「……これは感想じゃなくて、あらすじだな」
だが、たったひとりそのごまかしに気づいた人間がいた。それが中学の時の担任、平井誠だった。平井は若い国語の教師で、明るくて気さくな人柄で生徒たちから好かれていた。まさかそんな鋭いところがあるとは思っていなくて、不意をつかれてしまった。
平井は、そのほかの点についても目敏かった。彼以外の誰も気づかないようなほんの些細なことも、見逃してはくれなかった。
中二の夏、仮病を使ってプールの授業を頻繁に休んでいることがばれてしまった。衣服の下に隠れるようにしてつけられた痣や傷についても。
夏休み、誰もいない教室に呼び出されて、二人で長い間話をした。
平井は直接的なことは何も聞かなかった。
ただ落ち着いた声音で、どこで、いつ、どういう状況で負った怪我なのか質問してきた。
嘘に嘘を重ねるにつれて、話の内容に綻びが生じてきたのが自分でもわかった。それでも、平井は不器用な言葉を遮ることもせずに聞いていてくれた。
そのとき、理屈ではなく本能的に嗅ぎとった。平井は傷の向こうに、ひとりの男を見ているに違いないと。
母は出産時に死亡、父は失踪宣告を受けて数年が経ち、両親がいなかった自分は当時、遠縁の男と二人で暮らしていた。家事全般ができるようになったのは、炊事、洗濯、掃除とすべてをやらされていたからだ。
振り返ってみれば、家政婦というよりは奴隷の扱いだった。その待遇はごく普通で当たり前のことだ、いや、誰にも言えないような恥ずかしいことだ。常に相反する二つの気持ちが拮抗していた。
そんな内面のせめぎあいなんて知らないはずなのに、目をそらしても、黙り込んでも、平井の真摯な視線はどこまでも追ってきた。
もう逃げられないと悟り、稚拙な表現で懸命に伝えようとした。
確かに殴られたことはある。でもそれは、与えられた役目をちゃんとこなせなかった自分が悪いのだ。学校に通わせてもらって、食べ物も住むところも世話してもらっているのに。
道義に適っているかいないかなど関係ない。ましてや、男を庇うつもりもなかった。理由もなく暴力をふるわれるのが一番恐ろしかった。だから自分なりに筋の通る理由をいつも準備していた。自分の側に非があるのだから殴られるのだと。理不尽な暴力に翻弄されるよりは、そう思う方がずっと気が楽だった。
長い沈黙が落ちた。
教室の窓から見える空は青くて、夏らしい大きな白い雲が流れていた。グラウンドからは、部活に精を出す生徒たちのかけ声が聞こえてくる。その声が明るければ明るいほど、教室に差す影が濃くなっていくようだった。
正面から、静かな声がした。
「君が学校に通ったり、普通に生活を営んだり……愛情を受けるために、代償なんて必要ないんだ」
突然手を強く握られて、驚いたあまり俯いていた頭を上げてしまった。まるで自分が殴られたように、目の前の顔が苦しげに歪んでいた。
「先生……」
何か喋らなくてはと思うのに、続く言葉が出てこなかった。大人の男も、子供と同じように悲しんだり苦しんだりするものなのだ。そんな当たり前のことをこのときはじめて知って、愕然とした。
自分のことを、こんなにも思ってくれる人間が存在する。そのことに少しも現実感がわかなくて、まるで浅い眠りのなかで夢を見ているみたいだと思った。目覚めたら、すぐに忘れてしまうような夢を。
息が詰まるほどの生ぬるい静寂のなか、じりじりじりと蝉の鳴く声が、いつまでも、いつまでも、痺れるように鼓膜をふるわせていた。
それからにわかに身辺が騒がしくなった。夏が終わる前に男の家から連れ出されて、児童養護施設に入れられた。あの男がどうなったのか知らなかったし、関心もなかった。これまで通り何も考えずに、流れに身を任せていくだけだった。
違ったのは、すぐ側に頼れる大人がいたことだった。施設は隣の街にあったから、中学も転校することになった。もう担任でも生徒でもない。それなのに、平井は心を砕いてくれて、しょっちゅう電話をしたり、何かと理由をつけて会いに来てくれたりした。
平井と過ごした時間は決して長くはなかったけれど、彼と出会って、自分の中で何かが大きく変わったのを感じていた。
そうして、慌ただしくも平穏な一年が過ぎた頃、盲腸で入院することになった。ちょうど中間試験の日程と重なっていて、級友の見舞いはほとんどなかった。寂しくはあったが、仕方のないことだ。中学三年生の秋、進路に関わる大事な時期なのだからと、自分を無理やり納得させた。施設の職員は毎日衣類などを持ってきてくれたが、他にも仕事があるので雑談もそこそこにすぐに帰ってしまう。
受験勉強のために問題集を開くものの、術後でまだ体調が回復しきっていないのか、集中することができなかった。病室は常に静まりかえっているわけではなく、四人部屋の他の三人のところには頻繁に家族や友人などが見舞いに来ていて、絶えずどこからか話し声がしていた。
