてくる男をどうにか引き離そうと、一応は無駄な努力を重ねた。
「俺だって、もうさすがにこれ以上は身体がもちません」
「寒い」
「それなら、毛布持ってきますよ」
「いらない」
 らしくない強情さに呆れた。
「あんたね……」
「毛布はいらない。お前がいい」
 突然の言葉に驚いて、息が止まりそうになった。
「行くなよ」
 抱きすくめられた状態で、耳の膜を低く優しい声がふるわせた。吐息のかかった部分がひどく熱い。その熱に抵抗する気力をすべて奪い取られてしまったように、全身からすとんと力が抜けた。
「……側にいてほしい」
 プライドも見栄もかなぐり捨てて、必死で身体を押しつけてきて、ひたすら格好悪く求めてくる面倒くさい男、その体温。そんなどうしようもないもので、容易く浮ついた気分になってしまう自分が嫌になる。
「まだするんですか?」
「したいよ、一日中でも」
「でも、本当にもう……」
 弱い拒絶を言い終える前に、唇を割って舌が押し入ってきた。そのまま、重くて男くさい身体が遠慮なくのしかかってくる。寝ぼけているせいか、気遣いでくるまれていない生のままの欲望をぶつけられているようで、肌に指が届くたびに背筋が甘く粟立った。
 こうなってしまっては、理性など歯止めにもならなかった。次第に強くなる朝日に罪悪感を覚えつつも、情欲に溺れた。
 セックスのやり方は知っていても、互いの感情を伝え合うのは相変わらず下手くそだった。将生も、自分も。ひとりは大人ぶりたいのか、それとも言動に責任を持ちたいのか、何を言うにもするにもいちいち慎重すぎるし、もうひとりはどうしても素直になることができない。
 将生は自分から誘ってくることは滅多になかった。彼なりの気遣いかも知れないが、決定権を与えるように見せかけて、逆に主導権を握られているような屈辱感を感じた。それに、自分の言動ひとつでこの不毛な関係が一瞬で終わってしまうのではないかと不安になりもする。将生のそういうところが嫌いだった。
 そこまで考えて、貴之は背中を抱いた腕に力をこめた。悲しくもないのに、なぜか泣きたい気分になる。嫌いではあったが、それでも肌を合わせれば許さずにはいられない。
 肉体以外のすべてを剥ぎ取って、肌には滲む汗だけを纏って、夢の続きのように手足を絡ませながら、肩越しに白んだ朝の光を見る。
 無償の愛情などいらない。
 だから求めてほしい。強引に、我を忘れるくらい、激しく求めてほしい。今この瞬間、どうしようもなく自分が求めているように。
 思わず零れ落ちそうになった言葉を飲み込んで、息もできないくらい、夢中で唇を貪った。

 ちょうど時刻は正午過ぎ。多忙に継ぐ多忙の合間の閑散期、しかも昼休みの時間帯とあって、総務部の席はどこかくつろいだ雰囲気が漂っていた。
 社食に行く者、弁当を持参した者、売店に買いに行く者、各々昼食のメニューを思い浮かべつつ、上司に声を掛けてから退席しようとしたそのとき、島の上席、係長のデスクの方向から、ごん、と鈍い音がして、和やかな空気に緊張が走った。
 係長がノートパソコンのキーボードに額を打ち付けた、ように見える。
 数秒後、彼はデスクの引き出しからおもむろに試供品の栄養ドリンクを取り出して、賞味期限を確かめてから一気に飲み干した。それから何事もなかったかのように顔を上げ、再び黙々と報告書の作成に取り組み始めた。
 社員たちはそっと目線を合わせた。係長に注がれた憐憫の眼差しは、無言で告げている。
 ロボもたまには故障するんだな。
 村沢将生は部下や同僚から、陰で「ロボ村沢」と呼ばれていた。
 仕事が効率的で早く、しかもミスが少ないという点を評価しているのであって、決して悪い意味ではない。
 が、そればかりではなかった。連日の残業と休日出勤で誰もが生ける屍となっている時期でも疲れ知らずで仕事をこなし、加えて、かなり衛生状態が悪い国に出張しても腹ひとつ壊さない頑健さが、ロボがロボと呼ばれている所以だった。ロボの海外出張に同行した社員は、たいてい帰国後二日か三日は寝込んでいる。現地で同じようなものを飲み食いしているはずなのだが。
 彼の私生活は謎に包まれていた。気むずかしいわけでも秘密主義というわけもはなく、聞けば恐らく教えてくれるだろうが、酒の席でも何となく聞きづらい。そういう雰囲気の男だった。若くして妻と死別しているというのもその理由のひとつだろう。
 だが、男やもめになって数年。新しい出会いがあってもおかしくはない。現に、いつのまにか服の趣味が変わっていたり、美味そうだがどこか敵を牽制するような弁当を自席でもそもそと食べていたりと、怪しい点は多かった。たとえ彼女がいたとしても、衣食住に手綱をつけたがるタイプのようだし、独占欲が強くて苦労するんじゃないかとは、部下のひとりである目敏い女性の談である。
 ふと、沈黙の中心にあるのが自分であると気づいたのか、村沢はあたりを見回した。
「手が空いているようなら、昼行ってくれ。俺は席で食べるから」
 そう言われて、めいめい休憩を取るために席を外した。皆大人だったから、上司の常ならぬ奇行も軽く受け流した。せいぜいが、昼食のときに雑談のネタにするぐらいだ。
 区切りのいいところで手を止め、村沢も休憩を取ろうと、弁当の包みを取り出した。
 部屋に残ったのは数名。そのうちのひとり、持病のため弁当を持参している定年間際の課長が、通りがかりに何の気なしに村沢のデスクをのぞき込んで、絶句した。
「おいおい、ずいぶん個性的な弁当だなあ。いつもはあんなに美味そうなのに」
 弁当箱いっぱいに敷き詰められた白米に、ふりかけで大きくバツ印が書いてある。村沢は延々と続く白い大地を耕す手を休めて、振り返った。
「課長」
「何だかよくわからんが、駄目だったか」
 課長の眼には、そことなく同情の色が浮かんでいる。村沢は静かに頷いた。
「はい。考えるまでもなく私が悪いんですが。……かなり、無理をさせてしまったので」
「まあ、そういうこともあるよな。俺の弁当のおかず分けてやろうか?」
 いえ、お気持ちだけで、と村沢は上司の好意を丁重に辞退した。
「これだけで腹一杯ですから」
 そう言うと、どこか嬉しそうに米を頬張った。