-数十年後-
小話その5
 その建物は医療関係の施設に類されるものだったが、一般の病院と違って出入りする人の数も少なく、息を顰めるようにひっそりと住宅地に佇んでいた。
 ほとんど夕方に近いある日の午後、正面玄関で顔見知りの医師の顔をみかけた君島は、迷わず声をかけた。
「村沢先生!」
 村沢と呼ばれた男は立ち止まって、軽く伏せていた目を上げた。いつもの白衣ではなくスーツ姿だったから、帰りがけなのだろうと思った。
「今月はよく会うね。また変死の扱い?」
「いえ、ちょっと資料を受け取りに」
 君島は二十歳そこそこの、新米刑事だった。この施設に勤めている監察医の村沢は一回りほど年上で、何度も仕事で世話になっている。
「夜勤明けですか?」
「ああ」
 失礼、と村沢は欠伸をかみ殺した。
 その疲れた様子から察すると、きっとろくに仮眠もとらず夜勤をこなしたのだろう。同じような環境で働いている君島には、その眠気が痛いほどよく伝わってきた。お互い時間が来れば業務終了、というわけにはいかない仕事なので、仕方のないことではあるのだが。
 素っ気ない口調のせいか村沢はきつい印象のある男だが、案外面倒見がよくて、下っ端の君島を気にかけてくれているようだった。検分の際にも、難解な専門用語を流さずにひとつひとつ丁寧に説明してくれるし、どんなに些細な質問であっても嫌な顔をせずに答えてくれる。
 もっとも、寛大であると同時に怠慢には厳しく、一度回答を与えてくれた疑問を二度三度繰り返すような事態に陥ると、氷のように冷淡な反応が返ってきた。それに、御遺体に対して礼を失した言動をとる刑事がいれば、年齢も階級も関係なくもの凄く怒られる。そのあたりは容赦なかった。
 だが、若いのに博識で、彼に助けられた事例をあげたら切りがない。職種も属する組織も違えど、誠実さと情熱を感じるその仕事ぶりに、君島は感嘆の念を抱いていた。
 そのとき突然、村沢が君島の方に向き直って、真剣な表情で尋ねてきた。
「夕飯何食べたい?」
「……え?」
 質問の意図が全く飲み込めず、君島は硬直してしまった。若い刑事の異変に気づいて、村沢はすぐに陳謝した。
「悪いね、いきなり妙なことを聞いて。家で仮眠をとってから夕食の支度をするつもりなんだが、献立が何も思い浮かばないんだ」
「なるほど」
 自分の理解能力がなくなったのかと不安になった君島は、安堵の息をついた。今まで村沢と仕事以外の話などしたことがなかったから、突然差し向けられた穏便な話題に頭が追いつかなかったようだ。
「先生、料理なさるんですね」
「ここ何年も身内以外に食わせたことがないから、味の保証はしないが」
「得意料理とか、あるんですか?」
 村沢はちょっと考えてから言った。
「……ハンバーグかな」
「俺、ハンバーグ好きなんですよ! 食ってみたいなあ、先生のハンバーグ」
 つい立場を忘れて話に飛びついてしまったことに気がついて、君島は顔を赤らめた。
「すみません、馬鹿みたいにはしゃいで」
「勇気あるね、俺の作ったハンバーグが食いたいなんて。仕事の内容、わかってるだろうに」
 村沢はからかうように目を細めた。
 自分は刑事だからそういった感覚は薄いが、恐らく抵抗がある人間は少なくない。誰かにそう言われたことがあるから、身内以外に手料理を振る舞うことがないと言ったのだろう。そんな口振りだった。
 君島は素直に頭をひねった。
「俺だったら……肉じゃががいいですね。職場の寮住まいで、こう、家庭料理!って感じの食事に飢えてるんです。すみません、たいしたメニューが思いつかなくて」
 申し訳なさそうに言う君島に、村沢はいや、と首を振った。
「肉じゃが、いいな。ちょうど今日、家族が海外出張から帰ってくるんだ。和食からしばらく離れていただろうし」