昼間、カーテンを閉め切って横になっていると、自分だけが白い世界にたったひとりでいるような、虚しさと苦しさを感じた。食事に投薬、検温、問診、それから就寝。作業じみた日課を繰り返すたびに、平井と出会う前の自分に、誰からも忘れ去られた、誰からも必要とされない透明な人間に戻っていくようだった。
孤独と不安を持て余し、もやもやとした鬱屈に気分が沈みきったまま数日が過ぎたとき、ひとりの見舞い客があった。
「調子、どうだ? 痛みは引いたか?」
平井だった。懐かしい顔を見て、急に目の奥が痛くなった。
喉にこみあげるものをこらえて、平気です、と答えた。
きっと平井も試験の関係で忙しかっただろうに、こうして来てくれるだけで申し訳なかったし、有り難かった。
「悪かったな、なかなか見舞いに来れなくて。……お前のことだから、痛くても我慢してたんじゃないか? 辛いときは自分から言わないと、誰にも気づいてもらえないぞ。職員さんに言いにくければ、いつでも俺に電話してきなさい。夜中でもいいから」
教師の表情で言ったあと、平井はくしゃりと破顔した。
「手術、がんばったな」
がんばったな、偉かったなと何度も繰り返し誉められて、両手をぎゅっと握られた。
平井の言うとおり、手術は怖かったし、術後は痛かった。でもそんなことを言ったら困らせるだけだから、ずっと我慢していた。そんな弱い自分を許してくれたのは平井だけだった。涙が零れてしまわないように、必死で手を握り返した。
何気ない一語が、仕草が、温かく胸に染み込んでくる。こうして会えるだけで、嬉しくてたまらなかった。
この人はどうして、いつも一番欲しいものを与えてくれるのだろう。自分の手はいつも空っぽで、お返しに差し出せるものなど何もないのに。
ふと、平井は枕元に置いてある数冊の本に気づいたようだった。暇つぶしになるようにと、施設の人が適当に選んで持ってきてくれていたのだ。
「この本、読んだのか?」
頷くと、平井はさりげなく感想を求めた。自分の考えを整理しながら、ゆっくりと言葉を継いだ。
「あんまり好きな話じゃありません。主人公は都合のいい筋書きを言われるままに追っていく駒みたいで、何も考えてない。運が良くて、周りの人の好意と親切に助けられて、最後にはお決まりのハッピーエンド。何だか砂糖で無理やり甘くしたお菓子みたいで、胸焼けがします」
批判的な意見であったはずなのに、平井はなぜか満足そうだった。その穏やか顔に、なんだかばつが悪くなってしまった。
「……すみません。文句しかなくて」
「いいんだよ、それで。ちゃんと自分の言葉で言えたな」
平井の目尻に寄った皺が深くなった。
「無理も背伸びもしないで、そのとき自分にできることをすればいいんだ」
優しい言葉が、弱っていた心を強くしてくれた。これからしばらく平井に会えなくても、きっと、この声を支えに頑張ることができる。そんな気がした。
その後も、手術について、学校生活について、受験についてと、いつになく饒舌になって楽しく話をしているうちに、心地よい時間はあっという間に過ぎてしまった。
「じゃあ、そろそろ失礼するよ。長居して悪かったな。また来るから」
暇乞いをしようとした平井の鞄から、定期入れが落ちた。床に視線を移すと、二つ折りの定期入れが開いていて、笑顔の若い女性とほんの小さな子供が頬を寄せ合っている写真が目に入った。
平井は定期入れを拾い上げながら、微かに顔を赤くした。
「恥ずかしいもの、見られちゃったな。妻と子供なんだ」
それから、会社員の妻はしっかりした女性だということ、息子は今二歳であることなどを恥ずかしそうに話した。
いつにも増して柔らかい平井の語調からは、幸福がにじみ出ているようだった。
それが羨ましくて、それから少し寂しくて、思わずぽつりと呟いてしまった。
「俺にもいつか、家族ができるかな。先生みたいに、温かい家族。もし家族ができたら、大切にしたい」
言いながら、視線は平井の手の中にある写真に注がれていた。
「何よりも、大切に……」
「できるよ。当たり前だろ?」
「本当に?」
自信に満ちた声に背中を押されて嬉しくなったが、冷静になってみればありえない話だった。
「でも、やっぱり無理です。家族ってどんなものか、俺にはよくわからないし」
「馬鹿、心配するな」
平井は笑った。
「お前なら、大丈夫だよ」
乱暴に頭をぐしゃぐしゃと撫でられた。優しい手の感触に、また目頭が痛くなった。
平井が死んだのは、その帰り道でのことだった。
退院して外出が許されるようになったときには、通夜も葬儀もすべて終わっていた。前の中学の同級生に住所を教えてもらって、せめて線香だけでも上げたいと思い、平井の住まいを訪れた。
遺された家族の気持ちなんて、これっぽっちも考えていなかった。謝らなければいけない、そんな急いた気持ちだけしかなかった。平井が死んだのは、自分のせいなのだから。
「……教え子さん、かしら?」
アパートの扉を開けて応対した由美子は、突然やってきた制服姿の弔問客に少し驚いたようだった。事前に連絡した上での訪問、なんて気遣いは中学生には思いもつかなかったのだ。それでも、由美子は快く迎えてくれた。後から聞いた話によれば、次から次へと押し寄せるマスコミの攻勢がやっと一段落したところで、ひどく疲れていたはずだったのに。
