組章
 この中学校の学生証には、虫眼鏡でもなければ見えない文字で、ヒステリックな女が叫ぶみたいに、以下のような内容が記されている。光沢のある小さな濃紺の布に校章と組章の両方をつけ、さらにそれを学生服の胸ポケットにピンで留めること。上は校章、下は組章。組章は学年ごとに地色が決まっていて、そこにAだのBだのCだのといった、クラス名が刻まれているわけだ。
 さて、この組章には、あるひそやかなメッセージがこめられていることがある。左に回せば「恋人募集中」。右に回せば「恋人がいます」。
 先週、あいつのは左に傾いていた。今日見たら、右に曲がっていた。
 だから休み時間、何気なく聞いてみた。
「おまえさ」
「ん」
「いるの?」
 自分の胸元をとんとんと指差す。やつは、あれ、と声をあげた。
「やべえ、ねじ、ゆるくなってた」
 そういいながら、組章をいじくる指先を、口に唾をためながら、じっと眺めていた。
 
少年
 女というのはまこと恐ろしい生きものだ。人の個人的な領域に断わりもなくずかずかと踏み込んできて、それを嗜めると、途端に不機嫌になる。そうして、例の決まりきった文句を言うのだ。
「あなたのためを思ってしたのよ」
 誰も頼んじゃいない。しかし、もしうっかりそんなことを口にしようものなら、神経質にきいきい泣き叫ぶ声に追い詰められる。
「何が悪いのよ、どうしてわたしが責められなくちゃいけないの」
 と聞くから、道理にかなった答えを返すと、理解できないとばかりに、ふたたび激情の炎が瞳の奥にゆらぎはじめるのだ。
 やがて最後には、涙まじりの脅迫でにじり寄ってくる。
「だって好きなんですもの、仕方ないじゃない」
 手負いの獣のようだ。まったく恐ろしい。その柔らかく白い腕で、愛の名のもとに魂までも絡めとるつもりなのだ。
 だから彼が好きになったとき、勝ったと思った。
 彼の仕草が好きだった。肌に触れると心底嫌そうにするのが、うっすら開けた目が屈辱にだんだんと潤んでいくのが好きだった。背中の肉に食い込むほど指に力をこめるのが好きだった。眼差しに浮かぶ、挑みかかるような強い光が好きだった、それが次第に恍惚に変わっていくさまを眺めるのもまた。
 道を歩く女の胸に自然に目がいくのとは違う。彼の胸は平らだし、口づけは鮮やかな紅をうつすことなく、生ぬるい唾液の味しか残らない。頭がはれぼったくなるような狂気もないし、夢もなければ希望もない。陶酔のあと、布団の上に絡みつくのは、背を這うようなおぞましさだけだ。
 ここまで考えて、嬉しくなった。心のなかで万歳をした。
 ぼくは遺伝子の見せる幻に勝ったのだ!
 鳥の巣のように散らばっている制服をかきわけ、彼の髪にそっと唇を寄せた。それから布団にもぐりこむと、心地よい勝利の陶酔を胸に、そのまま体が命じるままに眠りを貪った。
 
影を夢みる
 糊のきいた制服のシャツ、洗いざらしの洗濯物の香り、それから、瑞々しい肌ににじむ青草のようなにおいの汗。それを目の前に突きつけられてはじめて、ぞっとするような、妙な背徳感を覚えた。捨て置いたはずの倫理観がよみがえり、思考が停止する。
 止まった指先から、その戸惑いを敏感に感じ取ったのか、彼はついと視線を向けてきた。
 そうして、軽蔑を隠すことなく言った。
「逃げるのか」
 子どもはいつもそうだ。答えられない質問ばかりする。
「大人はいつもそうだ。自分だけが悩んでるって顔しやがる」
 苛立つそのまなざしを、どこかでみたことがある。今、この手で犯しているのはそう、むかしのわたしだ。
 
指先
 今日は朝から様子がおかしかった。いつ見ても、左手が不自然に握られている。授業中、休み時間、それに給食のあいだもずっとだ。
「怪我でもしたのか?」
と思い切ってたずねると、彼はばつが悪そうに、机の下の暗がりで、そっと手を開いて言った。
「姉ちゃんと昨日けんかしてさ、朝見たら、やられてた」
 つめに塗られた淡いピンクのマニキュア。思わず吹き出した。
「笑うなよ!」
「だって」
「学校来る前に落とそうと思ったんだけど、こすっても、洗ってもぜんぜんだめ」
「除光液じゃないとむりだって」
「何それ」
「マニキュア落とす薬みたいなの。姉ちゃん持ってないの?」
「持ってても貸してくれるわけないじゃん、あの野獣がさ。ことば通じないし」
「じゃあ、あきらめてずっとしてれば?」
「ばか言うんじゃねえ」
 確かに彼の言うとおりだ。透明感のある、五つの薄紅のかけらの輝きは、その指にまったく不釣合いだった。手だけではない。その表情も、黒い学生服も、かすれた声も、大声で不協和音を叫んでいるようだった。
 その不恰好さに、つい、乾いた笑いがこぼれてしまった。
 違和感をすぐに察知できるほど、日に何度もその指先を眺めている、自分の視線とそっくりだったから。