 家族。いつも冷ややかで皮肉っぽい言葉しか出ない男の口から、どこか温かい響きを持つ一語が発せられて、何だか不思議な気分になった。
 海外出張ということは、家族、恐らく細君も働いているのだろう。村沢は人と距離を置いているような超然とした雰囲気があって、どんな家庭生活を送っているのか、全く想像がつかなかった。
「ありがとう、参考になったよ」
「あとは、ご家族の好きなものはどうですか? さりげなく聞いてみるとか」
 君島の何気ない問いかけに、村沢は渋面を作った。
「自分のことなんかどうでもいいと思っている人間だから、あてつけみたいに俺の好物を言われるだけだよ」
「そうなんですか……」
「まったく、いつまで子供扱いされるんだか」
 そう言って微笑む眦に微かな色気のようなものを感じて、一瞬胸がどきりとした。いつも隙のない人間がみせる無防備さに、不意打ちを食らわされた気分だった。
 君島は動揺を悟られないように、早口でまくしたてた。
「あ、あの、先生、お優しいんですね! 奥さんもきっと喜びますよ、そこまで考えて貰って。……俺も早く結婚したいなあ。可愛い嫁さん見つけて」
 憧憬と諦観の入り交じった溜息をつくと、村沢はわずかに目を見張った。
「奥さん? いや……」
 しかし、その弱い否定は君島の耳まで届かなかった。村沢は開きかけた唇を一端閉じて、独り言のように言った。
「まあ、似たようなものか」
 そのとき、君島が悲鳴を上げた。
「いけねえ、車に係長待たせてるんだった! すみません、長話しちゃって」
「もう会わないといいな、お互いのためにも」
「そんなこと言わないでくださいよお」
「忙しいところ引き留めてしまって悪かったね。でも助かった。じゃあ、お先に」
 門に向かう村沢を見送りながら、君島は考えた。いくら慣れるとはいっても、村沢や自分が携わっている仕事に、厳しい面があることは否定できない。
 関わったすべての悲劇に対して深く心を寄せていては、こちらの精神が持たなかった。元から感受性の欠如した者もいなくはないが、多くの刑事たちにみられる無神経さと鈍感さは、自身を守るために訓練して身に着けた職業上の技能のひとつだった。
 だからこそ、いついかなる状況にあっても他者への敬意を忘れず、最期まで人を人として扱い、しかも現実的に対峙できる強さを持った村沢を尊敬していた。
 かといって、感傷的になりすぎるわけでもない。優しさと冷静さのバランスがとれているのだ。
 たぶんそれは、村沢が愛しおしさをこめて口にした「家族」のお陰もあるのだろう。そう思うと、やはり羨ましさがこみ上げてくるのだった。
「先生、お疲れさまでした!」
 敬礼をすると、村沢は振り返る代わりにひらひらと手を振った。その背中は少々くたびれていたが、静かな幸福が滲んでいるような気がした。

 短い仮眠を取った後、スーパーで買い物をした帰り道。駅前の喧騒を抜けて住宅街に入ったところで、ちょうどスーツケースを転がしながら歩く将生に出くわした。
「タクシー使わなかったんですか」
 貴之が尋ねると、歩きたい気分だったから、と将生は答えた。
 一か月の海外出張から帰ってきたばかりにしては、全く疲れた様子がない。体力が人並み以上にあることはもちろん、育ちのせいか、将生は環境の変化というものにめっぽう強かった。
「変わったことはあったか?」
「特には」
 嘘ではなかった。将生が不在の間に行われた祖母の三回忌で、伯父に「死体触った手でよく飯なんか作れるな。俺は絶対に食わないぞ。ま、村沢君は鈍そうだから気にならんのだろうが」などと言われたことは、変わったこと、の範囲に入る価値すらない出来事だ。思ったままを素直に口にしただけで、本人に悪気はない様子だったが。言われなくても食わせてなどやらない。
 頭によぎった伯父の赤ら顔を即座に追い払って、家までの道すがら、とりとめもない会話を重ねた。土産話、というには華やかさに欠ける話ぶりだが、その緩やかな空気が心地よかった。