通されたリビングには真新しい祭壇が設えられていた。そのとき、別の部屋から子供の鳴き声がして、由美子は慌てて腰を上げた。
「ごめんなさい、子供が起きたみたい。ちょっと待っててね」
ひとり残されて、微笑を浮かべる平井の遺影と正面から向き合った。祭壇には、手で抱えられるくらいの箱も置いてある。ここに遺骨が納められているのだろう。
平井先生は、もういない。
死んで、燃やされて、灰になった。
もう喋らない。笑わない。どんなに手を伸ばしても、届かないところに行ってしまった。
親しかった人を失って、普通なら悲しさを覚えるのが当然なのだろう。
だが、自分でも拍子抜けするぐらい、心が空っぽだった。
読書感想文と書くときと同じだ。言葉が何も出てこない。先生は、あんなにもたくさんのきれいな言葉を教えてくれたのに。
ぼんやりと遺影を見つめていると、由美子が子供を抱いて戻ってきた。
「お茶も出さないでお待たせしちゃって……どうしたの?」
最初、問いかけの意味がわからなかった。ややあって、由美子はそっとポケットからハンカチを取り出した。
「よかったら、使って」
自分が泣いていることに、そこではじめて気がついた。物心ついてから、涙を流したことなんてほとんどなかった。泣きたくなることはたくさんあったけれど、泣いたところで嫌な顔をされるか殴られるだけだったから。泣いて優しくされたのは、生まれてはじめてだった。
「……俺のせいです。先生が亡くなったのは、俺の見舞いに来てくれたからなんです」
訥々と語られる拙い話に、由美子はじっと耳を傾けてくれた。
平井が喧嘩に巻き込まれたのは、病院を出て最寄り駅まで歩いている途中だった。自分の見舞いになど来なければ、平井が死ぬことはなかった。自分が殺したのと同じだ。
だが話し終えたとき、由美子は首を振った。
「それは違うわ。私は運命なんて信じていないけど、仕方のないことだったのよ。あなたのせいじゃない」
仕方のないこと。そんな台詞で結論づけて欲しくなどなかった。責めて欲しい、許さないで欲しい。夫を奪われた彼女には、その資格がある。
そう伝えたいのに、涙で喉がつまって、もう言葉が言葉にならなかった。
由美子の声としゃくりあげる背中をさすりあげる手の感触は、どこまでも優しかった。
「あなた、村沢くんでしょ? いつも夫から話を聞いていたわ。すごくいい子だって」
ここでやっと、自分が名乗りもしていなかったことに気がついた。名前も告げず、初対面人の前で泣きじゃくった。最低だ。
「ごめんなさい。苦しい思いをさせてしまって。……それから、ありがとうね、あの人のためにそんなに泣いてくれて」
由美子は続けた。静かに、まるで自らに言い聞かせるように。
「もし気持ちが落ち着いたら、あの人が死んだことじゃなくて、生きてたことを、ちょっとだけ思い出して欲しいの。どんな話をしたとか、どんなものを一緒に見たとか……たぶん、そっちのほうが喜ぶんじゃないかな。あなたには幸せになって欲しいって、そう言ってたから」
ふと背中に、由美子のものではない小さな手が置かれた。母親の行動を真似たのか、それまでぶすっとした顔をして由美子にしがみついていた子供が、慰めるような仕草で背を撫でているのだ。
「よかったら、抱いてやってくれる?」
涙を拭いながら躊躇いがちに頷くと、両手にずしりとした体重がかかった。湿り気があって、見た目よりもずっと重い。黒目がちの大きな目が、こちらをじっと見つめている。
「貴之っていうの」
腕のなかに息づく、命の温かさ、そして重さ。
再びこみ上げてきた嗚咽に身をゆだねながら、この感触を一生忘れまいと思った。
十数年もたってそんなことを思い出したのは、後から考えると、貴之の顔立ちが平井によく似ていたからかもしれない。写真を並べてみれば、確かに平井と貴之はそっくりだった。
だが再会したときに気づかなかったのは、こちらを注視する利発そうな眼差しは彼だけのもので、その強い印象に飲み込まれてしまったのだろう。どれだけ面差しが似ていても、目が違うだけで表情は別の人間のそれだった。
貴之は年の割に礼儀正しい、落ち着いた少年だった。ただやはり完全に成熟した大人というわけではなく、言動の端々から素直な感情が零れ落ちていた。
自己紹介をしている最中、テーブルの向こう側から、大人の欺瞞と狡さを見透かすような瞳がこちらを抉るように見てきた。その潔癖さと鮮やかな烈しさは大人にはないもので、いつまでも心に残って離れなかった。けれどそれ以後、貴之は二度と目を合わせようとしなかった。
奨学金の関係で相談に乗ってもらって以来、由美子とはほとんど手紙だけのやりとりが続いていた。今考えれば、由美子が奨学金について詳しかったのは、息子のために資料を集めていたからなのだろう。高校を卒業した後は就職することしか頭になかったし、そういうものだと思い込んでいたから、別の選択肢を示してくれたことは、本当に有難かった。
それが大学を卒業して就職した年、たまたま同じ駅に勤務していたのがきっかけで、時々酒を飲む間柄になった。もっとも、その頃貴之は中学生だったので、会うのは年に二回とか三回とか、そのくらいの頻度だった。
貴之が高校に入ってすぐ、恋人と別れたらしい由美子は少々荒れていた。グラスを傾けながら、大きく溜息をついた。
「貴之のこと考えてる、って言っておきながら、実際に話が進んでくると及び腰になるのよね。貴之くん、大学入ったら一人暮らしするんだよね、なんて満面の笑顔で言われたら腹立つじゃない。本人は気づいてなかったみたいだけど。……でもまあ、私も気持ちより打算で相手を品定めしてるわけだから、おあいこね」
そう言って苦笑いする由美子に結婚の話を切り出したのは、将生の方だった。あのような形で夫を失った由美子が、万が一自分の身に何かが起こった場合を考え、息子の身を案じるのは当然だと思った。だから貴之が成人するまで、後見人代わりとして婚姻関係を結びましょうか、と。
由美子は将生の性向を知っていたから、怪訝な顔をされた。
「寝室は別で、って? 私はいいけど、あなたにメリットが何もないじゃない。あのね、もし誠さんの件を今も引きずってるなら」
「ありますよ、メリット」
将生は由美子の訝しげな声を遮った。もちろん、平井の死について罪悪感は残っているし、生涯消えることはないだろう。結婚を申し込んだ一番の理由はそれだ。だが、決してそれだけではなかった。
「俺にとって、家族という言葉は空っぽで、中身がないんです。単語のひとつとして認識していても、それがどういうものなのか理解も実感もできない。辞書に書かれている外国語の文字列と同じです。だから、知りたい。メリットとしては、十分じゃないですか?」
あるいは三十を目前にして、漠とした不安があったのかもしれない。人生の天井が見え始めた閉塞感と、先行きの見えない不安定感。生温かいもやのかかった未来という地平の先には、特殊清掃のバイトで目にした孤独な死のにおいが漂っている。そんな毎日に、少しくたびれていた。
将生の話を聞いて由美子は腕を組んで唸ったが、まだ納得しかねるという風だった。
「でもね、あなたまだ若いんだから、これからいくらでも機会があると思うけど。養子縁組をする人たちだっているんでしょう?」
確かに、そういった形で社会的な縁を結ぶ者もいる。
だが将生に関していえば、由美子の提示した案が現実になる可能性は限りなく低いように思われた。
今まで関係のあった男たちとは、身体の結びつきだけで繋がっていたようなものだった。相手が入れ込んでくることはあったが、将生の心は冷たく平坦なままだった。表面的な関係はどれも、些細なきっかけで糸がぶつりと切れたように終わってしまった。たぶん自分は、人を愛するとか、情を寄せるとか、そういった能力が欠如しているのだろう。
その予想を裏付けるように、かつてつきあっていた男にこう言われたことがあった。
「お前とセックスしてると、取引先の人間と接待で寝てるみたいな気分になる」
なるほど、言い得て妙だと感心してしまったが、特に怒りも悲しみも感じなかった。その表現は真実をついていて、将生という人間そのものをよく言い表していた。
結局、一ヶ月にわたる熟考の果てに、由美子はやっと首を縦に振った。
とりあえずのゴール地点を貴之が成人する年と定めて、その途中でも、互いに好きな相手ができたらすぐに別れる。それが二人で決めた唯一のルールだった。
でも、と彼女は真剣な眼差しで告げた。
「仕事の契約みたいに、満期になったら終了。……人間同士の関係とか心の動きとかって、そんなにうまくいくものかしら」
言ってから、不安をうち崩すように楽観的に笑った。
「ま、それはそのときが来たら考えればいいか。というわけで、よろしくね」
差し出された手を握ると、力強いのに、驚くぐらい柔らかくて細かった。
こうして、年末も差し迫った仏滅の日、二人は婚姻届を提出したのだった。
寝室を別にした新婚生活は何事もなく過ぎていった。貴之の思いがけない反発を除いて。
高校生の継子が手放しで懐いてくれるとは将生も思ってはいなかったが、貴之はいつまで経っても他人行儀な態度を崩さなかった。
人の信頼を得たいと思ったら、誠意を行動で示すしかない。考えた末、これまで貴之が担っていた部分の家事を引き受けることにした。正直なところ、子供が家事をする姿に小中学生のときの自分が重なって、やりきれない気持ちになったという理由もあったのだが。
貴之の件で多少の摩擦はあったものの、「妻子」と生活を共にしていくうちに、家族、という語が辿々しい筆で毎日書き換えられていく実感はあった。
いってきます。
いってらっしゃい。
おかえりなさい。
ただいま。
ほんの短い挨拶と小さな習慣の積み重ねが、人を少しずつ、しかし大きく変えていくこともあるのだと知った。
結婚して半年が過ぎたある春の朝、両親よりも早く家を出る貴之を見送ってから、由美子が困ったように笑った。