 土産は何だろう。また、妙な木彫りの人形や用途不明の焼き物でも買ってきたのだろうか。将生なりに一生懸命選んでいるようなので一応貰ったものはすべてとっておいてはいるが、整然とした自室のなかで、継父からの土産を置いている棚だけが異様な威圧感を放っている。
「夕飯は肉じゃがですよ」
「夕飯? 無理しなくていい。今日、夜勤明けだろう。外に食いにでも」
「あんたに食べさせたいんじゃなくて、俺が食いたいんです」
「じゃあ、俺も」
「手伝いなんていいんで、先に風呂入って下さい。汗臭いから」
「……そんなに臭うか?」
 少し慌てたようにスーツの臭いを確認しはじめた将生を見て、貴之は声を出さずに笑った。
「大丈夫ですよ。よっぽど近くにいなければ気づきません」
 無駄な言葉で沈黙を埋める必要も、場の空気を読む必要もないせいか、将生といると気が楽だ。肩の力が抜けて、心がふっと軽くなる。とはいえ、人目があるので一定の距離を保つことを忘れてはいなかった。
 この適度な距離感が、二人の特殊ともいえる関係を長続きさせている理由のひとつかも知れなかった。もっとも、長く続いている、ということはつまり新鮮味がないともいえる。元からなかった感情の盛り上がりも年と共に益々なくなっていくし、些細な衝突がないことはなかったが、今更別れたところで、別の相手を探すのも面倒だった。
「奥さんねえ……」
 眉根を寄せて言いながら、将生の横顔をしげしげと眺める。
「どうした?」
「相も変わらずむさ苦しい顔だと思って」
「……悪かったな」
 話をしているうちに、やがて二人の住まいであるマンションに着いた。
 エレベーターを降りたところまではよかった。部屋の鍵を開け、スーツケースを玄関に引きずり入れた瞬間、何かがぷつりと切れた。スーパーの袋が床にどさりと落ちる。それが合図だった。
「貴之?」
 不穏な擦過音に反応して、将生が振り向いた。
 無言で後頭部を引き寄せると、目線が等しくなった。次の言葉を発する暇を与えず、首に両腕を絡め、舌先で唇の縁をなぞった。一分の暇も惜しいとでもいうように、懐かしい体臭を、感触を丹念に味わう。認めたくはないが、ずっと待ち焦がれていたものが手中にあることに、渇望が一気に満たされていくのを感じた。
 将生は驚きもせず、性急な口づけを受け入れた。貴之を抱き上げるように、腰に腕を回した。
「汗臭いんだろ」
「いいですよ」
 皆まで言わせるつもりなのかと、苦々しい表情を将生の肩に埋めた。
 適度な距離感? 笑わせる。
 外では素知らぬ顔で取り繕っていたくせに、家に着いた途端に何て様だ。盛りのついた犬でもあるまいし。大人の余裕とやらは、年齢を重ねるだけでは身につかないものらしい。
 冷静にそう思考を巡らせたのは一瞬で、分別も節度も再び合わせた唇から奪い取られてしまった。口づけを重ねるたびに、べとついた甘ったるい情欲に全身が支配されていく。生ぬるい喜びに足元を掬い取られて、なすがままに流されていく。
 顔を合わせれば、結局いつものこのパターン。
 かれこれ十年以上、同じ相手と同じような行為を繰り返しているというのに、よく続いているものだと我ながら感心する。だが、不思議と飽きることがない。
 毎年誕生日には、判で押したように大きな薔薇の花束を買ってくるような男だ。意外性も面白味もないし、努力の方向性が見当違いだと呆れつつ、それでも……。
 結局、玄関で立ったまま一回、ベッドに移動してもう一回した。後先考えずに夢中になってしまったので、汚した服を脱ぎ散らかしたままの玄関先はひどい有様だろう。
 最後に達した後、腹部を圧迫していた性器が抜き去られると同時に、寂しさのようなものが込みあげてきた。挿入されている状態が完全で、異物から解き放たれた今のほうが、不完全な気がしてしまう。