「貴之、あなたに失礼なことばかりして、ごめんなさいね」
そんなことはないと言うと、由美子は小さく息をついて、悩ましげにこめかみに指をあてた。由美子に気を使っているわけではなく、将生に対する貴之の反応は、失礼、という語は当てはまらないと思った。ただ、心の距離があまりにも遠すぎるだけだ。そして、その距離をどうやって縮めたらいいのか、将生自身、答えはまだ見つかっていなかった。
たとえば、親としての立場を抜きにして、ひとりの人間として彼をどう思うか。深く考えようとすると、あの日見た貴之の眼差しが思い出され、同時に心に薄いもやが広がっていくのだった。
「普段、私以外の大人には猫かぶってるみたいにいい子なのよ。でも、将生くんに対する態度は本当にひどいわ。ひどいというか……まさかとは思ったんだけど、あの子、もしかして」
由美子は言いかけて、自分の台詞を否定するように首を振った。
「何でもない。確証もないのに変なこと言ったら、困らせちゃうだけよね、うん。もうちょっと様子見てみるわ」
ほんのりと兆した憂いを払い、由美子は薄く化粧を施した顔に太陽のような笑みを浮かべた。ソファに投げ置いていたバッグを手にして玄関に向かう彼女に、どうしてか、そのときに限って声をかけずにはいられなかった。
「由美子さん」
「ん、何?」
「ありがとうございます。それからすみません、貴之のこと」
真剣な表情で礼と謝罪を言う将生に、由美子は笑いかけた。
「あなたが謝ることじゃないわ。しょうがないわよ。家族の問題なんて、大なり小なりどこの家にもあることですもの。どんなにうまくいってるように見えてもね」
詳しいことは聞かされていなかったが、由美子が結婚早々に墓を買ったのも、その「大なり小なりある問題」が原因かもしれない。死んだ後にお墓の中でまで親子喧嘩したくないからね、と明るく言ってはいたが。
それに、と由美子は続けた。
「お礼を言いたいのはこっちのほう。将生くんと暮らすようになって、結構気分的に楽になったのよ。自分で思ってたより、気張ってたみたい。……今日、将生くんが夕飯の当番だっけ? この間作ってくれたパスタ、すごく美味しかったから、またあれがいいな。じゃ、いってきます」
いってらっしゃいと、将生は応えた。
早足で扉の向こうに消えていく由美子の後ろ姿を眺めながら、年の離れた姉のようでもあり、母親のようでもあり、戦友でもあった女性の背中が、ひどく遠くに行ってしまったように感じた。
それが、由美子と交わした最後の会話になった。
大型トラックにはねられた由美子は即死で、無傷だったのは傘を持っていた右手だけだった。
病院で遺体と対面したとき、貴之の前ではかろうじて抑えていた混乱がどっと押し寄せてきた。
どうして。どうして、どうして。
平井も由美子も、それから孤独のうちに亡くなった名も知らぬ人々も、ただ真面目に、静かに、誰にも迷惑をかけることなく毎日を暮らしていただけだ。皆ささやかに、しかし懸命に生きていた。
それなのに、なぜこんなにも悲惨な最期を迎えなければならないのか。
不思議と、元凶であるトラックの運転手を憎悪する気持ちは湧いてこなかった。存分に憎しみを叩きつけることができれば楽だったかもしれないが、実際にはただ泥が渦巻くような混乱しかなった。それが余計に苦しみを増した。
「いつかそのときが来たら、同じお墓でにぎやかに過ごしましょ」
墓を買ったとき、由美子は笑って言っていた。
そんなことをぼんやりと思い出しながら、自分でも気づかないうちに、すっかり冷たくなった手を握りしめていた。
ひんやりとした手。それは生前と同じようでいて、まったく違うものだった。血の気のない細い指に触れていると、自分の手の熱さが厭わしくなってくる。
厭わしい、そう思った瞬間、もはや握りかえしてくることもない白い手に、厳しく拒まれたような気がした。
こっちに来てはだめ。
あなたの手は、まだ温かいじゃないの。
将生は目を見張った。それまで、自分は半ば死んだような存在だと思っていた。何をも求めず、求められず。何をも愛さず、愛されず。
だが、自分は生きている。まだ、できることがある。
狂おしいほどの生の実感が、胸を苦しく締め付けた。
「貴之は俺が守ります」
きつく目を閉じ、由美子の手を額にあてた。
「誰よりも、幸せにします」
しかし実際には、その強い衝動を持て余すばかりで、彼のためになるようなことを何もしてやれないまま日々は虚しく過ぎていった。
由美子が亡くなってから、貴之との関係はさらに悪化した。元々、二人の間を繋いでいたのは戸籍と由美子の存在だけだったのだから、当然といえば当然の結果なのだろう。だが当然の一言を理由に、諦めることはできなかった。
息子の助けになりたい、そう思うのに、差し出した手はすべて手荒く突き放された。貴之は今や、距離を置くどころか全身から嫌悪感を放ち、将生を拒んでいるようだった。
半年間一緒に暮らしてきたはずだが、貴之が何を望んでいるのか、何に喜びを感じるのか、具体的な絵図を少しも思い描くことができない。
ある日の午後、たまたま出先で、貴之が同級生と一緒に歩いているのを見かけた。群れて歩く少年たちは、みな年相応に無邪気な笑顔を振りまいて、仲間たちと屈託なくふざけあっていた。
そんな中、貴之がふっと見せた表情だけが異質だった。多くの友人に囲まれているはずなのに、ひとりで何かと戦っているような孤独で厳しい横顔。出会ってから一年以上経つが、貴之が心から笑っている顔を知らないことに、そこでようやく気づいた。
そんな顔をさせているのは、自分の責任だと思った。
「君の方から誘ってくるなんて、珍しいね」
由美子が亡くなって三ヶ月後、田口と会った。
この変わり者の友人と話がしたいと思ったのは、ひとりで考えることに行き詰まりを感じていたからかもしれない。
二人が向かい合って座っているのは、ホテルのスイーツブッフェ。週末ともあって、幅広い年代層の女性客であふれかえっていた。男二人という組み合わせは当然ながら珍しく、時折からかうような視線を送られるが、田口も将生も全く意に介さない。この共通する独特の価値観だけが、似たところのない二人の、ほとんど唯一といっていい接点だった。
田口は酒が嫌いで、彼が行きたいと指定するのは大抵こんな場所だった。医者の不養生、とはよく言ったもので、田口の前に置かれた皿には山のようなケーキが盛られている。
「村沢、食べないの? 料金もったいないよ?」
「さっき食ったから」
「三つしか食べてないよね」
はあ、もったいない、と溜息をついてから、ずいと将生に詰め寄った。
「で、僕に何の用? 相談事があるなら早く言ってよ。君の辛気臭い顔見てると、ケーキが不味くなるから」
「お前に、聞きたいことがあって」
将生はコーヒーを含んでしばらく間をおいてから、ようやくその言葉を口にした。
「……人を幸せにするって、具体的にどうしたらいいんだ?」
「何それ、手垢の付いたプロポーズ? 君、時々すごく間の抜けたこと言うよね。あのさあ、そもそも相談する相手間違ってない? 僕独身だし彼女も彼氏もいないんだけど。もしかして、僕以外に相談できる友達いないの?」
同情の目を向けられて、将生は押し黙った。田口はケーキをぱくつきながら流れるように続けた。
「悪かったよ、聞くまでもないこと聞いて。で、誰を幸せにしたいわけ?」
「それは……」
言い淀む将生に、田口は躊躇いなく声をかぶせた。
「はいはい、言わなくてもわかってるよ。義理の息子さんじゃない? 当たりでしょ? 別に驚くことないよ。君って奥さんが亡くなって早々に次の恋人作るタイプじゃないし、人間関係狭いし、となると対象は自然と絞られるわけ。で、僕の回答だけど」
将生に口を挟む余地を与えず、田口は突き放すように言った。
「幸せなんて、ある特定の状況を表す言葉じゃないよね? 十人十色、それぞれが勝手に感じるものだよ。だったら、他人があげようと思ってあげられるわけないじゃないか。それって、人の心を自分の思い通りにしたいって欲望と変わらないよ。傲慢だね。もし僕が誰かに幸せにしてあげる、なんて言われたら、余計なお世話です結構ですって突っぱねるな。速攻で」
「……そうか」
その考えは一理ある。考え込む将生の口に、田口は無理やりフォークに突き刺さったケーキを押し込んだ。
「難しく考えないで、とりあえず美味しいものでも食べさせておけば? 好きなもの食べてるときに不幸な人間ってあんまりいないんじゃない?」
甘ったるい砂糖の固まりを咀嚼しながら、将生はなるほど、と頷いた。田口の言うことはいつも突飛だが、地に足がついていないわけではない。
「そういえば、息子さん元気?」
「ああ」
「高校生だっけ。難しい年頃じゃない?」
「まあ、そうだな」
「可愛げないし、汗くさいし、態度も図体もでかいし」
貴之の名誉のため、一応穏便に反論した。
「別に図体はでかくないし、汗くさくないし、態度は……あれだが、可愛いと思う」
「可愛いって、どこが」
将生は少し考えてから言った。
「そつなく何でもこなすように見えて、実は不器用なところとか。あとは」
「まだあるの?」
「毛の生えた動物が好きなところとか」
「……毛?」
「アザラシの子供とか、子犬とか子猫とか、柔らかい毛が密集して生えてるやつだよ。本人は否定してたが、携帯の待ち受けがいつもそんなのだから」
「毛が密集って……相変わらず言葉選びのセンスないねえ。ふわふわとか、ふかふかとか、もふもふとか、ぴったりの形容詞が色々あるだろ」
「他には……」
「わかったわかった、もう十分!」
うんざりした顔で言い捨ててから、ふうん、と田口は気がなさそうに苺を口に放り込んだ。
「村沢って自分にも他人にも興味ないんだと思ってたけど、案外いいお父さんやってんだ。いきなり父性に目覚めたの? でもさ、あんまり本人とか僕以外の人間の前で可愛いって言わない方がいいと思うよ。いやらしいおじさんにしか見えないから」
「いやらしい、おじさん……」
将生は愕然と繰り返して、そっと頭を抱えた。