「疲れたか?」
 後始末を済ませた将生は、ぐったりした様子の貴之を気遣うような声をかけた。
「いえ」
 将生ときたら常日頃の言動は淡白なのに、いざ事に及ぶとなると執拗に責め立ててくるので、夜勤明けの身には少々堪えただけだ。
 貴之はだるそうに壁側を向いた。帰国した直後のくせに、将生の方が平然としているのが嫌になる。体力面で張り合ったところで勝ち目がないのは、決して短くはない付き合いの間にわかりきっていたはずなのだが。
 反面、頭はすっきりしていた。肌を合わせることで性欲が満たされただけでなく、将生がいない間に気づかず累積していた泥のような疲れも、冷え切った仕事部屋にいるうちに凝り固まっていた心のしこりも、心地よい熱に溶かされてきれいに消え失せていた。
 いつからか将生とのセックスが、オンとオフを完全に切り替えるためのスイッチになっていた。
 貴之は枕に顔を埋め、密かに溜息をついた。
 長い年月をかけて、身体がこの男だけのためにカスタマイズされてしまったようだった。快楽と苦痛の限界をぎりぎりまで見極めて、骨の髄から溶かされる。こんな芸当ができる相手は、後にも先にも、たぶんこの世にひとりしかいない。
 ベッドが軋み、背後で人の立ち上がる気配がした。
「どこ行くんですか」
「シャワー浴びてくる」
 と、咄嗟に腕が伸び、自分を置いてさっさと風呂場に向かおうとする男の手首を掴んでいた。
「あ」
 将生が不思議そうにこちらを見ているが、うまい言い訳も思いつかない。
「これは、別に」
 一度掴んでしまったものを無視して引っ込めるわけにもいかず、貴之は気まずそうに手を離して、頭まで布団に潜り込んだ。
 普段から事後はあっさりしたものだ。甘い包容や台詞なんて、欲しかったわけでも期待していたわけでもない。
 将生は何も言わずベッドに戻り、後ろから腰に腕を回してきた。互いの四肢が絡み合い、しがみつくような格好になる。火照りの残る肌が熱い。男二人が寝るには、シングルベッドは窮屈だった。
 二人はそれぞれの寝室に、それぞれのベッドを持っていた。来客があったときに、寝室を分けていないと不自然に思われるからだ。将生との関係を、当人たちの他に知る人間はいなかった。
 寝るにもその他のあらゆる行為をするにも狭いベッドであるが、不満ではなかった。身を寄せ合う口実ができるからだ。
 一向に収まらない胸の高鳴りを隠そうと、貴之はぼそりと言った。
「……行ってくださいよ、シャワー」
「後でいいよ」
 うなじに唇の弾力を感じる。抱きすくめてくる腕の力が強くなった。
 自分のもの以上に親しんだ腕の輪郭を指の先で辿り、貴之はそっと目を閉じた。
 人の心は変わるものだ。愛しさも憎しみも、同じ形のままではいられない。ちょっとしたきっかけで均衡を失い、揺れ動き、簡単に壊れてしまう。
 それでも、すっかり身体に馴染んだ包容の感触が、何度住まいが変わっても、どれほどの年月を経ても、ここが自分の戻るべき場所なのだと教えてくる。
 珍しくしきりに髪を撫でてくる将生に、貴之は身体を捻って顰め面を返した。
「何ですか」
「久々だから」
「久々って、たった一月でしょう?」
「ああ、ほんの一月だ」
「……何か俺に言いたいことでもあるんですか」
 返答の代わりに目を細められる。なぜか負けたような気がして、顔に血がのぼった。
「この頃、笑うとき目尻に皺が寄ってますよ」
 貴之はゆっくりと寝返りを打つと、仕返しでもするように相手の目尻に触れ、それから指先を髪に移した。
「ほら、白髪も。あんた、年取りましたね」
「お互いな」
「一緒にしないでください」
 軽口の応酬に交えて、さり気なく口にした。
「お帰り」
 聞き流してくれることを期待した。
 だが数秒置いて、ただいまと囁く声が、低く、甘く、耳を蕩かしたのだった。