その言い回しが適切かはともかく、貴之のことを考える度に胸を苛むこの逼迫した感情は、田口の言う通り、突如芽生え始めた父性なのだろうか。うまく収まりすぎている気もするが、それなら合点がいく。
田口の助言をふまえて、それから自分なりに料理の勉強を始めた。味付けを変えて、レパートリーも増やしてみた。
しかし、どんなに料理の腕を上げても、将生の作った食事を口にするときの貴之はやはり無表情だった。義務的に噛んで、飲み込む作業をしているだけのように見える。そこに喜びや楽しみのようなものは一片も感じられない。弁当を捨てられていることに気づいたのもこの頃だった。
幸せにするどころか、人の暮らしにとって最小限必要な衣食住、そのひとつすら満足に与えてやることができないのだ。
ひょっとしたら、むしろ将生の元を離れて生活した方が、貴之のためになるかもしれないと考えたこともある。だが、根拠のない確信があった。将生の側からそんな話を持ち出したら、関係を改善する機会は永遠になくなるだろうと。
しかし、改善する機会云々の前に、貴之との関係は泥沼に入り込んでしまった。もがけばもがくほど深みにはまっていくような、底の見えない沼に。
身体を売っているのが露見して貴之が家出をしたとき、行く先の手がかりがないかと思って、息子の部屋を探った。普通なら気が咎めるような行為だが、そのときは後ろめたさよりも焦燥感の方がはるかに勝っていた。だがどれほど探しても、それらしいものは何も見つからなかった。
不自然な場所に置かれた英和辞典に目が留まったのは、ほんの偶然だった。他の辞書類とは別の場所にしまいこんであったことを不思議に思って、深く考えずに箱から出してみたとたん、何十枚もの一万円札がばらばらと床に散った。
大切に、大切に、きれいに整理されてしまわれていた紙幣が、音もなく宙を舞っている。床から、紙幣に描かれたいくつもの顔が将生を見上げていた。
将生は呆然として、その光景を凝視した。
それまで貴之の胸にだけ秘されていたものが弾けて、一気に明らかになった気がした。
遊ぶ金を稼ぐために売春をしていると貴之は言っていたが、彼の性格から考えて、その理由はとても納得できるものではなかった。だから、まだ何か隠しているのだろうとは思っていた。
貴之はきっと、将生の所から逃げる準備をしていたのだ。そのためにあのプライドの高い貴之が身体を売って、金を貯めていたのだ。
鳥の羽のように揺蕩う紙切れは、自分への不信と不安、そして大切な人を失った深い悲しみそのものだ。
大きな思い違いをしていた。
十七歳といえば、身体のつくりも言動も、一見すれば成人と変わりない。だから表面上は子供として扱っていても、無意識のうちに考えていたのかもしれなかった。貴之は大人と同じくらいの分別を持つ、聡明で自立した少年だと。
だがどんなに大人びた言動で隠していても、貴之はやはり子供だった。ひとりの小さな子供に過ぎなかった。
子供が目的を達成しようとするエネルギーは凄まじいものがある。だが、目的に至るための手段がめちゃくちゃだ。売春をして、その口止めのために身体の関係を結ぼうとして、失敗した挙げ句の家出。
身体中から、嫌な汗が噴き出した。
取り返しのつかないことをしてしまった。
今もなお腕の中に残る鮮やかな感触。泣きじゃくりながら抱いた、大人より少し高い体温、頼りない柔らかな肌、それから無邪気に縋ってくる重み。軽くて小さな、けれど確かな人の重さ。
突如襲ってきた息苦しさに耐えきれず、掌に顔を埋めた。これまで傍観者として見過ごしてきた他人の、そして自分の感情が、一気に押し寄せてきたようだった。
妻と子を持つこと、家庭を築くこと。
覚悟はしていたし、決して軽く考えていたわけではなかった。
しかし、そんな覚悟くらいでは全く足りなかった。大切にするつもりが、逆に傷つけて、苦しめていた。
今まで理解できないままに見よう見まねで築き上げてきたものが、根こそぎもっていかれたような気分だった。
そう思った瞬間、耳の奥に季節外れの蝉の声が蘇った。
ペンキで塗りつぶしたような青い空、埃っぽくて静かな教室。
それから、苦痛を耐える平井の眼差し。
将生はうなだれて、一万円札の散らばった床に座り込んだ。
目を閉じると、瞼の向こうには黒々とした闇がどこまでも広がっている。
どうすればいい。どうすれば、この沼から抜け出せる。
平井の力強い腕が、将生を沼底から引き上げてくれたように。
問いかけたところで、深い懊悩に応える者などあるはずはない。あるはずがなかった。
けれどそのとき、とん、と見えない手に背中を優しく押された気がした。
……無理も背伸びもしないで、そのとき自分にできることをすればいいんだ。
それは、蓄積した疲労が見せた錯覚だったのかもしれない。幻聴だったのかもしれない。
だが、将生は促されるように立ち上がり、足元に絡みついた迷いを振り切ると、貴之の姿を求めて夜の街に飛び出した。
自分でも、馬鹿だと思う。
目的に達するための手段がめちゃくちゃなのは子供だけではない。追いつめられた大人だって同じだ。
あてもなく外に出て探し回ったところで、貴之が見つかるわけがない。
こんな感情的な方法で、問題が解決するはずがない。
そんなことは、わかっているのに。
将生は顔を歪めた。
平井への罪悪感も由美子への義務感もはるかに凌駕する、この生々しい衝動と執着は、父性なんてきれいなものではないのかもしれないけれど。
自分は欠けたところばかりの男で、不甲斐ない父親だけれど。
田口が言っていたとおり、それはきっと、善意に見せかけた醜い欲望のひとつなのだろうけれど。
今度こそ、きちんとあの目と向き合おう。
どんなに弱いものでも、その声を拾い上げよう。
不安にさせたことを謝ろう。
そして、やり直したいのだと伝えよう。
そこまで想像して、この手でできることなんて、やはりたかがしてれていると思い知らされる。
これまで己の生い立ちに引け目を感じたこともなく、絶望したこともなかったが、人を想う術を持たない自分をはじめて惨めで情けないと思った。
けれど。
決然と顔を上げ、将生はその言葉を噛みしめた。
絶対に、貴之を……。
日常にせき立てられるうちに、歳月は瞬く間に過ぎていった。やがて、由美子の命日を片手で数えるには足りないほど重ねた頃。
世間的にも実際上でも、二人は未だ家族という形をとって、同じ家で寝起きしていた。
ずっと共に過ごしていたわけではなかった。それぞれの研修や転勤で別々に暮らした期間は長く、勤務地の関係で何度か引っ越しもしている。
けれど年を経るごとに、互いが、互いの帰るべき場所そのものになっていた。
ある晩の深夜、勤務先である大学病院から帰宅した貴之は、リビングに入ってくるなり、スーツの上着を投げ捨てるように脱いでネクタイを緩め、ソファに横になった。
「飯は?」
ちょうど風呂から上がったばかりの将生が尋ねると、ソファの向こうから、いらない、明日の朝食べるからとっておいてくれと、細い返事があった。
将生は熱い日本茶を入れて、ソファの横にあるテーブルの上に置いた。
守秘義務もあって、貴之は家で仕事の話を滅多にしないが、ひどく疲れて帰ってくることも多かった。携わっている仕事の性質上、きっと将生が想像する以上に、目を背けたくなるようなものを見てきて、打ちのめされることもあるのだろう。
すぐに引き下がろうと立ち上がりかけた将生の腕が、後ろから強く掴まれた。
触れた掌から伝わってくる思いは切実で、駆け引きと呼べるほどこなれたものではなかった。
「顔、見せて」
ゆっくりと振り返ると、貴之は躊躇いがちに距離をつめ、そっと胸に顔を埋めてきた。
「普段より激しくしてください」
濡れた舌先で唇をなぞりつつ、ねだるように首に腕を回してくる。
「……何も考えられないくらい、ひどくして」
いつもながら、貴之は要求が多い。
あるときは素直に、あるときは羞恥や悪戯心から、本当の望みとは逆に。
身体と心を解きほぐして、その答えを求める。求めながら、沈黙のうちに囁きかける。
いいんだ、もっと我が儘を言って。甘えて、困らせて、要求をぶつけてくれていいんだ。
同じ苦しみを分かち合うことはできないかもしれないが、お前はいつも、ひとりで背負い込んで、我慢して、自分を責めてばかりなんだから。
髪に少しだけ残る、消毒液のにおい。微かに潤んだ眼差しに浮かぶ、仕事を終えた人間の疲れと憂い。
貴之はもう子供ではない。対等な視点を持った大人の男であって、とっくに庇護の対象からは外れている。自分で選びとった道を、自分の足で歩いていくための知識と経験を備えていて、人生にたちむかう勇気を、自らの手で幸福をつかみ取る力を持っている。
それでも、布越しにほのかな体温を感じると、昔と同じように愚かな願いを抱かずにはいられなかった。
お前を幸せにしてやりたいよ。
将生は目を伏せ、貴之の背中に優しく触れた。
彼と出会うまで、何かにしがみつくこともしがみつかれることもなかった。周囲と自分を切り離して、現状に対処していくだけの人生だった。人間らしい感情なんてものは、いつも対岸から眺めているだけの遠い存在だった。
ひとりでいることが当然の状態であって、寂しさなど感じたことはなかった。孤独に気づきもしなかった。
将生も貴之も自立した存在だ。それぞれの完全に別の生活を営むこともできる。むしろその方が自然で、気も楽だろう。人と暮らすのは、やはり多少なりとも煩わしさがあるものだ。
だが、もう昔のようには戻れない。持たざる者の身軽さと強さを持つことはできない。誰かと寄り添う心地よさを知り、どんどん欲深くなっていった。薄っぺらな紙切れのようだったいくつもの言葉に厚みが加えられていく。それは、ときに痛みを伴うこともあったけれど。
人生、家族、そして……。
視線を交わし、互いの手を握りあう。
それから、望むままに唇を吸い上げて、縺れあうように肌を求めた。
ぎこちなく、辿々しく、身を寄せ合って。
小さな巣を必死で守りながら、つがいの真似事は続いている。
(終)